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2017年8月

秋雨前線

正直言って、今、仕事がきつい。きつい、というより、楽しくない。与えられた仕事を粛々とこなし、滞りなく日々が進んでいるし、鬱陶しい会議がある日以外は、別に仕事自体に憂鬱を感じることはない。ただただ、惰性でやってる感が強くてココロが盛り上がらない。しなければならないことを残したまま、終業時刻になったらさっさと帰るけれど、帰って何をするでもなく、酒飲んでうだうだしているだけ。

なんか、毎日が楽しくない。
なんか、ココロが秋雨前線みたいに重っ苦しい。

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何が違う?

先日の旅行でいただいた魚の加工品。早速帰ってから食べてみた妻が、「これ、絶品やね!」とご満悦。「一気に食べてしまいそう」とか云っている。

実は同じ商品、最初にわたしが買ってきたのはもう5年くらい前だったか。小骨が多すぎて食べ辛いから捨てられてしまうカナガシラを、もったいないからすり潰して小骨をピンセットで1つ1つ抜き取って作るんだということや、最近はマスコミに取り上げられてなかなか手に入らないんだということを切々と説明したけれど、「ふーん」と聞き流し。一口クチに入れて「素朴な味ね」と云ったっきり手を出さなかった品。「あなた、どこの姉ちゃんにたぶらかされて買わされてきたの?」と云わんばかりに剣もほろろだったのに・・・。

やっぱり、現地に行って、作っている本人にお会いして、商品誕生までの思い入れや苦労を直接話してもらうって大事なことなんだなあ、と痛感。「良いものさえ作っておけば自ずと売れる」と考えるのが甘い、ということもよく分かりました。まあ、何はともあれ、商品のファンになってもらえて良かった。今度から、大分に行ったときのお土産リストに堂々と入れておいても良さそうだ。

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ビジョン

”「どうやったら、イラストレーターになれますか?」と聞きに来る若者には、「そんなことを聞きに来る時点で、君はなれないと思うよ」と答えます。だってそんなもの、自分でどんな風になりたいというビジョンさえあれば、どうにでもなることだから。”

先日の夏休み旅行で、ずっとお会いしたかった2人の方に直接お会いできました。フェイスブックのお友達だとはいえ、一度もお会いしたこともお話ししたこともない2人。1人は大分の離島に住むDさん。すべてのことを前向きに転換して次々に新しいことを展開していく元気な主婦さん。もう1人は小さな漁師町をシームレスの多国籍クリエイターの街にプロデュースしているイラストレーターのNさん。お二人ともとてもお忙しいのに長時間をわたしたちのために割いてくれました。

2人に共通するのは、その行動力としっかりしたビジョン。そんなに大それたことではないけれど、自分で何かできないか、という強い想いを持ち、こんなことをやりたいと思ったらそれをどうやったらできるかアイデアを絞り出し、やってみる。そのエネルギーを飄々と出していける能力。全部捨てていた雑魚を商品として再生して地域の特産品にしたり、虫につかれてキズだらけの柚子をブランド化させる力、できてみると「なるほど」「すごい」で済ませられることだけれど、何となくやってみた結果ではない事は明白。プロデュース力とは、自分が優秀なクリエイターである必要はなく、そんな優れた能力を最大限に活かせる機会を生み出す能力。「自分が優秀な医者である必要はない。優秀な医者を雇えばよい。そうやって優秀な病院を経営するために、俺は医者になったんだ」と云っていた研修医時代の同僚のことを思い出しました。彼も今や大きな病院の理事長として忙しい日々を送っています。まさしく、明確なビジョンに基づいたプロデュース力です。

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葛のコミュニケーション力

夏はとにかく草の伸びが速いので、最低でも週一回は草取りが必要です。数日の夏休み旅行の間にも庭草は力強く背伸びをしてきましたので、昨日は朝から草取りをすべく庭に出ました。

ところが、わたしの目に最初に入ってきたのは、フェンスから好き放題に伸びて庭中に蔓延っている葛たち。毎夏のことながら、イラっとします。根元の茎の束を切断してもどこからかまた延びてきて枝垂れ梅の枝やらクリスマスローズの葉やらに所構わず巻き付いた挙句に、家主に何の断りもなく花壇を這い出して庭の芝の領域にまで延びてきている。「ホントにもう」と舌打ちしながら汗だくで刈り取りました。

ただ、そんな葛たちをゴミ袋の中に片付けながら感心するのは、彼らがいつも庭の草木たちときちんと共存しているということ。お互いを引き離すのも大変なくらいに絡み合っているのに、彼らが蔓延ることで枯れたり縛り付けられたりしている草木が1つもなく、どこか草木は葛の訪れを喜んで受け入れている感さえします。葛たちの周りの草木とのコミュニケーション力、見習いたい。

それでも、もちろん家の庭に蔓延る以上、無秩序な広がり方は家主のわたしが許しません。それとこれとは、別です。

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内臓脂肪食

京都医療センターの坂根直樹先生が提供してくれた患者指導用スライドをダウンロードしましたが、そこに並べられた、『内臓脂肪がつきやすい人の食の3特徴』というのを見ながら、独りツッコミ(笑)

その3特徴というのが、
1.早食い
2.残さず満足するまで食べる
3.緑黄色野菜は食べないが、間食、スナック菓子、アイスクリームを好む

だそうです。「とくに寝る前のアイスは要注意です」という医師のコメントで〆られていました。いや、いいんですけどね、自分がそうだからこそ、この指導会話には異議を唱えたい。

