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2017年7月

「やせなきゃいけませんよね?」

「やせなきゃいけませんよね?」

人間ドック受診者のみんながみんな、こう云うのですよ。どうしてなのでしょう? 一体いつからこうなったのでしょう? おそらく、医療従事者や保健師さんやテレビコメンテーターやあるいは健康商品販売のメーカーやから常に刷り込まれてきた結果、洗脳されているのだという印象です。

なぜ、「やせなければいけない」と思うのか? やせないと健康に悪いのか?というか、やせたら健康になるのか? 「やせたら何もかもがよくなりますから、とにかくやせましょう!」という保健指導をしている健診施設があると聞いています。でもそれは違う。努力して生活改善に取り組んだ結果として、メタボのお腹が小さくなって体重が減ることはあっても、無意味にダイエットしても良くならないものは良くならないし、やせる必要のない人がやせたらかえって健康を害することもあるということ、もっとあからさまに云ってほしい。世の中、やせた人が勝者で、やせられなかった人が敗者、という構図こそが正義のように云うもんだから変なことになるのだ!

「出っ張ったお腹がカッコ悪いから」とか、「モテたいから」とか、「娘に嫌われるから」とか云う理由でやせるのは全然問題ないのです。もちろん、目標を『やせること』にしてもなかなか達成できないのだけれど、目標を『やせること』にしないとなかなかモチベーションが維持できないし、『やせること』以外を 目標に掲げると、なんか逃げた感じ、姑息な感じになるのも事実です。

目標は何でもいいのだけれど、「ただやせたらいい」というわけではないことはお忘れなきように。

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記憶削除術(後)

(つづき)

むかしもそういうポカをする連中はいたけれど、彼らは少なくとも指摘されれば依頼を受けたことは思い出せていたし、「忘れていた」という失敗感覚を持ち合わせていました。でも最近の輩は、依頼を受けたこと自体を記憶から消すので、「お前が勘違いしてるだけだろ」みたいな顔でわたしをみる。一体何が変わったのだろう?と考えるとき、きっと彼らはメモする習慣がないからなのではないか、と感じました。重要事項を写真に撮ったり電子媒体に書き込むことを日常とする彼らは、アナログ的なことができず、云われたことを脳内に書き込む能力すら退化させたのではないかと。

彼らを見ていると、今問題になっている官僚たちや大臣たちの言動・・・「記録にないからわからない」とか「会って話した記憶はないから指示したこともない」とかいうのは、一概にウソをついているわけではないかもしれない、と思うようになりました。日常から似たような仕事を大量にこなす彼らは、くだんの彼のように、無意識に即座に取捨選択して、捨てた事例は全ての事実を脳内の記憶装置から消し去る能力を持っているのではないかしら。きっとそういう輩の方が出世できるのでは? まあ、一般社会の一般常識人には理解できないことですし、今話題に上がっている連中は、おしなべてみんないい歳の連中ばかりですが。

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記憶削除術(前)

彼は、一度に複数のことを依頼すると「はい、わかりました」と答えて、一番重要だと自分で判断したもの以外を瞬時に記憶から抹消する能力がある。だから、1週間後に「あれはどうなった?」と聞いたら平気で首をかしげる。依頼内容ではなく、依頼されたこと自体の事実を覚えていない。他の連中は、1つのことを依頼すると「はいわかりました。後でやっておきます」と快く引き受けてくれるが、その後に他で別の依頼を受けるとその時点で全てを上書きするようで、翌日に出会ってまだ何もしてくれていない依頼事項が目の前にあっても、「お疲れ様です」と元気よく挨拶して通り過ぎて行く。完全に何もかもを忘れているようだ。

もう、慣れっこになったから、いちいち文句は云わないことにしている。彼らはおしなべて若い。彼らは注意しても無駄である。最初はいちいち指摘していたが、結局同じことをくり返すから、彼らはこれらを修正する能力を持ち合わせていないと思われる。というか、自分の機能欠如を自覚していないから修正のしようがない。最近、こういう輩が組織の中堅クラスに多くなってきていて、「大丈夫なのかなあ」としみじみ思うのですが、まあ、わたしの組織ではないし、「いいかな」と諦めています。(つづく)

 

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常識だと勘違い(4)コグニサイズ

「認知症予防には運動、特に有酸素運動が有効である」・・・これは揺るぎのない事実として一般社会でも常識となって来ていると思います。単なる認知症一般だけではなく、Alzheimer病などの具体的な病気にも有酸素運動が有効であることは証明されています。運動習慣があると記憶中枢である海馬が大きくなって記憶機能が改善するとか、Alzheimer病の主因をなすアミロイドβの集積が少なくなることなどが云われています。 「運動すると認知症が予防できる。でも人間には運動欲がなく、しなくていいなら動きたくないというのが常。つまり、人間は面倒くさくなったときから歳を取る」と、わたしも人間ドックの説明時には何度も叱咤激励をしています。

ところが、この運動による認知機能低下予防効果は、実は運動だけではそんなに強くないのだそうです。運動と一緒にアタマを使う(アタマを使いながら運動する)とか、他の人とのコミュニケーションをはかりながら運動するとか、そういう複合的な組み合わせが必要なのだと。これを実現させるのが『コグニサイズ』です。簡単な計算をしながらステップ踏みをしたり、となりの人としりとりをしながら運動をする、などのプログラム。

認知症予防のために運動したり意味のない計算をしたりするのは、虚しいことで、レクレーション的に楽しみながら運動をする教室の名前がきっと『認知症予防教室』になるだろうと考えるとなんか癪に障るわたしですが、誰とも話さず黙々と軍隊の行軍のような運動をしても脳は歳を取っていくのだとしたら、やっぱり仲間や夫婦で楽しく会話しながら散歩するのが人生にとって一番良い方法なのだろうことは理解できます。

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常識だと勘違い(3)スマホ睡眠障害

中高生に広がる「スマホ睡眠障害」

LEDやブルーライトが人類(人類にだけでなく生命体すべて)にもたらした最大の悪は、体内時計(概日リズム)を破壊したことです。「ブルーライト症候群」についてはここでも何度も取り上げましたし、体内時計(概日リズム)やメラトニンのメカニズムもかなり興味を持って10年近く前から勉強してきましたから、あまり心躍らない内容ですが、これもまた世間の老若男女の皆さんがしっかり知っておかないと人生に影響を与えてしまう障害になる可能性があります。

