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2017年10月

スポーツ観戦と心臓病

スポーツ観戦で心臓にストレス、興奮で心拍数2倍にも

ライブでスポーツ観戦すると心拍数が安静時の倍以上になることを踏まえて、「医師は心疾患の患者に対してスポーツ観戦のリスクについて伝える必要がある」という。まあなんとも冷静なコメントですこと、と思いながら読みました。研究はカナダのアイスホッケーの地元チームファンの試合観戦で行っています。『まず、対象者には健康状態とアイスホッケーに関する簡単な質問票に答えてもらい、この情報から各人の「ファンとしての情熱度」を点数化した。』っていうのがとても気になります。

高校野球の決勝戦で地元高校が優勝した瞬間に「バンザーイ!」と叫びながら急性心筋梗塞で倒れる男性が少なくないことはわたしが循環器内科医だったころから経験して知っていますが、それよりもわたし自身、ひいきするJリーグのサッカーチームのホームゲームをよく観に行っていますので、カラダに及ぼす影響の大きさは身をもって理解できます。特にわたしのひいきチームはリーグの最終戦でぎりぎり残留を決めたり、最後の最後に決めきらずに降格したり、プレーオフの最後に劇的ゴールで奇跡の逆転昇格を決めたり、とっても心臓にわるいことばかり毎年演じるチームなもので、観客席で冷静を装いながらも卒倒しそうなくらいドキドキしている自分を何度も経験してきました。残念ながら、心臓病が持病の人はこのチームのサポーターになるのは勧められないなとつくづく思います(笑) かく云うわたしの心臓もかなり怪しいので気を付けねば(というか、もうちょっと安心して観戦できる試合をしてほしいものだ)。

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おかしいと思わない?

またまた鬱陶しい季節がやってきました。

年に一度、健診のデータをまとめた年報を作成します。その原稿チェックをするのがわたしたち医師の仕事。で、毎年、同じミスを繰り返すわけです。単なる数の足し算が間違っているのです。いろんな項目ごとに違う担当者が作成するのに、まだ誰一人として正しい数字のグラフを持ってきてくれた人がいない。まあ、毎年のことですから、慣れてしまいましたが・・・。『検算』しないのは、もうわかった。最近の若い子にはそういう概念がないのだということはもう諦めました。でも、単純な足し算なんだよ・・・単純な足し算をエクセルが間違えることはまずないのだから、数字が合わないのは他の理由。要するに、グラフに書かれている合計人数はそのグラフの各々を足した結果の数字ではなく、合計数だけ違う所から引用してきたわけだ。この時点で、この二つが同じだと思い込むから、単にエクセルに打ち込んだ数字の合計をsum(  )で計算させることをしない、そこのところが今年も続いているうちの職場の伝統。数人の違いもあるけれど、倍以上の数の間違いもあるのに気付かないって、どうよ。

「毎年するんだから、担当者が換わってもできるように、ちゃんとマニュアルを作っておけば解決するだろ」とか、上の方の管理者は云っているけれど、いやいやそんな話ではないのよ。上の方がそんな認識だから、何年経っても同じミスがなくならないのだ。何かのイベントで、動員されたスタッフ数に比べて用意された弁当の数が明らかに少なかったら、細かい数を数えなくてもすぐに、「なんか、おかしいんじゃないか」と思うでしょ。そういう感覚が最近の人にはなくなっているのが怖い。自分で書いた報告書を見て、「なんかおかしい」と感じられなくなってきた理由は、おそらく自分の力で計算していないからでしょう。機械がやった事だけでなく、それを部下や同僚がやってくれたとしても同じ。「信じている」のではなくて「考えていない」・・・自分がまとめておきながら、自分の問題じゃないんでしょうね。

とりあえずはっきりしていることは、今しばらくこの憂鬱が続くのだろうなということ。

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朝食抜き

朝食抜きがアテローム性動脈硬化症の増加と関連

朝食を摂らないことを基本姿勢にしているわたしには耳の痛いデータがスペインから発表されています。Medical Tribuneの配信によると、『朝食を食べずに済ますことが、無症候性アテローム性動脈硬化症発症リスクの大幅な増加に関連することを、新たな観察研究が明らかにしている』らしいです。皆さま、お気をつけあれ。