『早食い』が悪いのではなく、良く噛まないことと、満腹中枢が刺激される前にたくさん食ってしまうのが悪いだけです。『残さず食べる』のは、”もったいない”精神の日本人の美徳であり、持って生まれた”才能”です。嗜好品は『好き』なのが悪いのではなく、欲望に任せて食いすぎるのが悪いだけです。みなさん、「ただ屁理屈を並べているだけで、云っていることは同じだ」と思っているかもしれませんが、そうではありません。内臓脂肪がたまりやすい人や糖尿病になりやすい人、あるいは太りやすい人は、自分の持って生まれた性質であって、そうでない人と比べて、同じものを食べても違うカラダになるのです。もともとそのおかげで、食えずとも生き延びてきた人種なのですから。

『早食い』を治さなくてもいいから、いつもより2、3噛み余分に噛んでから飲み込む(あるいは飲み込みかけて「まだ噛める」と思ったら、一度戻して噛み直す)意識を持つと、もっとおいしく食べられます。『残さず食べる』は常識だし、好きなものは変えられないのだから、最初から半分しか作らない、買ってこない、並べない、の勇気さえあればいい。目の前に大好きなモノだけがいつもの半分しかないと分かったら、必ず大事に大事に舐めるように味わって食います。これは人間だけが持つ重大な特徴です。犬猫なら、目の前にあるものは考えることなく大急ぎで飲み込みますが、人間は全体把握能力を持ち合わせています。

食欲は生き物の最大の欲求。これを抑え込んでいては生きる意味がありません。もっとおいしく、食事の時間を一番の楽しみの時間に! それが、わたしたちの伝えたい”食事の在り方”です。

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夏休み

今日から夏休みです。

せっかくいただいた短い夏休み。

ちょっくら、夫婦で旅に出ます。

ということで、数日お休みいたします。

そんじゃ、また。

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チーム医療(後)

(つづき)

「大きい病院は主治医がコロコロ変わるんですよね。『大丈夫ですよ、ちゃんとカルテがあって全部のデータを誰が診てもわかるようにしてありますから』とか云われるけど・・・」という患者さんの言外の想い・・・ちょうど、愛車のディーラーの担当者や保険会社の担当者の引き継ぎと同じようなものだと思います。最初に相談して以降いつの間にか自分の趣味や生活の色々まで知られる仲になって、信頼関係で任せていた担当者が代わったときに感じる不満足感。実務の申し送りはされていても人間的な付き合いの申し送りまでは無理。結局必要最低限の付き合いから疎遠になってしまい、次の更新の時には取引自体を他と変えてしまうこともないわけではありません。

患者さんが自分の身を委ねようとする相手が『権威ある大病院』なのか、『信頼するひとりの医者』なのか? 「担当者の●●はいい加減だから好かんけど、ここの会社の車が気にいってるから続けて乗っている」というのと同じかも。とても人気のある先生が他の病院に移ったり開業したりしたとき、その先生についていく患者さんは決して多くない。まさしく、『○○先生』に診てもらっているのではなく、『▲▲病院の先生』に診てもらっていたにすぎない。

話が横道に逸れました。チーム医療は最良の方法で平等に医療を提供する手段として世間に根付いてきましたが、あくまでも人体(臓器)をチームで診ているのであって、患者さんを人間として診ているわけではないということを割り切らなければいけません。その患者さんのカラダの記録は皆で管理していますが、その人の人生の歴史に寄り添っていくわけではありません。その点では、昔から身を委ねてきたホームドクターには太刀打ちできません。自分は、自分を何に委ねて生きていこうとするのか、しっかりと決めて生きていかなければならないと思います。

 

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チーム医療(前)

わたしが30年前に今の職場に就職したときから、わたしの所属した循環器内科にはすでに『チーム医療』の考え方が定着していました。患者さんをスタッフみんなで診て治療していくという考え方。そのために、たまたま順番で決まった主治医はあくまでもその患者さんの道先案内人でしかなく、外来で予約された検査を、その各々にその道のプロたちが行い、検査結果を主治医がプレゼンして、スタッフみんなで治療方針を考え、そのカンファレンスで決まった方針に従ってその道のプロが治療していく。

「そんな流れ作業のような医療なんて、わたしの目指す医療ではない! 主治医なんて居てもいなくても一緒じゃないですか!」と云い放って出勤しなくなった研修医が居たことをふと思い出しました。彼女は今、彼女の目指していた医療に邁進できているだろうか? 「医者として、最初の出会いから問診をして想定する病気について自ら検査をし、診断を下してその後もずっと自らが患者さんと一緒になって治療をする、そんな医者人生を送りたい」と云って、病院を辞めていったスタッフもいます。あの頃、わたしはその最先端の医療の考え方になんの疑問も抱きませんでした。わたしがするより専門家がする方が検査も信憑性が高いし、治療の質が違い過ぎるから、やっぱり上手い人がしてくれた方が患者さんもいいに決まっている、と。

でも今、健診の世界から世間の皆さんの姿を眺めるとき、『医者とのいい関わり方』ってなんだろう?と考える機会が増えてきたように思います。 (つづく)