朝一番に太陽の光を浴びてその光が目を通して視床下部に到達すると体内時計がリセットされて、その14時間後に眠くなる。その作用を調節するのがメラトニンという物質で、メラトニンが分泌されると眠くなり分泌が落ちると目を覚ます。この神が造り賜うか繊細なるリズムの仕組みが、文明の象徴であるLEDや液晶画面のブルーライトを夜見ることだけで破壊されていく・・・眠るべきときにブルーライトを見ると朝と同じ覚醒作用をもたらしてしまい、眠るべきときに眠れなくなり、体内リズムがおかしくなる。人は眠っている間に細胞修復をしたり記憶の整理をしたりするけれど、それがどれもできなくなる結果、うつ病や睡眠障害だけでなく、多くの生活習慣病を引き起こすのだという。

こういうことはもはや常識。それでも文明の象徴であるLEDや液晶画面のブルーライトの魅惑の切れ味は人のアタマを簡単にイカれさせるわけです。特に中高校生たちは夜寝るときに部屋を暗くした挙げ句にスマホをいじり始める(まあ、中高生だけでなく、不良アラカンオヤジのわたしも同じことをしていますが)。メラトニン分泌を促す時間帯に一気に覚醒シグナルを送るわけだから、眠くなるはずがない。オソロシヤオソロシヤ。

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常識だと勘違い(2)腎性低尿酸血症(後)

(つづき)

腎性低尿酸血症は腎臓で尿酸の再吸収が行われないで尿中に排泄されてしまうのが原因で、腎近位尿細管レベルでの尿酸トランスポーターという機能の遺伝子変異が関与しているそうです。日本の患者さんは、男性0.2%、女性0.4%で約40万人弱いると推定されています。以前紹介したときには、定義や原因がどうであれ、問題は対処法なのであって、そこの部分があやふやだったらいたずらに不安を募らせるだけだから、それなら騒がない方がいいのではないかと思っていました。今回、そこの部分に若干具体的に触れてくれていました。運動後急性腎障害の予防として推奨されるのは、運動前の十分な水分摂取、NSAIDs服用後の運動を控えるなど。活性酸素抑制効果のある薬剤の運動前服用はエビデンスが不十分。また、一度急性腎障害を起こしたことのある運動で再発しうるので同じ運動は控えるべき、とも。腎結石予防は十分な水分摂取と尿をアルカリ化させるクエン酸製剤を飲むこと、だそうです。

少なくとも、ガイドライン作成委員の医師としても、当の腎性低尿酸血症の患者さんとしても、この疾患の存在を世に知らしめすことができたことが最大の成果だということ、よくわかります。でも、4月にガイドラインが発表されたことなんて世の臨床家のどれだけが知っていたでしょう。それこそこの病気の発症頻度より少ないかも知れません。とにかく世間に周知できるまでには地道な啓蒙活動が必須だと思います。

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常識だと勘違い(2)腎性低尿酸血症(前)

ということであらためて簡単にご紹介します。

今年の4月に世界で初めて『腎性低尿酸血症診療ガイドライン』というのが作成されました。ここでも一度紹介したことがあります。

尿酸が血中に多いと痛風になるとか動脈硬化が進むとかで皆が知っていますが、方や低い方はせいぜい尿管結石を引き起こしやすいことくらいしか気にするものがないから医療者でも問題視していませんでした。ところが、運動後に急性腎障害を起こす原因のひとつに血中尿酸値が低い『腎性低尿酸血症』があることが分かってきたのです。尿酸は抗酸化物質なので、運動で発生した活性酸素などを中和する作用を備えています。それが少ないと腎血管の収縮が強くなって血流低下(虚血)が生じるのだと説明されています。

わたしはプロスポーツ選手並の強烈な運動をしない限り大丈夫だと思っていましたが、短距離走やサッカー、自転車競技などの比較的短時間に強い無酸素運動をした後1~48時間程度で背部痛や吐き気をひき起こすそうで、意外に一般の運動好き人間たちも罹患しているかも知れません。尿量は減らず色も赤くないし、採血検査をしてもあまり激しい筋破壊所見がないのが特徴というのは知っていましたが、非ステロイド性消炎剤(NSAIDs)服用後の運動で起きやすいというのは初めて知りました。基本的に運動大好き人間は常にあちこち傷めていますから、消炎鎮痛剤の常用をしている人は少なくないでしょう。  (つづく)

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常識だと勘違い(1)

わたしが予防医療の世界に入ってきた16年前、目に入るものがことごとく新しい内容で新鮮でした。臨床をやっていた頃には知らなかったことがてんこ盛りで、健康講演などで話すネタに事欠きませんでした。なにしろ、自分が驚いて「すごいでしょ!」というトーンで話していましたから、講演するのが楽しくてしょうがなかった。ところが、最近、あまり心が躍りません。「へえ」と思うことは都度都度にあるのですが、情報を一、二度見てしまうと、もうその時点でその情報は世間でも常識になっていることだと思い込んでしまうのです。テレビなどでやっているのをみると、もうこれは世間一般の皆さんが知っている内容だから、「どうです、すごいでしょ?」とかいう上から目線で話していると、「そんなこと、知っとるわい」と苦笑いされるのではないかという恐怖心に襲われます。だから、あまり講演をするのが楽しくなくて、できるだけお断りするようになってしまいました。

今回日経メディカル2017.7月号に掲載されていた項目の『運動後急性腎障害の陰に低乳酸血症』とか『中高生に広がる「スマホ睡眠障害」』とかをさらっと眺めながら、どれも知っていることばかりだから真新しくないな、と読み流しかけていたわけですが、『腎性低尿酸血症診療ガイドライン』の記事の中に、「ガイドラインを出すまでは、医者の間でもこのような疾患があることすら知られていなかった」と書かれていて、ハタと気がつきました。わたしたちは専門領域の最先端医療のことはあまり知らないけれど、予防医学の情報は最初のマニアックな時期から耳に届き、目に飛び込んできています。自分にとって常識でも、世間が常識として認識するためにはかなりの年月と啓蒙活動が必要であることを意識して、「今ごろそんなこと偉そうに云ってるんですか?」と馬鹿にされるまでは偉そうに云い続けることこそがわたしたちの使命だと再認識させられました。