いや、これをじっくり読みながら、なんか「朝食抜き」自体が悪者にされているけれど、ダイエットのために朝食を抜いているわけではないし夕飯が遅かったから食えなかったわけでもないわたしとしては、あまり説得力を感じないのです。本文を読み進めていると、『朝食の摂取は、満足感、1日の早い時間のエネルギー摂取、代謝効率、早い時間の食欲調節などの因子と関連する』というのはまだわかるけれど、『朝食抜き群は男性が多く、現在喫煙率が高かった。さらに、過去1年間に体重減少のために食事内容を変更していたり、1日のうち昼食での摂取カロリーが最も多くなる傾向も強かった』『低エネルギー朝食群は、高エネルギー朝食群と比べて、男性が多く、喫煙率も高く、教育レベルが低く、また、1日のうち昼食における摂取カロリーがより多い傾向も強かった』『朝食抜き群および低エネルギー朝食群の両方で、高エネルギー朝食群よりも動物性タンパク質および食事性コレステロールの摂取量が多かった』などなど、要するに朝飯抜いているようなヤツは他の生活パターンが乱れていて、ついつい過食になるって書いてあるようにしか読み取れないのです。これでは、わたしのココロを動かすまでにはいたりません。

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自褒めコラム選(8)

分別はアンチエイジングの最大の敵 (2013.1)

我が家の14歳になる老犬ベルは、散歩のとき以外はいつも寝ています。耳も聞こえなくなってきました。歳を取ったなあと思います。そんな彼女自身が、歳を取ったと実感し始めたタイミングはいつだったのだろうか・・・先日、スヤスヤ寝息を立てている彼女を眺めながら、そんなことをふと考えました。

実は、彼女は4年前までは小娘のように飛び跳ねていました。彼女の父親犬が今の彼女の歳に肝腫瘍で亡くなるまで、父ちゃんに見守られながらいつも好き放題にあちこちでちょっかいを出して回っていたのです。10歳とは到底思えないフットワークと身のこなしでした。彼女は生まれたときから父親が一緒だったから、突然ひとりになると一気に歳を取るかもしれない、と心配したわたしたち夫婦は、父親が亡くなった5か月後に同じブリーダーさんからベイビー犬を譲ってもらいました。思うに、ベルが突然歳を取り始めたのはその頃からのような気がします。最初は新参者と勢力争いをしていましたが、徐々に表立った喧嘩がなくなり、共存を始めました。その頃から、あんなに小娘だった彼女が急速に分別ある大人に変わっていきました。自分より年上と一緒に生活しているといつまでも子どもでいられたのに、はるかに年下を目の当たりにして今まで自分が錯覚していたことに気づいてしまったのでしょう。それが彼女のカラダに突然老化スイッチを入れた瞬間・・・彼女を歳取らせた張本人はわたしたちなのかもしれない、悪いことをしたなと自責の念に駆られています。

この“分別はアンチエイジングの最大の敵”はもちろん人間にも言えることです。「歳甲斐もなく」とか「いい歳をして」とかいうことばを無意識に使い始めるとき・・・そのことばを使い始めるきっかけは何でしょうか。お孫さんが「おじいちゃん」と呼んだ瞬間でしょうか。会社で管理職に昇格したときでしょうか。子どもがいなくていつまでも出世しないわたしなんか、いまだに若いスタッフとお友達だと思い込んで、キャッキャ、キャッキャと騒いでいます。だから、「カラダ大丈夫ですか?無理しないでくださいね」と声をかけられるとちょっとカチンときます。「分別くさい人間になるな!」「いつまでも若造だと思い込め!」・・・他人に言いながら、自分にも言って聞かせている私は、まだ今年の4月で55歳です。いつまでも錯覚して生きていきましょう!