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女子マネの死

女子マネ死亡…AEDを巡る論争に言いたいこと

高校の野球部の女子マネージャーが心室細動で急死した事故。監督がAEDを使わなかったことに論点が集中していきそうなこの事故で、わたしも薬師寺先生(岸和田徳洲会病院救命救急センター)と同じような意見を持ちました。AEDを使わなかったら死んだ、使っていたら生きていたかもしれない・・・この空気は本当に怖いものです。そう思います。わたしたちも当然AED装着の講習や実習は何度も受けました(病院の救急現場では電気ショックの正式な器械があるのでAEDを持ち出す機会はまずありません)が、それでも「だれかAEDを持ってきてください」と声を上げる勇気はないかもしれません。

第一、目の前に知り合いの若いお嬢さん(男性やお年寄りではなくて)が倒れていてまだ呼吸をしている時、公衆の面前で彼女の着ている服を脱がせて胸をあらわにさせてパッドを貼る行為をするのは、実際にその場に立ったら相当の勇気が要るのではないかと想像します。おそらく、わたしがその場に直面していたとしても、救急車が到着するまでにすることは心臓マッサージだけだったのではないかと思います。心臓マッサージだったら、服の上からでも行えますし、何度もやったことがあるので(効果のほどはAEDに劣るとしても)確実にやれる自信はあります。家で突然意識を失った家族を見て、救急車を要請したとして、そのままおろおろ周りで見ているだけだったために命を落とした人は数多くいます、家にはAEDはありません。相手は身内です。躊躇することなく心臓マッサージをしてもらいたい。だからこそ、むしろ世間の皆さんにはAED以外の蘇生術をしっかりとマスターしてほしい。今回の事故でさらにその思いを強くしました。

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規定時間

始業時刻よりかなり早く来ている人とギリギリで来る人が居ます。家庭の都合もさる事ながら、性格も大きな要因です。「始業時刻からきちんと始められるように早めに来て物理的にも精神的にも準備万端で仕事に備えるのはプロの働き手の常識だ!」と云われていた時代はお過去のこと。最近は労基がうるさくて、「その前準備は命令ですか? 命令なら、それも勤務時間(時間外労働)ではないですか?」とツッコまれます。仕事の質の云々に言及することなく、始業時刻に持ち場にいさえすれば問題はない、というのが労基の基準のようです。

そんな中で、始業時刻よりかなり早く来る人たちの理屈は、『早く来るのに越したことはない。家ではできない仕事などがゆっくりできるし、すぐに仕事が始められるから』というものでしょうか。うちのように、この時刻に出ないと交通ラッシュに巻き込まれるから、という人もおりましょう。一方、時間ギリギリ組の理屈は、『朝の貴重な時間。ギリギリに来ないともったいない。他にすることはたくさんあるのだから、無駄な時間は作りたくない』というもの。

そんな色々な想いの連中が、いつの間にか各診察室にゲートインして、何事もなかったかのように朝の業務開始。それが、毎朝の診察室の風景。いと、おもしろし。

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あんな若造に(後)

(つづき)

きちんとしたことをきちんとわかりやすく説明したはず。年寄りの医者よりも最先端の日進月歩の知識を持っているのだ、という自負で仕事をしていたわたしのココロを見事に打ち砕いた出来事でした。『若い』というだけで軽んじてみられたくはない。もう立派なオトナだし、研修医ではない一人前の医者だし、これでも自分はカテ室の責任者だ。病気や治療に対する知識はちゃんと持ち合わせているし、決して高飛車な云い方はしていない。なのに・・・。「君はまだ若いのに、何か若者らしくない行動をするよね」と顔見知りの開業医が宴席でわたしに云っていたけれど、あれは褒め言葉だったのだろうか・・・そんなことをいろいろ思い巡らしました。

いつの間にか自分が当時のボスの歳をはるかに越えてしまった今、確かにみなさん、わたしの話すことを反感の顔もせずに聞いてくれるようになりました。話し方が上手くなったのかもしれませんが、歳をとったことの方が大きいのだろうと思います。そんな想いでくだんの彼を眺めるとき、彼自身が気づいているかどうかは別として、きっと彼の組織の中の立ち位置も、周りの彼を見る目も、5年前とは違うものになっているに違いありません。少なくとも、わたしの目には、『若造』ではない、信頼の置ける頼もしい優秀な事務スタップに映りました。

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あんな若造に(前)

朝、駐車場から歩いて病院に向かっていると、反対側の駐車場から若い事務職の青年が出勤して来ているのに気づきました。「おはようございます」「おはよう」お互いに朝の挨拶を交わして通り過ぎましたが、すれ違いながら、「彼も、知らない間に貫禄が出て来たな」と感じました。うちの職場のスタッフは、若いけれど総じて優秀で、頭の切れる連中ばかりいます。彼もそんなエリートの中のひとり。5年くらい前に一緒に同じプロジェクトで働いた時には、若くて何か怖いもの知らずの空気がみなぎっていました。「この人、若いのにすごいな」と思ったものです。でも、「どこか意気がっているように見えてしまうのは、若いからしょうがないのかな」とも感じていました。

そんな彼を見ていると、若いころの自分のことを思い出しました。救急の当直をしていたある日の明け方に飛び込んで来た急性心筋梗塞の患者さん。緊急カテーテル治療をできるだけ早く始めてあげたくて、一緒について来た奥さんに承諾をもらうために一生懸命説明するけれど、頑なに拒まれました。自分のかかりつけ医に相談したくて時間稼ぎをしたのだということを、出勤して来たボスに教えてもらいました。ボスは笑いながらわたしの肩を叩いて、「『命に関わるような重要な問題を、あんな若造に偉そうに云われたって、信用できない』と云われたそうだよ。そう落ち込むことはないよ。君が悪いんじゃない。あの年頃は、ある程度年齢のいった医者じゃないと信用できないって人が意外に多いんだよ」と慰めてくれました。 (つづく)

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毎日、味噌汁を飲もう!