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謝り方を知らない

某国の首相が「説明責任を果たす」「国民が納得できるように丁寧に説明する」と息巻いていますが、なんとなくどうでも良い気がします。「自分がやったことがいかに正しいか、間違ったことは何もしていないし、ごり押しをするような指示などひとことも云っていない」と云うことを「責任を持ってお伝えしたい」と云うのだろうと想像するからです。

一般社会の会社や組織の中でもよくあることですが、組織の長になる人の責務は、自分の行為に非がないかどうかということではなく、周りが勝手に誤解して忖度したりする空気を作らせたこと、そういう風土を容認してしまったことに対する釈明です。「わたしの知らないところで勝手にやったことだ」では済まないし、記録があるとかないとか証拠があるとかないとか、そんなことはどうでもいい。というか、大の大人なのだから、それも最高学府を卒業したエリートたちがほんの数ヶ月前までにあったことなんて忘れるはずもなく(忘れているとすればいつもそんないい加減な仕事しているのが官僚だということになってしまう)、世間の人たちはほとんど何が起きたのかは想像できているわけです。本来、政治の世界はこういう感じでうまいこと成り立ってきたし、上の者が何も云わなくても下の者が慮ってまつりごとを行うというのは、太古の昔からやられていた習わしです。

だから、どうしてこんなことになったのかの説明責任の遂行の中で、「わたしが悪かった」と謝ることを絶対に避けては通れません。ただ、いかんせん、今の首長は”言い訳をせず”に謝ることを知りません。「わたしは何も悪いことはしていない、何か問題があったとしたらわたしの伺い知らないところで起きたことだ」と強く主張する。おそらくそういう環境の中で成長して来ていないからやむを得ないし、この人に限らず、国の首長は簡単に謝ってはいけないのだとみえる。それをしたら社会が成り立たなくなるのだ、ということかもしれません。

だから、今となっては国のことはどうでもよい。どうせ、野党も大したことはできないし、子どもの喧嘩のような時間が過ぎて終わるだけでしょう。ただ、この茶番を眺めながら、少なくとも自分たちの現実の組織の中ではこんなことは間違ってもやってはいけないし、今回のことをそんな反面教師のような教訓にすべきだと思っています。

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標準化と職人技

定期的に投稿する機関誌連載コラム夏号が発行されました。今回は完全にここで書いたものの組み合わせで新しい内容ではありません。

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『標準化と職人技』

以前、ある有名なプレミア日本酒の話をラジオで聴きました。このお酒、ちょっと他のプレミア酒と違います。普通、おいしい酒というものは腕のいい杜氏の経験と力量が作り上げた芸術品です。ところがこの酒蔵の酒はその配合の仕方や細かい作り方まできちんとマニュアル化されているらしい。「誰が作っても同じ高品質の酒ができるように」というコンセプト。それによって、世界中どこでも同じおいしい酒が製造できる、というのです。

標準化・・・それは良いことだと分かっていますが、本当にそれで良いの?という気持ちも払拭できません。職人のさじ加減で1つ1つに微妙な違いがあることもおいしい酒を造る上で大事なのではないか。私たちの仕事で言えば、担当する医者によって説明内容が変わるのは良くない、医者によって治療方針が変わるのはおかしい、だからガイドラインを作成しパスに乗っかって標準化するのがよろしい、と言う。その方が質の高いサービスが同レベルで提供できて、受ける側のメリットも大きい。ただ、それでも最後に担当医師の価値観と経験値が加わります。同じことを言われても、医師の言い方次第で違う印象になることは少なくありません。それならむしろ無機質なロボットの説明の方がマシだという意見もありましょうが、少なくとも私は、相手がヒトである以上、最後はヒトとしての対話が不可欠だという考え方を変えることができません。

先日、ある自動車部品製造会社の特集をテレビで見ました。そこの製造機械はとても繊細な動きをするのですが、その正確でソフトな身のこなしはすべて優秀な職人さんの動きを忠実に模して作成されているのだと聞いて驚きました。一番効率の良い動きは、“計算された機械的な動き”ではなくて、“経験のある熟練した職人の動き”だという結論に達したという。”職人“と呼べる人が少なくなっている現代社会では、匠の技をプログラミングして後世に確実に引き継ぐ方が得策なのかもしれません。でも、このやり方では、結局過去の成功確率を上回ることができません。匠が匠でありうる所以は、自分で試行錯誤しながら創意工夫して新しい自分を作り上げようとしていることです。100%の完成品には100%の魅力しかありませんが、匠たちは100%以上のモノを常に造り出そうとしています。進化や発展というのは、そういうことだと信じます。

AI(人工知能)は、失敗体験を蓄積しながら学習する能力だけでなく、失敗や成功の概念以上の世界に昇華する力を持ち得るようになるのか・・・将棋や医療の世界を凌駕しようとしているAIのこれからに期待してもいいものでしょうか?

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7つは多すぎ

血圧改善のためのシンプルな7ステップ

むかしから医療現場ではこの「7つの・・・」が鉄則です。あるいは「10個の〇〇」。脳卒中にならないための10の生活習慣、健康で長生きするための7つの生活習慣、●●の7つの法則・・・そんなのと同じように、アメリカ心臓協会(AHA)が提唱する“Life's Simple 7”も発表されて数年経ちます。これの成果の研究が「Hypertension」6月26日オンライン版に掲載されたということでCareNetに報告されていました。

「禁煙」「健康体重の維持」「健康的な食事」「身体活動の継続」「血糖値の管理」「脂質値の管理」「血圧値の管理」・・・この7個の健康的な生活習慣を続けると高血圧リスクが低減する、というものです。