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自褒めコラム選(7)

落葉樹と常緑樹 (2011.1)

いつまでも暑かった今季の秋は例年と少々様相が違いました。それでもこの原稿を書いている頃には我が家の庭のハナミズキの紅い葉は一気に落ちていきました。来る日も来る日も落ち葉を掃き集めるのが大変でずっと舌打ちをしていましたが、なくなってしまうと途端に寂しくなります。街路樹の銀杏も公園の紅葉も今季は色づきに足並みが揃いませんでしたが、それでも普通に落葉しました。「落葉樹」~日本に四季があるのと同じように(四季があるために)、落葉樹の一年はとても華やかです。その大きな葉は、光合成を行う重要な部分であるにもかかわらず、華々しく色づいたら辛い寒さを乗り切るためにさっさと切り離されます。冬眠の季節になって寒さにじっと耐える姿もまた健気です。

それに対して、華やかさはないけれど年間を通していつも青々とした葉をつけているのが「常緑樹」。秋の頃、職場から見える小学校の校庭には紅葉した見事な街路樹が何本もあり、その手前の空き地では緑の葉をたわわに付けた大きな常緑樹が元気に繁っていました。その不思議なコントラストを眺めながら、落葉樹と常緑樹の違いを考えてみました。若い頃、常に青々としている木の方が優れていると思っていました。自分も常に若く活気に満ちている常緑樹のようでありたいと願っていました。でも、ふと、落葉樹の方が生き方に余裕があるのではないかと思い始めました。環境に合わせるかのように姿を変えながら、でも華やかな時をきちんとアピールする落葉樹は、与える印象もその生き方もとても鮮烈で魅力的に見えたからです。そう考えると、落葉樹にも常緑樹にも、違った形で各々に逞しく生きていく姿が見て取れます。

人間はどうでしょう。人間のカラダにも環境に合わせて各々の持って生まれた体質というものがあります。痩せ型(エネルギー消費型)と小太り型(エネルギー蓄積型)の各々はそれがその人に適している最適の体型なのではないかしらと思います。小太りが長生きだからといって痩せ型の人が必死に太る努力をするのはナンセンスですし、小太りは長生きできないといって何十年も同じ体型のおばさんが突然断食を試みてもメリットがあるとは思えません。それを平均点の統計学に当てはめて、BMI22が理想だとか24が良いとか、あるいは内臓脂肪はどれくらいが良いとか、何でもひとつにまとめようとするから無理が出てくる。もしかしたら各々の体質が一律ではないからこそ、人類は生き延びてこられたのかもしれません。飽食の時代にはエネルギー消費型が生き延び、飢餓の時代にはエネルギー蓄積型が力を発揮する・・・それは人類にとって最大の優先事項である『種の保存』のために初めから備わっている秩序なのではないでしょうか。

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自褒めコラム選(6)

マスク小僧たち~目は口ほどには物言わず。 (2010.7)

世の中、花粉症でもないのにマスクで顔を覆っている人がたくさんいます。新型インフルが流行した昨年の今頃ほどではありませんが、今でも病院やクリニックは妙に大きなマスクをしたスタッフで溢れています。うちの病院でも、医者や看護師だけでなく、技師や薬剤師、受付の事務職員までもが顔の半分以上を覆い隠しているのをよく見かけます。

感染予防の考え方がしっかりしている証し!ではあるのですが、「他人にことばを伝える」という点においてマスクはとても大きな障害です。先日、救急外来の待合い椅子のところで、若い看護師さんがご年輩の男性の横に跪(ひざまず)いて熱心にクスリの説明をしていました。たまたまその横を通りながら盗み聞きしましたが、もしやこの方は彼女が何を言っているのかさっぱり聴き取れていないのではないか、と気になりました。マスクで口を覆っているために音が籠もってよく聴こえていません。そしてそれ以上に、彼女の表情がまったくわからないのです。人は耳からだけではなく、相手の口の動きや顔の表情を見て言葉を聴き取ります。そのすべてがマスクで覆われて見えません。顔の表情が見えないと、話す人の心の内も見えません。目が深刻そうでもマスクの下では舌を出しているかもしれませんし、せっかく明るく微笑んでいても目が鋭いと叱られているように感じます。昨年、新型インフルが猛威を奮った頃、学会場や会議場では入口に消毒液が置かれるのと同時にマスクも配られました。発表者も質問者も司会者も全員がマスクをしている異様な密室の中で、多くの出席者が痛感したことは、「大きな声で会話しても、マスクは想像以上に意思の疎通の邪魔をする」ということだった、という記事を読んだことがあります。