「味噌」に血圧の上昇を抑える効果 日本型の食事スタイルを再評価

広島大学の研究グループは、塩分が多いということで敬遠されがちだった日本のソールフードの『味噌』の効果を検討し、味噌には、血圧の上昇を抑え、脳卒中や心筋梗塞などの予防効果が期待されることを報告しました。その他、味噌の持つ胃がんや肺腺がん、大腸がん、肝臓腫瘍、乳がんなどへの予防効果も報告されています。

「日本人は食生活で塩分を多く摂取しているが、心筋梗塞などが少なく、長生きしていることは海外でも関心を集めている。味噌には塩分の影響を緩和する物質が含まれており、熟成味噌は特にその効果が強いと考えられている」と書かれていましたが、とにかく、塩分が含まれる味噌を多く食べても血圧が上昇しないことを確認できたのは大いなる成果だと感じました。研究グループは、わざわざ食塩感受性の高いラットを用いて検討しましたが、それでも「味噌を与えると、同等量の塩分を摂取していても血圧は上昇しないことが明らかになった」という。なんかすごいことではないですか。これはつまり、「味噌には血圧上昇を抑制する効能があること」ということ。

味噌汁を食べましょう。味噌のエキスを使ったクスリやサプリを開発しようとするのではなく、素直に味噌食品を食いましょう。味噌田楽や鯖の味噌煮などなど・・・酒が進みますなあ。で、これって、『インスタントみそ汁』でも、その効果は有りなのかしら? そこのところ、誰か教えてください。

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先入観(後)

(つづき)

それが一般社会の隣り近所の人との付き合いならどうでもいいのかもしれませんが、仕事だとそうもいきません。特に予防医療の世界は、行動変容に導く主役はパラメディカルスタッフ(特に保健師さん)です。

前もって受診者のカンファレンスをしていても、「この人はしっかりした信念で自分の考えに導いていけるから任せればいいけど、ちと厳しすぎないかしら」と感じる人もいれば、「多分この人は他人を行動変容させられるスキルもセンスもない。きっと話しても無駄だから、私が直接受診者に話そう」と最初から諦めざるを得ない人もいます。きわめて千差万別なのが実際の現場です。正直云って、行動変容アプローチのためにタッグを組む相手が誰かによってこっちの態度を変えなければならないのは面倒くさいけれど、別に彼らにテクニックを伝授する指導者になるのではないのだから、気楽といえば気楽です。彼らにできそうにないことは、最初からわたしがやればいい。それで、少なくともわたし自身の満足のいく仕事はできるわけですから。

他人に指示されたのではなく、わざわざ自分の希望で今の仕事を選んでいるのだろうに、「いいのかなあ、そんな取り組み方で」と思ってしまうヒトも少なくないのですが、単にわたし自身が歳をとって”凝り固まった考え方”になっているだけのかもしれませんし、くだんの上司のように陰で舌打ちして非難されるのも嫌だから、絶対にそんな思いは口にはいたしません。

みなさん、どうぞこれからも頑張ってくださいませ。

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先入観(前)

最近の悩みは、対峙するスタッフに対して最初に自分が抱いた印象を払拭することができなくなっているということです。

むかし、初対面で「この人はこんな人」と感じたらその評価を何年たっても変えない上司がいました。新人時代にミスを犯した看護師さんのことを最後の最後まで信用していなかったことを思い出します。「人は経験するにつれて学習して進歩するのだから、何もわからなかった新人の印象のままで評価されるのは、さすがにかわいそうだよね」と、自分たちの同僚に対する仕打ちを陰で非難していたものでした。「AB型の人ちゃ、あげえある」とか云いながら(笑)

それが、どうも自分もそんなところがあるのではないかと感じるようになりました。云い方は悪いけれど、以前の私は相手を買いかぶっていたのではないか? 失敗はするけれど気付いていないだけなのだから、注意さえすればできるようになるはずだ。仕事上の考え方は経験値だ。そう思っていたけれど、どうもそうではない。保健師さん、技師さん、事務員さん、いろんな方が居ます。何も云わなくてもきっちり先の先を考えながら仕事をする人もいれば、指摘をすればできるけれど自分では気づかない人もいます。さらに、指摘をしたときに分かったふりをしているけれど何も理解していない人もいます。仕事で何度も接していれば、相手がどのパターンの人かはすぐに分かります。能力といえば能力ですが、心構えの差とも云えるしキャラクターとして一括できるものでもあります。 (つづく)

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年相応の睡眠時間

先日、Medical Tribuneの記事で、久しぶりに内山真先生の談話記事を読みました。

生活指導で年相応の睡眠時間を~高齢者不眠の診療

内山先生の、「”夜よく眠れない”だけでは不眠症とはいえない。夜眠れないために日中調子が悪い状態が3ヶ月続いた場合を不眠症と診断する」というのは、大変よくわかります。何を隠そう、わたしの睡眠事情はずっとよろしくありません。以前に比べたら、極力うたた寝をしなくしましたし、眠くなったら早々にベッドに入るようにしていますが、何時に寝ようが夕飯がどんなであろうが、夜中に3回は小便に起きます。5回くらい起きることもあります。でも、たまに眠くてたまらない朝もありますが、総じて朝6時にはいつもきちんと目が覚めますし、爽快です。昼前(検査の読影などやっている時)に強烈に眠くなることも時々ありますが、5分くらい仮眠を取れば問題ありません。妻に云わせると、わたしのは病気で、いわゆる過活動膀胱(子どもなら夜尿症の類)だというのですが、少なくともわたしの場合は『不眠症』ではありません。