これをシンプルで簡単な生活習慣として並べることに異論はありませんが、シンプルで簡単ではないのは、「この7つをすべて行うこと」です。実際、研究対象の米国黒人の中に、7個全てを守っていた人はひとりもいなかったのです。まあ、当たり前といえば当たり前ですかね。「全部でなくてもいいからひとつでも多く励行するほどリスクが下がる」ということを云いたいのだと思いますけれど、この手の生活変容に関わる項目は7つとか10個とか多ければ多いほど、「わたしには無理」と投げ出しがちです。できたら、病気の定義の『○○の3原則(Trias)』みたいに、簡単な最低限の3つくらいに厳選してもらえないものかしら。

でも、なんか最近どうもこの「7つ」ははやりなのようです。たとえば、『完訳 7つの習慣―人格主義の回復』とか、『"夏の宿題地獄"を楽々クリアする「7つの手」』とか。

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家族の変化と脳卒中

家族の増加で脳卒中リスクは増える?~JPHC研究

最近はやりのJPHC研究(Japan Public Health Center-based Prospective Study)です。日本人のビッグデータから解析される日本人の疫学データです。「日本人の家族構成の変化と脳卒中発症を検討したところ、家族(とくに配偶者)を喪失した男性は脳梗塞リスクが高く、一方、家族(とくに親)が増えた女性は家族構成が変わっていない女性より脳出血リスクが高かった。PLOS ONE誌2017年4月13日号に掲載」と書かれています。

・家族を一人失うと脳卒中リスクが増加し、特に配偶者を失うと男性では脳梗塞、女性では脳出血が有意に高くなった。
・女性は、親を家族に迎えると脳卒中リスクが増加した。
・配偶者の喪失に他の家族の増加が伴うと男性では増加した脳卒中リスクが消滅したが、女性ではリスクが増加した。

ま、さもありなんの結果だと感じます。基本、男は『さびしんぼ』で一人では生きていけない。女は(親の同居問題はもちろんですが)自分のペースで好きに生きていたい。そんな感じでしょうか。配偶者の四十九日法要が済んだ後、とかく男は萎んでしまい、女は前より若返る・・・語弊があるかもしれないから軽はずみなコトバで普遍化はできませんが、少なくともわたしの周りの皆さんを観察していると、そんな印象をうけております。

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除菌のメリット

「除菌しなくていいですよ」

わたしが15年近く受け持っている受診者の女性が悩んでいたので、そう答えてあげました。75歳近い彼女がピロリ菌抗体検査を受けて陽性だったために「ピロリ菌除菌治療依頼書」(医療機関に持っていけば除菌治療が受けられる様に発行させた紹介状)を受け取ったそうで、そのために治療を受けるべきかどうかかなり悩んでいたのです。

実の姉を胃がんで亡くして間近い彼女ですし最近胃の調子が良くないことを訴えてはいましたから、本来なら1週間の内服治療だけで済む除菌治療を勧めるところではありますが、何しろ薬剤を受け付けない体質の彼女。ヨクイニンや精神安定剤の類いでも調子が悪くなったり動悸がしたりして続けられないことがよくあります。抗生剤や消炎剤の服用を1週間継続することがどれだけ至難の業か想像が付きます。でも真面目な性格の彼女は、飲むべきものを飲めないことに罪悪感を感じて、自分は胃がんになるしかないのかと悩みかねません。

それでなくても頻回に胃カメラを受けている彼女にとって、この歳でそんな思いまでしてピロリ菌除菌に固執する意義はきわめて低いと考えています。世の中、「ピロリ菌が陽性なら速やかに除菌すべきだ」という風潮ですし、「除菌しないといつ胃がんになるかわからない」「除菌できれば胃がんリスクがなくなる」と勘違いしている人も少なくないようです。若いヒトの除菌は明らかに胃がんリスクを低減させる(除菌できても胃がんにはなります)から無理してでも除菌を勧めますが、胃潰瘍や十二指腸潰瘍を繰り返しているわけでもない高齢者にとって、除菌の成功と生きている間に胃がんにかかる確率とにはほとんど相関はないのではあるまいか。若い世代ほど除菌の意義は高いけれど自分ががんに罹ると思っていない世代だから興味がなく、今から除菌しても萎縮性胃炎が消滅するとは思えない高齢者ほど切実な想いでリスク低減に心を悩ます。半端な情報はかえってストレスを増やすのではないかと考えさせられる経験でした。

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晩酌をやめるとき?

公にしたくないからずっとココロに秘めていたのだけれど、明らかにわたしのカラダが酒を拒否し始めています。

痛飲どころか、焼酎をコップ2杯とか、日本酒4合瓶一本とか、この程度で睡眠の質が落ち、翌日の午前中くらいまで頭が冴えない日も出てきました。夜遅くでなければ、翌朝の気分に影響を与えないのはせいぜいビール2缶程度までか。

酒を飲むとγGTPが必ず上がるヒトや、たばこを吸うとCEAが上がったり肺気腫を起こすヒトが、ココロの欲求とは裏腹に、「自分が『酒やたばこの合わない体質』であることを認めなければならない」と受診者の皆さんに話しているわたし。今回のわたしのカラダの反応は、まさしく「そろそろ自分にはその処理能力がなくなってきています」と訴え始めた証なのだろうことを実感し始めました。ほんの1年前くらいまではそんな自分のカラダの反応に、ノー!と云い続けてきましたが、最近急にココロが受け入れ始めています。

そろそろ潮時かしら。とか、書きながら、昨夜もゴルフから帰ってからしっかりビールを2缶飲んでしまいました。それでも、それ以上は飲む気がしなくなった自分の心境の変化には正直に応えました。最近妙に正直で素直になってきた自分のココロを尊重してまいりましょうか。徐々に徐々に。

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ポジティブサイコロジーのメルマガ

そのむかし、日本抗加齢医学会の学会員に登録したころ、「先生、そんな怪しい学会には近付かない方がいいですよ」と何人かの先生に忠告を受けたものです。『アンチエイジング』が、ここまで知名度を上げ、予防医学の中心的存在になるとは思いもしなかったかもしれませんが、わたし的には想定の範囲内でした。この学会から派生したものに、「日本ポジティブサイコロジー医学会」という学会があります。