私も受診者の方々に説明をしている時、結果表や写真を指さす私の手元ではなく口元を見つめている人をよく経験します。何度も私の顔を覗き込むのです。咳のためにやむを得ずマスクをすることがありますが、すると相手はわたしの目の奥に本意を探ろうと凝視し、それでも意味を量りかねて戸惑った顔をみせるので、結局はマスクをずらして顔全体をみせることになります。

目は口ほどには物を言わず!マスクは口と顔を隠します。でも本当に見えにくくなるのは「心」~だから、聞き手が無意識に不安になるのだと思います。重要な伝達手段の大半を自ら放棄している以上、伝える者はいつも大きなハンディを負っていることを意識した伝達者であっていただきたいと、世間の「マスク小僧たち」を眺めながら思っています。

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自褒めコラム選(5)

さりげないエスコート(2009.12)

先日、学会のために上京しました。電車に乗っていたらJR新橋駅のホームに白い杖を持った目の不自由な女性が佇んでいました。先頭に並んで乗り込もうとしたひとりのお嬢さんが、それに気付いて声を掛けました。彼女はさりげなくその女性の手を引いて一緒に電車に乗り込みました。格好いいなと思いました。さらに有楽町駅に着く少し前に、今度はまったく別の若い男性が声を掛けました。「席が空きましたけど、座りませんか?」・・・声を掛けながら、そっとエスコートします。ことばに恩着せがましさがないのがいいなと思いました。都会では個人主義で他人に干渉しない人が多いと聞きますが、一方でこういう心遣いが日常生活の中でさりげなくできる人もたくさんいるのだということを実感しました。彼らは本当に輝いて見えました。

ある研修会で「ペーシング」という会話の方法を教わりました。これはつまり「相手のペースに合わせる」ということです。同じ視線で、同じ声のトーンと大きさと速さで、あるいは同じ雰囲気で・・・できるだけ相手のそれに合わせて調和させると、相手の心も開きやすくなって会話がスムーズになるというのです。「いつでもゆっくり落ち着いて対応すればよい」というのでは、例えばもし相手が急いで慌てているときならば苛立たせてしまうでしょう。そんな雰囲気を感じ取るためのスキルが「ペーシング」です。私も仕事柄、そういうスキルをいろいろ学んで実践しようと努力しているわけですが、あの電車の若者たちの自然な立ち振る舞いをみてしまうと、何かまったく次元の違うものを感じてしまいます。彼らのそれは仕事でもスキルでもありませんし、だれかに自分を評価してもらうための行動でもありません。スキルとしての対応術を体得することも大事ですが、人と付き合う上で一番の理想はやはり彼らのようなさりげない優しさが自然に出せる人間になれることでしょう。彼らの優しさはどうやって身に付いたのだろう?幼少時のしつけや環境だろうか?それとも職場や仲間の影響だろうか?・・・そんなことを想いながら、私は目的の駅で電車を降りました。

私たちの職場にも多くの若いスタッフがいます。みんながあの若者たちのようになれたら素晴らしいなと思います。初めは仕事のための「スキル」でも、それを繰り返すうちに真のエスコートの心が生まれてくるかもしれません。彼らのような人に出会う。「格好いいな」と思う。「次は自分もやってみたいな」と思う。そうやって優しい空気が溢れるといいな・・・とても柔らかい心になれた旅でした。

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自褒めコラム選(4)

わかってもらう、ということ (2008.10)