不眠には、「なかなか寝付けない(入眠困難)」「何度も目覚める(睡眠維持困難)」「早朝に目覚める(早期覚醒)」「熟眠感がない(熟眠困難)」などがあるそうですが、まあどれもわたしにはあります。年寄りなもので睡眠も理論通りにはいきません。それでも、寝れる時に寝て、眠れなくても眠くなった時に短時間の仮眠をしたり、翌日には嫌でも爆睡したりするわたしのは、元気な年寄りの部類だと考えております。

内山先生の紹介された『健康づくりのための睡眠指針2014~睡眠12箇条~』を最後にご紹介しておきます。睡眠の考え方も捉え方もかなり変わってきました。生活習慣病予防のためには睡眠の質も時間もとても大切ではあるのですが、睡眠は理屈ではない。眠れないことで悩んでいるならぜひ専門医へ。自分の睡眠パターンが教科書通りでないとしても苦になってないなら気にしない。それが、わたしの考え方です。

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赤コーラと黒コーラ

「たくさん食べたいから代替甘味料を使用するという考え方と、適量だけど砂糖を使用したものを食べるという考え方があれば、私は後者の方を勧めます」

配信されてきたスローカロリー研究会の記事『甘みを上手に取り入れストレス緩和を』で管理栄養士の柴崎 千絵里先生がおっしゃるこのことばは、とても大事だと思います。代替甘味料を使ったゼロカロリー食材は、「血糖値があがらないから甘いものをいくらでも食べられるだろう」と本人も周りの者も思いがちですが、血糖値が上がらないと満腹中枢を刺激されず、満足感を得られない中途半端な食べ方になることは必至。そこのところをきちんと心得ておく必要があります。『甘いものが好き』な人が甘いものを食べてストレス発散できるのは、血糖値が上がるからであって、甘ければいいというものではありません。なのに、誰かに”砂糖を摂る罪悪感”をアタマに焼き付けられているのが問題。糖尿病の予防や治療は「甘いものを食べるのがいけない」のではなく、「甘いものを上手く食べる」ことが重要なのだということ、糖代謝異常の受診者さんには毎回話しているのですが、それでも「砂糖は摂らないに越したことはない」という想いを払拭できないようなのです。がまんは、健康の最大の敵ですのに。

我が家ももう長いこと黒コーラ(ノンカロリーコーラ)ばかり買います。わかいころはコーラなんて絶対飲みませんでしたが、歳とともに炭酸水に魅力を感じ始めてしまって・・・。「赤コーラはカロリーがあるから」と、手を出すのに二の足を踏んでいる(甘すぎて気持ち悪くなります)のですが、炎天下で大汗をかいた時に飲むのなら、本当はノンカロリーよりカロリーが十分ある方が良いのではないかしら。スポーツドリンクにも最近はノンカロリーが多いけれど、運動中にエネルギー補給をしなければならない時にノンカロリー飲んでも、何の足しにもなりません。お茶代わりに飲むのでなければ、カラダに毒な人工甘味料を摂るより真っ当なエネルギー源を摂った方がはるかに健康的だと思います。

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スマホで脳トレ

フェイスブックとかLINEとか、とかく世の中SNSの時代。物静かで口では何も喋らないのに、SNSの中では多弁で人気者の若者は少なくない昨今です。

御多分に洩れず、わたしもSNSはフル活用。むかしのメールの時代から、基本的にはレス百パーを心がけてきたわたしですが、さすがにLINEやフェイスブックは回転が早くてちょっと大変です。それでも、なんとか返事を考えるようにしています。「真面目か?」と云われそうですが、これがボケ防止になりそうな気がするのです(それが目的ではありませんが)。単なる受け答えではダメ。関西人が当たり前にボケを入れたりオチを考えたりするように、何かウイットに富んだ返事をしてみたい。しかもそれを、何気ない軽いタッチで返しておいて、相手に拍手を返されるくらいの力作に仕立て上げたい。

そんな感じなので、ひとしきり考えても何のオチも思いつかずに陳腐な返信するか、「いいね」だけのときは明らかにわたしの敗北宣言。たまにはお互いの暇に任せてチャットのような応戦をするのは望むところですが、最後のオチまで考えつかずに結局『いいね』で終わらせてしまう時もわたしの負け。

アタマは、使わないとすぐに退化するのであります(笑)

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めくらばん※

※差別用語として放送禁止用語などになっていることを承知の上で使っています。

職場では公文書の回覧が毎日のようにあります。偉い人から順番にあちこち回ってきている文章。いつ見ても間違いだらけだから、極力細かく読まないようにして印鑑を押すように心掛けている昨今です。「これだけ色々な人が目を通しているのに、あからさまな間違いがそのまま指摘されていないということは、要するに、みんないい加減に印鑑を押しているということですよね!」と数年前までは息巻いていましたが、馬鹿らしいのでやめました。偉い人が印鑑押している以上、今更書き直しもしないのでしょうし、それが公文書として保管されたところで二度と見られない可能性の方が高い文章。わたしには今後の人生で何の影響も受けないであろうことに目くじら立ててもしょうがない、と高血圧治療中のわたしはしみじみ思うわけです。