これがまたマニアックです(笑) 「人生、ポジティブシンキングで前向き思考すれば健康になる」「幸せは健康をもたらす」という概念・・・もともと精神科を志して医者になった自分にとって、この世界はワクワクする世界なのですが、ただいかんせんアウトローなので、学術集会も精神科領域の関係者を中心に小さな研究会みたいな感じ。毎年、学会参加させていただくのですが、身内感満載の空気の中で、外様感に包まれながら丸一日を過ごします。それでも、参加する学会の中では、一番得るモノが多い学会です。

そんな学会からメルマガが発行されるようになりました。ポジティブサイコロジーに関する興味深い論文の概要の紹介です。マニアックですし専門的で和訳がちんぷんかんぷんのもありますが、なんか積極的でまさしくポジティブな取り組みだと思いました。6月号の内容は、

1)他者のためにお金を使うことは心臓に良いのか?
2)主観的幸福感、うつ症状、神経症傾向に関連する遺伝的バリアントを同定
3)慢性疼痛治療におけるマインドフルネス・ストレス逓減法の効果
4)人の世話をすることは致死率低下と相関する
5)人生の意義と日々のストレッサーに対する適応力
6)感謝の気持ちと幸福感に関する日々の日記による検討

どうです。マニアックでしょ♪

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座位生活の弊害

座ったままの時間が長いと血液がドロドロに 立ち上がって運動すると改善

書かれていること(「体を動かさないで座ったまま過ごす時間が長いと、血液がドロドロになり、動脈硬化が進みやすくなる」)は以前から云われてる内容で、何も目新しいことはありませんが、「座位中心の生活は喫煙と同じくらい悪い」「座ったままの生活は喫煙にも似た悪影響をもたらす」という云い方は、行動変容をもたらすのに有効なキャッチフレーズかもしれないと思って読みました。

昨年の熊本地震や今回の大水害などで避難所に居るヒトや車中泊のヒトに多発した『エコノミー症候群』・・・動かないで同じ体位のまま長時間を過ごし、さらに水分補給を制限すると足に血栓ができて、それが肺に詰まって肺梗塞を起こしたりする病気・・・が有名になりました。あの概念を思い出せば、この長時間座位と血液ドロドロの関係は容易に理解できることでしょう。記事の最後に<オフィスワーカーが身体活動量を増やす工夫 >というのが羅列されています。書かれてることはよく分かりますし、以前はわたしも講演でよく話していた内容ですけれど・・・思い出してください。いつも云っているように、「人間には運動欲がない」「運動はしなくていいなら絶対にしない」のです。動かないと肺梗塞で命に関わるぞ!と脅してあげるのは、たしかに大事なことかもしれません。

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アイコンタクト

自閉症の人が他人と目を合わせない理由

わたしはやっと最近、相手と目を合わせることができるようになりましたが、ずっとできませんでした。目を合わせた瞬間に胸がモゾモゾしてきて、怖くなるんです。会議中に発言すると皆が一斉に自分に注目しはじめたと分かるときと同じで、身体中から汗が噴き出てくるのが分かります。だから、世間の人が目を合わせられないのは、わたしと同じように、合わせると緊張するからとか相手が何を考えているか分からずに不安になるからとか、そういう理由がほとんどだと思っていました。

一方、自閉症の人が目線を合わせないのは、自分の世界に入り込むために周りとの関係を遮断する目的なのだろうと考えていましたが、今回、この記事を読むと、「自閉症の人は一見、他人との対話に興味がないように見えるが、そうではないことが分かった。目を合わせないのは、脳の特定部位が過剰反応することに由来する過剰な覚醒状態(excessive arousal)の不快感を低減させるための手段であることが明らかにされた」とのこと。これはつまり程度の問題だけで自分たちと同じなのかなとも考えられそうですが、普通の発達系の人とは全く違う脳の活動形態を示すのだそうです。

人間の話でなくて恐縮ですが、自閉症スペクトラムぽい我が家のワンは、よくわたしに顔を近づけてわたしの目をのぞき込んでくれるから、典型的な自閉症ではないのかもしれません。

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米を研ぐ

先日、朝のTV番組で若いアイドルグループの青年が、分厚い紙製の切符を見て感動していました。「これ、なんですか? 切符? 切符がただの厚紙なんですか! こんな初めて見た」と。改札口で駅員さんが切符にハサミを入れるのも初めて見た、という。そうか、都会の平成生まれの子としては、それは当たり前のことか?

「米は洗うものではなく、研ぐものだろ! 」と云うと「『研ぐ』って何ですか?  聞いたこともない!」と笑われる。「だって、無洗米って云うじゃないですか?」と。ん? たしかに「研がなくて良い米」ではなく「洗わなくて良い米」と命名するのだから、「洗う」は間違いじゃないのか?自分は子どもの頃から母親から、「米はキュッキュッと擦り合わせて揉まないとダメだ」と教えられて来ましたからとても違和感があるのだけれど、検索してみると米穀安定供給確保支援機構の『お米Q&A』の解説がわかりやすくて納得。つまり、昔の精米機器は性能が悪くて糠切れが悪かったから炊く前にしっかり研がないと味が落ちたのだけれど、現代社会の精米工場で精米された米はしっかり糠外しができているから軽く洗って汚れを取るだけで大丈夫なのだそうです。要するに、すでに白米に精米されて売られている米の多くは洗うだけでいいし、玄米などから簡易的に自分で精米するときには研ぐ意識が必要だということですかね。でも、そのうち家庭用精米機の性能も格段に良くなるでしょうから、『米を研ぐ』という言葉が死語になるのは時間の問題なのかもしれません。

文化というものは、時代とともに変わって行き、10年前の常識は非常識になるどころか知らない単語として消えていくのもやむを得ません。それが「文明が進んでいく」ということか。ただ、糠が完全に外されて、純粋にカスである白米だけが残されてしまって他の栄養素が捨てられるのなら、なんか違う気がしないでもない。

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変わらない

「先生、ちょっと相談していいですか?」と保健師さんが鼻息荒く診察室にやってくるときはあまり良い話ではありません。今回は、もう何年も高度肝機能異常が続いている男性受診者のこと。もう10年近く毎年『要治療』の指示が出ていて、毎年受診勧奨をするのだけれど、未だに受診したことがない人。腹部超音波検査で慢性肝障害からやや肝硬変気味の所見が出ている人。保健師さんは熱いココロで、「何とかして受診に繋げさせたいんです」と云う。