「それは辛かったでしょう。もう大丈夫です。一緒に治しましょう。」 

私の妻が、ある漢方医院を受診しました。これまでの様々な症状と辛い治療の歴史を話し終えたとき、じっと聞いていた先生がやさしい眼差しでそう言いました。そのことばを聞いた瞬間に、感動で涙が出そうになったそうです。「今までそんなことばをかけてもらったことがなかったので、とても救われた気がした。」と語る顔は晴れやかでした。先日、学会の講演会で、ある心療内科の先生のお話を聞きました。身体が一日中痛くてどうしようもないと訴える患者さん、旦那さんのツテを使って可能性のありそうなありとあらゆる教授や名医にかかってみたけれど全く治らなかった患者さんが受診されました。約45分間の初診面接が行われました。「ありがとうございました。何かとても楽になりました。これまでどんな有名な先生にかかっても私の苦しみをわかってもらえなかった。私の『痛み』をきちんと聞いてくれたのは先生が初めてです。」・・・診察を終えたとき、患者さんはそう言って帰っていきました。その1ヶ月後に受診したとき、痛みの訴えは半日間に減っていたそうです。

ここまで劇的でなくても、相手に「わかってもらえた」と実感できる瞬間があります。問題が何も解決していないのにそれだけでハッピーになったりします。症状が改善した患者さんに行ったある心療内科のアンケート調査の結果では、「なぜ治ったか?」の問いに、その25%は「安心感、信頼感」、20%は「具体的な説明」と答えたそうです。一方で、「わかってもらえていない」と感じることは、その何十倍も経験します。「そんなことじゃない。どうしてわかってくれないの?」と、イライラしたことは誰にもあるでしょう。夫婦や恋人同士なら間違いなくけんかに発展します。医療の場では、医療不信のきっかけとなりドクターショッピングにつながるかもしれません。「わかってもらう」ということがどんなに幸せでかつ難しいことかがわかります。

前述の学会では、元ミスタータイガース掛布雅之氏のフリートークもありました。彼は最後に患者さん方にメッセージを残しました。「主治医との心のキャッチボールをきちんとしましょう。キャッチボールは野球の基本です。投げる方は一番受け易い球を投げ、受ける方は投げる人の気持ちになって確実に心をキャッチする。その基本がなかなか出来ていない気がします。」・・・ここにとても重要な「わかってもらう」の極意があるように感じました。患者さんの主治医への想いはつい片思いになりがちです。「私の思いに気づかないのは相手が聞く耳を持たないからだ!」と不満を持ち続けていませんか?キャッチボールは投げる側の投げ方も重要だということです。患者さんも主治医も同じ球をキャッチボールするためには、どっちの心もお留守になってはいけないのだということを再確認させられました。

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自褒めコラム選(3)

立て板に水 (2008.1)

数年前の職員旅行で、ある観光ホテルに泊まりました。各部屋に分かれる前に全員がロビーに集められて、ホテルの特長や施設利用の注意項目などの説明を受けました。そのときに説明してくれた、そのホテルの担当の方の話し方は実に感動的でした。まさしく立て板に水を流すごとく、よどみも無駄もまったくないしゃべりで、それでいて早すぎもせず遅すぎもせず、小さすぎず大きすぎず、聞き取りやすい切れ味のよいトーン・・・それは耳にとても心地よく入ってきました。さすがはプロだと感心しました。ところが、話の終盤になって、ふと妙なことに気づきました。どうも周りの同僚たちも同じことを感じたようです。「結局、大浴場は何階にあるって言った?」「夕食は何時からって言った?」・・・彼が話した話の内容が頭にほとんど残っていないのです。あれだけきちんと聞き取れていたはずなのに、見事に右から左へ流れ出していました。

私たちは「伝える」という仕事をしています。毎日多くの人に接しながら限られた時間で受診者の皆さんに多くのことを伝えます。私たちもまた、あのホテルの方と同じようになっているのではないか、と不安になりました。「話した」ということと「伝えた」ということとは違います。「伝えた」ということと「伝わった」ということもまったく違います。言った、聞いてない、の争いは世に絶えません。たとえ「話した」としてもそれがちゃんと「伝わった」のでなければまったく意味がないのです。