もちろん、公文書なのに、いい加減な文章を確認・訂正することなく提出しても気にならない人は、人間として信用に値しない人なのだから、そういう位置付けで対応はしています。そんないい加減な人間を信用しても、しっぺ返しは自分にしか返ってこないのだから。

だから、たとえ事務方が勝手に書いた文章でも、わたしの名前を使って書いてくる公文書だけは簡単には容認しません。それがわたしの文章として先々まで残るからです。彼らは、「任せてください、わたしたちは文書書きのプロですから」と胸を張っているけれど、わたしがその気になったら提出された文書の半分以上を真っ赤に校正してやれるだけの自信はあります。彼らは、偉そうにしているけれど日本語をまったくわかっていなのだから。文書の責任者が誰か、自分は当事者か承認者か、それだけで気合の入れ方は全く違うのであります。みんな心したまえ!(笑)

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痛い!

「痛ぁ~い!」「暑いなぁ~」「悔しい~!」

思わず口にするこういうコトバ。もちろん、周りに他人がいればこその意思表示だから、他人が見ている中では思わず口にすることはよくあります。『わたし』がどう感じているのか、口にして表現してあげないと周りにはわからないから。だから逆に、そんなことを云ってもしょうがないような人たちの前では思っても口にはしない。それが、オトナのTPOというもの。

それでは、これが独りだけのときはどうか? 誰に訴えるでもないし、誰も聞いてはくれない自分自身のココロの叫び。この、ココロの中で叫んだことを独りなのに口にしていることが、わたしは少なくない気がします。たしかに、口にした方が心の中で噛みしめておくより苦しみが和らぐ感じはします。でもなんかそんなことではなくて、ココロの中の叫びを気づかないうちに口にするという”子どものような行動”は、もしやテレビドラマや映画などの影響なのではないかしら。昔と違って最近のドラマは、ト書きになりそうなことを役者に喋らせて説明することが増えてきている気がします。それの影響ではないか、と。 あるいは、最近は人生の大半が独りの生活という人が増えた中で、彼らの処世術である独りごとの1つでしかないのか。

先日、机の角に膝をぶつけて「あいた!」と叫び、「くそ~」と独りボヤきをした後で、所用で家の玄関を出るなりあまりの暑さに、「あっちいなぁ!」と叫んだわたし。やっぱり、独りでもいっぱい喋るわ。

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かえって自粛?

週3~4回の飲酒で糖尿病リスクが最低にDanish Health Examination Survey 2007–2008

デンマークのデータではあるのだけれど、「糖尿病リスクの最も低い飲酒パターンは、男性は週14ドリンク〔飲酒しない群との比較、ハザード比(HR)0.57、95%CI 0.47~0.70〕、女性は週9ドリンク(同、HR 0.42、95%CI 0.35~0.51)。交絡因子および週間平均アルコール消費量調整後も、軽度~中等度の飲酒は糖尿病リスク低下と有意に関連しており、週1回の飲酒と比べて、週3~4回の飲酒では男性で27%(HR 0.73、95%CI 0.59~0.94)、女性で32%(同0.68、0.53~0.88)リスクが減少した」というとります。なお、「1ドリンク=10gと定義(日本も同基準)。ビール(5%) 500mL 缶1本はアルコール20g=2ドリンク、ワイン(12%)グラス1杯(120mL)はアルコール12g=1ドリンク」だそうな。

毎日500mlの缶ビールを1缶ずつ飲む人が、飲まない人よりリスクが低く、さらに毎日ではなく二日に一回1000mlずつ飲むのがベター!と書いてあるのですよね。

さすがに「そんなに飲んでも大丈夫なのか?」とかえって心配になります。いつもは「適量の酒は百薬の長!」とかいって嘯くけれど、具体的な値が思いの外少なくて、「こんな生殺しの量しか飲めないなら、もう考えても無駄!」とばかりにちゃぶ台ひっくり返す(笑)わたしですが、逆に「もっと飲んだ方が病気にならないよ」と勧められる方が、気持ち悪くてかえって自粛しそう。人の心(酒飲みの心情)は、まか不思議なものであります。

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臭い?

「この診察室、なんかカビ臭いでしょ」

ほんの1ヶ月弱前のこと。朝、診察室に行くと、スタッフのお嬢さん方が妙にバタバタして、ドアを開けたり空気の入れ替えをしたりしていました。エアコンを冷房に切り替えたために蔓延っていたカビか何かが臭ったのでしょうか? あ、いや、わたしは何も臭わなかったもので、何が問題だったのかよくわからなかったのですが。

「偉いなあ」と感心しました。きちんと始業時点では何も臭わなくなり(わたしは最初から臭わないのでわかりませんが、みなさんがそういうので)、「あとで空調担当にきちんと調べてもらうように依頼しておきました」とまで。抜かりはありません。この程度の臭いは自宅では日常茶飯事ですし、さほど不快感を誘うほどのものでもないと思うのですが、お客さん相手ではそうもいかないのでしょう。この迅速で的確な対応を、若いお嬢さん方がきちんとしてくれる・・・これが、うちの施設が信用される大きな要因なのであります。