でもね、もう10年もの間、ほとんど同じ結果なんですよね。別に良くなってはいないけれど悪くなってもいないんですよ。受診したら、毎晩楽しみにしている晩酌をやめさせられて肝庇護剤を処方されるだろうけれど、それでもせいぜい現状維持。だったら、今の生活を変えたくはないでしょうよ。そりゃ、受診したくはないと思いますし、受診先の先生も親身になってアドバイスしてくれるとは思えないんですよね。

「『良くなってはいないけど悪くなってもいない、まったく変わらないんだからそれはそれでいいんじゃないの?』なんて、そんな甘えたこと考えているんじゃないですか? そうじゃないですよ、今がターニングポイントかもしれないし、ずっとストレスに耐えてきたけどもう限界!て時かもしれないんだから、ちゃんと受診して治療を受けないとどうなっても知りませんよ!」・・・10年前のわたしだったら、絶対そう云ったでしょう。

でも、今は違います。血糖値が5年以上前から全然変わらない糖代謝異常の人とかも同じだけれど、悪化することなく維持できているのは、日頃の生活療法がうまくいっているからに他ならないわけで、無理して医者にかからなくてもいいんじゃないのかしら? もちろん、明日何かが起きるかもしれないけれど、それは医者にかかっていても同じ確率なんじゃないかと思うんです。素直にそう云ったら、保健師さんにとってもイヤな顔をされました。

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几帳面

「わたしのことを、”とても几帳面で細かい”と評してくれる人がいる。というか、世間の多くがそう思っている様だけどが、それは買いかぶりだと思う」

そんなことを妻に云ったら、鼻で笑われました。「あなたが几帳面でも細かいでもなかったら、世の中に几帳面も細かいもいないことになるわよ。そういうことをいう人がホンモノのの『几帳面で細かい人』よ。世の中に、『自分は細かいことが気になる』『自分は几帳面な性格です』と自分からいう人がいるけど、あれはホンモノじゃない。ホンモノは、あなたみたいに、『自分はまだまだ全然そんな域に達してない』っていうひとよ」と。

いや、それ、云っていることはわかる。でも、わたしは最終的には大雑把でどうでもよくなるのよ。基本的に真面目で小心者だから、きちんと計画を立ててやるべきことをやり遂げないと落ち着かない性格であることは確かです。ところが、不器用で要領が悪いから、アタマに思い描いた様な出来栄えにならない。絵画にしてもそうだし、掃除や庭の草取りにしてもそう。途中で投げ出すわけにもいかないから形だけまとめながら、「ま、こんなもんでいいんじゃないの?」と云って自分を納得させるわけ。小学校の図工の先生には見事に見破られてたけれど、それ以外は何とか誤魔化せた気はするし、皆さんに几帳面さを印象付けることはできたのだろうけれど、結局この歳になっても完成度の低い几帳面さのまま。

大汗をかきながら庭の草取りを始めたけれど、大いなるトラ刈り状態のまま「ま、いいか」と独り言をいいながら、こんなことを考えたりなんかしているわけです。

「はいはい、あなたは納得いかないかも知れないけれど、十分に几帳面で細かすぎるくらい細かいから、心配しなくていいよ」と妻からシメのダメ出しを食らいました。

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ひげ剃り

先週末に泊まった大分のホテルのひげ剃りもその前の週末に泊まった東京のホテルのひげ剃りも、まずまず合格でした。

わたしが学会やプライベートで泊まるホテルの評価をするときに一番重要視しているのは、ホテル備え付けの使い捨てひげ剃りの切れ味です。いつも一流の高級ホテルしか泊まらない方にはピンとこないかもしれませんし、電動ひげ剃りを持ち歩く人にも関係ないことですが、わたしのように旅費を安く上げるために苦慮してる人間が泊まるホテルは、経費削減と顧客満足度のはざまで日々努力しているところがほとんどです。泊まるだけのホテルとはいえ、治安が心配だったりフロントや廊下までタバコ臭がこびり付いているホテルは一応避けているつもりです。

ホテル備え付けのアメニティの中で、当たり外れが大きいのがひげ剃り。さすがに最近は全く切れなかったり、気付いたら顔中がキズだらけになったりするひげ剃りを置いてあるホテルは少なくなりましたが、それでも当たり外れがあります。必ずしも安かろう悪かろうという理論通りでもない様ですが、ホテルがアメニティの購入契約をするときにどの程度会社の信用度を慮っているかということではないかと思います。ひげ剃りの切れ味は、自分で使ってみないと分かりません。バラツキがあるかどうかについてはなおさらです。お客さんのアンケートはあまり当てになりません。ひげ剃りが切れなかったとクレームを書く律儀な人は決して多くないからです。わたしなら書きません。次から他のホテルを探すだけのことだから。

わたしたちの職場でも受診者向けにこういうアメニティはたくさん準備されています。購買部は値段交渉が厳しいと聞いていますが、担当者はちゃんと自分で使ってみたりして確認しているのだろうか? クレームが出ないから大丈夫だなんて思っているのではないだろうか? そんなことを思う旅の朝でした。

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倒木

先週、疾風のように駆け抜けた台風3号は我が家界隈を直撃しました。テレビニュースで見る台風風景と同じ激しさで、それが我が身のことだけに怖さははるかにそれより強いものでした。

その翌日、線状降水帯とやらの仕業で大豪雨の攻撃も受けたのですが、その襲来直前の隙間の晴れ間にワンの散歩をするためにいつもの散歩コースの江津湖公園に出かけました。静かな夕方の公園でしたが、あちこちで数日前には見なかった光景。まるでサバンナの草原でのたれ死んでいるゾウやバッファローの死骸みたいに、根っこから抜けて倒れている大木があちこちに。あるいは大きな枝がポッキリ折れて無残な姿になって佇んでいる。激しかったんだなあ、とつくづく思い知らされました。でも、実は熊本には2年前に猛烈な台風15号の直撃がありました。久方ぶりの直撃で江津湖公園のたくさんの木々が折れたり倒れたりしました。昨年も大地震の液状化の後に襲った豪雨で倒れた木々がありました。