先日、20数年ぶりにある患者さんにお会いしました。ある病気で言葉が不自由な方ですが、昔のままの満面の笑顔の彼は、古希を越えたとは思えない弾んだ歓声で迎えてくれました。彼の言葉はお世辞にも聞き取りやすいとはいえません。でも、彼の言っていることは聞き返す必要もなくニュアンスの隅々まで理解できました。彼は、「こころ」で伝えることを常に意識しているんです、と言います。遠い昔、入院した彼の主治医になった研修医の私に、患者-医者のスキルとしての会話ではない、こころの繋がりの大切さを教えてくれました。私たちは、たとえ頭で違うことを考えていてもきちんと必要なことを話すことができます。しかし、正確に聞き取りやすく話すスキルをどれだけ向上させても、おそらくそこにこころが入っていないと真意は伝わらないのだと思います。昼下がりの結果説明などで、口は正確に動いていたけれど今話した内容は伝わっていないかもしれない、と感じる瞬間が時々あります。私は、もし自分が相手だったら、今の言葉でちゃんと理解できるだろうか、そう自分に問いかけながら話すように心がけていますが、それでも時々受診者の方からお叱りを受けることがあります。そのときには決まって事務的になっている自分がいます。仕事としての「伝える」は本当に難しいものだと痛感します。久しぶりにこころの師に会えて、私の医師としての仕事の原点に立ち返った気がしました。

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自褒めコラム選(2)

これは、ちょっとだけ加筆訂正して次のコラム原稿に転用しようかと密かにたくらんでいるやつです。

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診察室は不思議な空間~本当に難解な医者のことば~(2006.1)

病院の診察室には俗世間とは一線を画した異質な空気が立ちこめています。中に入るだけで緊張して頭が真っ白になります。私の専門は循環器(心臓病)ですので、外来には心臓のことが気になるさまざまな患者さんがやってきます。

「最近、胸がどぎゃんかあるとです。」
「『どぎゃんか』を、もっと具体的に言ってくれませんか?」
「…動悸のうつこともあるし、…なんさま、きつかっです。」
「『動悸』というのは「ドキドキ」と脈が速くなる感じですか?それとも「ドッキン」と強く打つ感じですか?」
「……。」
「『きつい』というのは、「だるい」という意味ですか?それとも「息苦しい」という意味ですか?」
「……。」
「それはどれくらい続きますか?」「長くはなかです。しばらくすっと治ります。」「『しばらく』とは、何分くらいですか?」
「……。」

まるで尋問のような質問責め、これを「問診」といいます。決して意地悪しているのではありません。医者は問診だけで大方の診断をつけられないと一流とはいえません。心臓病の場合は特に大事です。ですから一言も曖昧にするわけにいかないのです。きびしい面接官の様です。

先日のある朝、運転をしていて急に気分が悪くなり目の前がぼーっとしました。路肩に車を停めてじっとしていたらすぐに良くなりました。「何だったんだろうあれは?」専門医である自分は自分に問診します。「何となくおかしい。胸がどうかあってきつい。」まさしくこれです。この症状を表現するのにこれ以上の日本語はないように思えます。医学書の中にあるどんな用語を探しても、今の状態を表現できることばは他に存在しないように思いますし、他のことばに替えたら、何かが間違っているように思います。日頃の自分の診療風景を思い出しながら一人で苦笑いをしました。

体は、何か普通でない状態が起きたことを、症状として訴えようとします。その表現は時としてきわめて曖昧です。それを一番近い医学用語に置き換えて、体のどの辺りからの訴えなのか探るのが問診です。ですから、簡単におおざっぱな医学用語に当てはめようとせず、患者さんの体と対話する真摯な気持ちを持って細かく聞いてあげる態度こそが、医者として必要であることをいつも痛感します。

さて、尋問の時間が終わって、必要ないくつかの検査を行った後、医者はこう言います。 「特に問題はなさそうですので、様子をみましょう。何かあったらまた来てください。」 ・・・そのことばに安堵して帰路についたあなた。あなたは、この難解なる呪文をきちんと一般のことばに翻訳できましたか。「様子をみる」というのは、何を、誰が、どうすることか?様子をみてどうするのか?いつまでみるのか?「何かあったら」の「何か」とは何なのか?…どうです、答えられますか?