そういえば、数年前までは外につながるダクトを通して、診察室にタバコの臭いがひどかった時期がありました。敷地内禁煙のために道で喫煙する人が多くなったせいでした。あのときには、「臭い!」としつこく訴えましたが、施設担当者が意外にピンと来なかったのを思い出します。本人が喫煙者だから違和感がなかったのでしょう。あの臭いが最近は全くないのだけれど、スタッフみんなが完全禁煙できるようになったとは到底思えないので、ダクトの排出口の場所を移動させてくれたのでしょう。臭いに対する快・不快の感覚は千差万別ですが、過敏になり過ぎずいい加減になりすぎず、客観的に判断して、これは公の施設の臭いとしては許せるものかどうかの見極めは、大事ですね。

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数値にならないもの

「健康とは、数値ではなく、健やかだと感じる、「健康感」をもつことです。」

☆健康とは☆
健康とは自分で作るものです。たとえ目に見えない病を抱えていても、あるいは闘病中の病気が実際にあったとしても、いつも心が爽快で、日々生きがいをもって、前向きに生きている。心に健やかな健康感がある。そういう状態を、つまり健康と呼ぶのです。日野原重明

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先日大往生を遂げられた日野原先生のメッセージが、亡くなられた後も配信されてきます。

おかげさまで、この世界に入って15年以上、わたしはこの日野原先生のことばと同じ想いで仕事をしてくることができました。わたしたちがやろうとしていることは相手を健康な人生に導くこと。健康は検査値が正常になることではありません。ただ、厄介なことに、わたしたちがやっていることの成果は数値でしか評価されません。仕事をして給料をもらってそれで生活している以上、ちゃんと仕事をしているのかどうかの評価は何らかの数値を元に判断されるしかありません。「わたしは受診者の皆さんを健康にしてあげた」と主張したところで、あるいは受診者の皆さんが「先生のおかげで健康になりました」とアンケートに書き込んでいただいたところで、評価としては決して高くありません。それより、「メタボ該当者を指導して何パーセント改善させられた」というデータの方が格が上です。

つくづく、独立することなく、出世することなく、こっそり好きなことをさせてもらって自己満足した上に給料もらえる自分は、ラッキーこの上ないと思うております。それでも肩身の狭い思いをすることはよくあります。だからこそ、この日野原先生のことばは、わたしの大事な後ろ盾であります。

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正常値の落とし穴

先日紹介した『腎性低尿酸血症』・・・「運動後の背部痛や吐き気、原因不明の急性腎障害があった時にこの病気の可能性を考えるべき」だそうですが、救急現場や内科外来で採血検査をしても異常値が見つからない可能性があります。実は、運動をすると血中尿酸値は上昇することが多いのです(脱水の影響もあるし、抗酸化物質を合成するためかもしれません)。そうなると、日頃低尿酸血症の人は運動によって正常範囲内の値になる可能性があります。救急外来で初めて会う一見のお客さんの検査結果をざっと眺めても、絶対に尿酸の異常なんて考えるはずがありません。日常を知らないのですから。

白血球減少も同じです。白血球は細菌感染やウイルス感染の時に増加しますが、日頃から白血球数が低い人は増加するとかえって正常範囲内の値になったりします。体調が悪い、熱があるという訴えで外来を受診しても、採血結果に異常がないなら”原因不明”となりかねない。

こんなこと、日頃から自分の値を知っていれば問題ないではないか、とわたしたちのように健診や人間ドックに従事している医療者はすぐに考えてしまいます。でも、一般の方は知らないか意識していない方が普通だと思っておかないといけません。健診なんて滅多に受けない人の方が多いし、住民健診や企業の簡単な健診では尿酸なんて調べないかもしれない。白血球は余程の低値で精密検査の指示でも出ない限り気にしてはいないでしょう。軽度異常や経過観察などの判定は『特に異常なし』だと捉えるのが普通・・・健診をする側とされる側のその温度差があるからこそ、数値の持つ意味の重要性を日頃からしっかりと教えなければならないと痛感する次第です。

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越えられるか、60歳の壁

他人事だと思っていた還暦の節目が1年以内にやってきます。そんなもの単なる”人生の通過点”だと思っていましたが、近づくにつれて何も見えなかった大きな壁が目の前に徐々に姿を現して立ちはだかろうとしています。『厄明け』のときに感じた”別人への変ぼう”と同じくらいの感覚の変化があります。あのときも、「『厄明け』とかいったって単なる通過点なのだから何も起きるはずがない」と高をくくっていたら、一気に高血圧症になり、交通事故から頚椎ヘルニア・腰椎ヘルニアとなり、父が変死を遂げて、ばたばたと。

いままでは、「これだけ生活に注意して若さを保とうとメリハリのある人生を送っているのだから、大丈夫だろう」と自信を持っていたのですが、今まで経験したことのない大病を患うのではないか、脳卒中で倒れて寝たきりの介護が必要なカラダになるのではないか(あるいは妻が)、妻が倒れて独居老人になるのではないか・・・そんな不安がぐいぐい波打って押し寄せてくるようになりました。厄明けのとき以上の波が押し寄せるに違いないと思うようになってきています。社会的な変化も含めて、とても不安です。

若さを保つために筋トレや運動に余念がなかった時期、「人間は年齢相応の年取り方をしないと歪みが出ます」とどこかのドクターが云っているのを聞きながら、「バカ云ってんじゃねえよ。やった者勝ちだよ」と反論していましたが、しわしわの年寄り顔で若い者のような筋骨隆々の筋肉であるのは”不気味すぎる”と感じるようになりました。食べても若い頃ほど太らないし、激しい運動でなくてもほどほどの身体活動をしておけば体力は維持できることを実感するし、小便のときの沈黙はさらに長くなり、老眼鏡を使うのに何の抵抗もなくなってきました。自然の摂理に抗うことなく、悠々自適に与えられた運命に従って生きるのみ・・・なんて心境が少しずつ分かるようになってこようとしています。合掌。

