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自然の摂理

むかしからの持論ですが、徐々に確信に変わりつつある食事の理論。それは、あくまでも自分のカラダの欲求に従っておけば問題がないということ。ただ、アタマが邪魔をするのでカラダの訴えをきちんと聞き取る能力を磨かなければならないことが問題ではあるけれど。

いつ食べるのがいい、いつ食べてはいけない、こういう食べ物がいい。こういうものならどれだけ食べてもいい。こういうものは少量でも毒である。こういう食べ方が血糖をあげない。誰もがリクツを求めたがるけれど、実は求めているのはアタマであって、カラダは理屈なんて初めから求めてはいない。必要な時に必要なものが存在すればいいだけのことだから。それが自然の摂理だし、それが神様が創りたもうた存在の本質なのだから。ところがアタマは将来のことばかり気にして心配ばかりするものだから、つい食べられなくなった時のことを考えてしまうらしい。蓄えられるときに蓄えておかなければ。その性質を生み出すために「欲望」という概念も創りたもうた。「食欲」ではない。食欲は食べたいときに食べたいという欲求であり、生きとし生けるものが生きるために備えられた基本的な欲求である。「ほしい。あるだけほしい。なくてもほしい」という欲求。「物欲」かしら。

これは人間にだけ準備された、神様からの昇級試験のためのグッズらしい。これが必要なくなったときに、ヒトは昇天するのだそうだ。だからヒトは自らのカラダの訴えが聞こえなくなる。子どもの頃には聞こえていたのに、ある時突然聞こえなくなり、大人になって、聞こえてはいるけど聞き流すようになり、再び卒業の頃が近づくと聞こえ始める。

「食べたくなくても食べないと、病気になるよ」と云われても、食べられない。そんな人に点滴してでも生きながらえさせようとするのは、昇級試験を邪魔しているだけなのじゃないかと思うが、もう卒業は決まっているからそんなことをしても何も変わりはしないだろう。方や、何歳になっても意地でも食べるヒトは確かに元気。まだまだやりたいことがたくさんあるのだ!という意思の証。煩悩の塊のようなヒトは大メシ食って黙っていても社会と繋がろうとする。これまた自然の摂理でありましょう。

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