そんな大災害を耐え忍び、大自然の間引きに負けることなく生き残った木々。そんなに逞しかった木々が、ほんの数時間の攻撃に耐えられなかったのはなぜなのだろう。おそらく、今まで矢面に立って雨風の盾になってきた木々が間引きされて、後ろで守られてきた自分が初めて先頭に立たされた。その仕打ちにあっけなく打ちのめされた、ということなのだろう。「それは、人間社会と同じだね。今まで全ての責任を取ってくれていた上司が突然いなくなって、自分がその仕事を任された途端にその重圧に耐えられなくなって、体調不良で挫折してしまうような。『あいつ、意外にもろかったな』とか陰で云われたりするのだろうか」と、倒木の様子を写真に収めながら、妻はかなり辛辣なことを云いました。

自分はかなり打たれ強いと思っていたのに、実はそうではなかったんだと思い知らされる。わたしのように、いつも弱気で自分を買い被らない生き方をしていると大丈夫・・なのかな。やっぱり、こんな時は立ち向かわずに、逃げることだな。そうか、木々は逃げられないのか。

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肉を食う

最近頓に肉を食う機会が増えました。ダイエット中の妻がタンパク質食いにはまり始めたからです。日曜の少林拳の練習に行く前には肉を食って行くのが一番調子がいいし翌朝の体重減少の切れ味がいいそうで。先日は上京するわたしを空港に送ってくれたついでに「肉食おう!」と肉のレストランに連れて行かれました。

そういえば、「今日は、◯◯さんが美味しいステーキを食べさせてくれると云うから、朝から何も食べないで我慢してきたんですよ~」とか云っている輩がいますけど、「失礼なやつやなあ」と思ってしまうのは、やっぱりわたしが歳をとってしまったからなのかしら。だって、せっかく高級な美味しいお肉を食べせてやろうと云っているのに、そこまで腹空かして来たら味なんてわからないし、どんな安物の肉でも同じ程度に美味しく感じるに違いないやないか!と。

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写真(後)

(つづき)

でも改めて考えると、当時の思い出は良いことも辛いことも今でも記憶の中に残っている分だけで充分なのかもしれない、と思うようになりました。おそらく、徐々に認知症になって記憶が消えて行く中ででも、そのときに残っている記憶だけがそのときの十分量。そうやってフェイドアウトして行くのが自然なのだと割り切ることもできます。

実はわたしは中学生時代の写真もほとんどありません。あれだけ仲良しだった部活の連中との写真も・・・まあ、その頃に子どもが写真機を持って歩くことなどあり得ませんでしたし、なんか『思い出作り』なんて小っ恥ずかしいお年頃でもありましたが。今、SNSへの投稿のためにバシバシ撮っては配信している写真なんて、きっと大部分があってもなくてもいいようなものばかり。写真を撮ってばかりいる分、今の方が記憶に定着しないかもしれません。数年前のフェイスブックにアップした写真を見ても、「こんなことあったっけ」と何も思い出せなかったりしますから。

写真は、『思い出作り』のためというよりも今を楽しむためのツール。あるいは、今の自分を取り巻くものをとりあえず記録するだけのツール。そう割り切ることにしました。

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写真(前)

「わたしたち、東京にいた頃の写真が一枚もないよね」

最近インスタグラムにはまって、わたし以上に写真小僧になった妻が云いました。たしかに。東京の病院勤務のために平成元年3月に石神井に引っ越して、大きなダイコン畑の前のできたばかりのアパートに暮らし始めてからの3年間。小さなクルマを買って、駐車場も借りて、都心に向かっては怖くて到底行けなかったけれど、埼玉方面にはあちこち遊びに行きました。高尾山にも行ったし、東京ディズニーランドにも何度も行ったし、東武動物公園や所沢の航空公園や・・・横浜にも箱根にも泊まりに行ったのに、写真は一枚もありません。シンガポール旅行したときはさすがに何枚か撮りましたが、北海道旅行したときの写真もありません。

当時、『写真を撮る』という行動がちょっと特別なことでどこかカッコ悪いと感じるところもありまして、「記録に残す時間があったら記憶に残せ!脳裏に焼き付けろ!」みたいにしてました。カメラに凝っていると云うと本格的な高性能カメラ自慢を必要とし、『写ルンです』も廃れ気味、まだ写メの時代ではなく(携帯電話自体がなかった)、デジカメはまだマニアの世界でした。今になって思えば、もっと記録しとけばよかったとは思うのですが・・・。 (つづく)

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肝機能異常

健診で精査や治療の指示を受けた項目の中で、一番未受診者(紹介状をもらっても受診していない人)が多いのが『肝機能異常』だと思います。劇症肝炎やウイルス性肝障害を除けば、基本的に生活習慣の改善しか対処法がありません。画期的な治療法はなく、クスリをもらうわけでもないのに、わざわざ金を払って受診するとは思えません。受診しても、どうせ云われることは分かっているのですから。

健診をする側の思惑とは裏腹です。わざわざ金を払って叱られに行くはずがないから、なかなか難儀です。「そんなこと、云われんでも分かっとるわ!」「やってるけど、全然良くならんのやないか!」・・・受診者の皆さんの気持ちはわかります。それに対して、それでも努力が足りないのだ!と突っぱねられそうだから、「症状が何もない」と言い訳して受診しないでいるわけでしょう。

非アルコール性脂肪肝による肝障害=NASHが現代社会の問題点としてクローズアップされ、「医者が放ったらかしているから、健診機関が厳しく云わないから、脂肪肝が悪化するのだ」と叱られますけど、放ったらかしているわけじゃないのです。受診勧奨も危険性の説明もしっかりしているけれど受診しないのだもの、しょうがないじゃない。ま、少なくとも、わたしが当事者になっても受診はしないでしょう。何の得もないから。「自分でやれるもん」「やるしかないもん」「体質だから仕方ないもん」「やってはいるけど難しいもん」「ま、いつもより悪くなってないならいいんじゃないの」・・・いや別に他人に云ってるんじゃなくて自分に云って聞かせているんですけどね。いやあ、難儀、難儀♪