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要るのか、その云い訳

うちの職場のタイムカードの打刻器が移設されました。もともと出退勤管理をするための機器ですから、どこの職場でも通用門の近くやロッカーの前に設置されることでしょう。うちもそこにあったのですが、各勤務部署の持ち場近くに移設したわけです。なぜか? それは、勤怠管理上、仕事が終わって帰るまでのタイムラグが大きい(仕事の後に学会準備をしたり非公式のミーティングをしたりする頻度が多い職場なので)ことが労基に指摘され、改善を要求されたことに起因します。その時間に職場にいた、というアリバイ作りではなく、実際に正式な勤務として働いた時間を正確に把握しなさい、と。そのために、仕事を開始する直前に打刻して、仕事が終わり次第速やかに打刻することで実態把握をしようとしているわけです(と云い切っていますが担当者ではないので真実は存じません)。と云うか、「業務としての仕事時間以外は『勤務時間』とは認めないぞ」ということなのだと思います。

ところが、その移設の告示には、「より打刻しやすい環境を整備するため、打刻器を移設しました」と書いてある。何度も読み返しました。「何云ってるのか?」と何度でも突っ込みたくなります。どうしてそんな見え見えのウソの云い訳をするのだろう? 打刻しやすいのは明らかに今まで通り通用門の近くかロッカーの前に決まっています。着替えに行って、まだ打刻していないことに気づいて、何度持ち場に引き返したことか。目的はそれではないことくらい皆が知っていますし、それを隠す必要もないと思うのですが・・・。そんな、思ってもいないこじつけを文字にして書いてしまっても大丈夫なのだろうか?

割とこういう後付けの云い訳文は世に氾濫しています。「そんな良くわからないあやふやな云い訳でなくて、本音は何なの?」と問いただしたときに渋々答えてくれる内容って、いつもちっとも大したことではない。気を遣いすぎなのではないかと思うことの方が多い気がします。

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怒るということ

なかなかむずかしのですが、できるだけ『怒る』という行為をしないで済むように日々意識しています。「あいつ、こんなこともできていない」「なんであんなことをする?」・・・政治家の言動やテレビ番組の記者の言動や、あるいは身内や職場の職員の態度にブチ切れそうになることは日常茶飯事。そういうやつらに限って「わたしは間違ってない」「これが正義だ」という顔をして嘯くので一層アタマにくるわけですが、そこでグッと抑えられる自分でありたいと日夜訓練中です。

我慢しているのではダメ。我慢は一番ストレスがかかる対処法です。わたしのように若くして高血圧で冠動脈の石灰化が強くなった人間は、カーっとするのが一番危険。他人に云っているからちゃんと理解しています。だから、我慢するのではなく、容認するのが一番。でもこれは余程の悟りの世界。とりあえず、見て見ぬ振りをする(スルーする)か諦める(こいつらはバカだからと思う)のが手っ取り早いので、そうできるように頑張っています。おかげでだいぶ怒りの感情がコントロールできるようになりました。それでも収まらないときはブログでこっそり(ブログだから、こっそりではないけれど)吐露してスッキリする(書いているときの血圧はマックスかもしれない)ことを覚えました。

「怒っても何の得もないんだぞ」と先人の誰もが教えてくれたこと、最近やっと理解できるようになりました。『怒り』はおそらく、「当事者が間違っているから改めさせたい」という正義感ではなく、「自分が正しい」ということを世間の人にわからしめたいという欲求の表現にすぎず、結局は『自分』。自分に返ってきてほしい賞賛の欲求が何も満たされない行為が『怒り』なのだと分かれば、つまらぬことはするだけ損・・・そんな損得勘定で生きているから、結局まだまだ悟れないでいるのかもしれません(笑)

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金の斧

金の斧

あなたがこの池に落としたのは、この金の斧ですか?
いいえ違います。
それでは、この銀の斧ですか?
いいえ、違います。
それでは、まさかこの薄汚い鉄の斧ですか?
そうです。わたしが落としたのはこの鉄の斧です。
お前はなんという正直者なのだ。褒美にこの金の斧も銀の斧も持って行くがよい。

という有名なイソップ童話を久々にテレビで見ながら、なんか異常に違和感を感じました。金の斧や銀の斧が高価なものだということは後になって冷静に考えたらわかるのかもしれないけれど、金も銀も今まで実際に見たこともないものなのだから、そんな得体の知れないヤワな素材(もともと触らせてももらえてないのだから素材すらわからないかもしれない)では木なんか切れやしない。「早く仕事を終わらせたいのだから、意地悪しないで早くわたしの愛用の鉄の斧を返してくれよ~!」というのが木こりの本音。

後から行ったうそつき木こりは最初から金をもらうのが目的だからひどい目にあってもしょうがないけれど、最初の木こりを正直者とか無欲だとか云ってもてはやすのはいかがなものか。焦っていただけじゃないのか。「無知だった」とは云えるかもしれないけれど。あそうか、この童話を読む一般庶民は、みんな金とか銀とかに価値があることを知っているから、読者に喝を入れるための話としてみんなは納得するわけか。

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