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病名

うちの妻と彼女の元同僚が話しているのを横で聞いていました。自分の今の症状が感染症の様だけれど、病名は何なんだろう?という議論です。とても重篤な病気、少なくとも早々に抗生剤などを服用したり病院受診を急いだりしなければならないものかどうかを議論している様です。

そこで聞こえてくる言葉、『アレなら普通見られるはずのあの症状が出てないから大丈夫だよね』・・・なんかとても気になったのです。医療従事者ですらそんなですから、一般庶民の方がこういう会話が多いんじゃないかしら。現代は、気になる症状の病名は病院を受診するのではなくて自分でネットで調べる時代です。そこに書かれている、誰かが記した記事を読んで、書かれている典型的症状を自分のものと比べていく中で、「この症状は自分にはないからこれじゃないな」と安堵するのは、あまりに短絡的で危険ではあるまいか。

資格試験とか殺人犯探しをしてるのではないのです。もちろんその病名の定義になる様な必須症状はなければならないけれど、多くの病気はそんな教科書的な典型例ばかりではないはず。 九割がた合致しているのに、当てはまらないことがひとつ見つかったからこの病気ではない、と否定できるものかしら。二人の会話を聞きながら、「なんか違うんじゃないの?」と心の中で思いながら黙って聞いておりました。いやいや、ヤブ医者のわたしが横槍を入れたところで聞く耳を持つ様な人たちではないので(笑)

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使命感(後)

((中)からのつづき)
医療を受ける側がなんとか割り切れて、人生を自己の管理下でケアする覚悟を持てたとして、医療を行う側のわたしたちはどうか?  もはや治療現場から退いたわたしには何も云う権利はありませんが、 何も医療は救急だけではないのだし、高度医療はチームでやれば良いのだから、自分は高い技術を習得して切ったり繋いだりする高等技術を発揮できれば一流だ、それが幸せだと割り切ってしまえばいい? 本当にそうなのか。でも、「医師は腕のいい技術屋であればいいし、アフタファイブは仕事のことを忘れてオフに徹すべき」・・・そんな時代なのかもしれません。便利が当たり前になって、24時間働いてくれるのが当たり前になっている現代社会の歪み・・・コンビニ、宅配、夜間営業店、そして夜間救急や集中治療室。受ける側はありがたいけれど、それがする側の犠牲によって成り立っているサービスの一環であるならば、見直さざるを得ないのでしょうね。

そうなると、「医療はサービス業なのか?」と云う議論になる。わたしは昔から「医療はサービス業である」と思って医者をやってきたのですが・・・そもそも、今医学部で勉学に励んでいる学生さんたちはどんな気持ちで医学部を選んだのだろう? 社会全体の価値観が変わっている中で、当然、自分たちが医学を志していた頃とは『使命感』の概念そのものが違っているのだろうか。

なんか、不毛な、何を書いているのかわからない駄文になってしまったので、この辺でおしまい。

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使命感(中)

(つづき)
それがいつの間にか病院全体が『断らない救急』をスローガンに掲げ、定刻に病院を出ていると「あいつは遊んでいる」と陰口を叩かれる風潮になり、何日もほとんど帰れない日が続くのは当たり前というか、それが一流の救急医の勲章みたいな扱いを受けるようになりました。わたしの日々のToDoメモはいつも処理できないほどに溢れていて、『しなければならないこと』に毎日追い立てられるようにして生活しておりました。

そんな生活が良いとは思いません。「医者になろう」「救急医になろう」と考えた時から、頭の中にあるのは『命を預かる』ということへの使命感だけでしたから、それさえ満たされるなら、可能な限り人間らしい生き方をするのがベストだと思います。ただ、わたしたちが普通の労働者として割り切って定刻勤務をしても大丈夫なのだろうか? 世間の皆さんはそれを『やむを得ないこと』と割り切ってくれるのだろうか?過酷な診療科を選ぶ若い医師が減っている中で、当然人手は足りませんから、選択肢は1つ、診療時間を短縮することしかありません。夜間救急はやらないのが一番手っ取り早い。具合が悪ければ朝まで待ちなさい、と云うことになる。まあ、遠い昔はそう云う諦め方をしていたのだから、できないことはないのか。「当直明けには帰って休め」と国は云うのですが、そうすると自分の受け持ち患者さんのケアは同僚に任せるわけです。「普通どんな企業でもそんなもんだよ。担当のお得意さんから連絡が来たら違う人が対応するよね。それと同じなんじゃないの?」って云うことで、良いですか? 自分の主治医にそう云われたり、自分が急変したときに自分を知らない他のドクターがケアしてくれるとしてもきちんとやってくれるなら問題ありませんか?  ま、『主治医』というコトバがなくなれば問題ないのか。(つづく)

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使命感(前)

「医者は労働者と思うか?」というアンケートが来ました。過重労働の問題がクローズアップされ、ブラック企業のレッテルの中に宅配業者などと一緒に病院が上げられるようになりました。研修医の過労死事件が起きて(以前にもありましたが)明るみに出た救急医療現場の実態、というところでしょうか。職場環境の健全化を目指して労働基準局が乗り出し、国が重い腰を上げたところです。もちろんわたしの勤務する一線級の救急病院は一番の標的になっており、いかに職場環境改善に病院全体で取り組んでいるかを注視されている状態です。

わたしが研修医だった30年前、もちろん寝る時間も惜しんでほとんどを病院で過ごしましたし、年末年始も病院にいる私たちに「あんたたちは他にすることはないんね?」と病棟の師長さんに笑われたこともありました。それが当たり前だと思っていたし、何の実力も技術もない自分たちが一人前になるためにはとにかく経験値を増やして勉強することが最優先でした。そんなことをしても身体を壊さないだけのバランス感覚は普通に皆が持ち合わせていました(今の若い先生方よりいい加減だったのかもしれませんが)。うちの病院は今でこそ救急医療の申し子のような扱いを受けていますが、『断らない救急』をやっていたのは循環器内科と脳外科くらいで、定刻で帰る他の科のドクターに不公平だと文句を云ったら、「お前らは好きでその科を選んだんだろ」と云い返された、と当時のボスがぼやいていたのを思い出します。(つづく)

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