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自褒めコラム選(1)

昨日、思い立って、「これまでのコラムから自分の好きなものを並べる!」と書いたものの、調べてみたらちょうど1年前にまったく同じことをやっていました。どんだけ自分が好きなんや?(笑) それでも、数編をそのまま再掲載してみます。よろしかったら読んでみてください。

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その「常識」は非常識?~固定観念をはねのけるのはむずかしい~ (2005.1)

私が冷奴にしょうゆをかけなくなって10年以上になります。きっかけはある病院に単身赴任した時でした。私はもめん豆腐が大好きです。子供の頃、豆腐屋の自転車がくるとボールを持って表に走って出るのが私の仕事でした。「おまえは豆腐だけで大きくなった様なもんだ」と父がよく話していました。今でも居酒屋に行ったらまずは「とりあえず冷奴!」。

赴任した日、そんな豆腐マニアの私は、仕事が終わるのももどかしく急いで豆腐を買いに行きました。一丁そのまま大きな皿に移してホクホクしながら缶ビール片手に、さあ食べよう!と思ったとき、大事なことに気付きました。しょうゆがない。短期の単身赴任だから持ってこなかったのです。買いに行くのは面倒だからそのまま食べちゃえ。何とかなるでしょと食ってみたら・・・これが、とってもおいしい!豆腐は「味がないモノ」ではなかったのか。豆腐がこんなに甘くて歯ごたえがあって食べた後まで大豆の濃厚なうま味を口中に広げるモノだなんて。なんでわざわざしょうゆなんかかけてこんなおいしい味を台無しにしていたのか。それはとてもショッキングな出来事でした。

この出来事は、私の物事に対する考え方を大きく変えました。こうあるべき、とかこうあって当然、とか、ただ思いこんでいるだけのことが他にもたくさんあるのではないか?それは本当に正解なのか?健康に対する情報が氾濫する中で、信じていた常識は簡単にくつがえされます。それでも最初に植え付けられた常識を無に戻すのは、これが意外に大変なのです。「健康のためには動物性のバターより植物性のマーガリン」と云われていたかと思えば、「マーガリンのトランス脂肪酸はバターより危険」となる。戦前戦後の日本人の死因は感染症と脳卒中(脳出血)が主体でした。いずれも栄養不足が原因だとされ、親は自分は食べなくても子供にだけは良いモノを、と考えました。ところが現在、死因の主体はがん・虚血性心臓病・脳卒中(脳梗塞)に移り、子供達は若くして生活習慣病に冒されています。欧米化された高脂肪食が主犯です。肥満児化してしまった我が子を目の当たりにしても「子供には高栄養食を」という呪縛から逃れられないでいます。

私は、豆腐にしょうゆをかけるのがナンセンスと云いたいわけではありません。適量のしょうゆや鰹節は素材のおいしさを引き立ててくれるでしょう。生姜は消化を良くしてくれます。ただ、試したこともないのに「豆腐には味がない」「豆腐にはしょうゆ」と決め込んでいた理由は、家族の皆がしょうゆをかけていた姿にあります。そうするのが当たり前という固定観念を子供にうえつけないで、ちょっと自分で考えさせてあげてほしいと思います。「こうしなければならない」とか、「こうすべき」とか、お子さんに押しつけていませんか?自分が子供のころに親から教わった常識は、実は全くの非常識かもしれません。

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自褒めコラム選(0)

わたしが今の仕事を初めてから、あちこちに依頼を受けて書いたコラムが、45編にまりました。

先日、1年前にわざわざ被災見舞いに来熊していただいた高校時代の恩師(今は地元で寺の住職をされています)にそのコピー集をお送りしました。先生も定期的に地元の新聞に短いコラムを投稿しておられ、お会いした時に文章を書く大変さをお話し合ったことを思い出し、また一緒にこられた先生の奥さまがわたしの文章のファンだ(年賀状に書き添えた文を楽しみにしている)と云われてたので、まとめて読んでいただきたくて僭越ながらコピーをお送りした次第・・・残念ながらお二人ともインターネットやスマホとは縁がないそうなので、アナログで対応。

で、その時に自分の文章をまとめて読んでみました。「なかなか良いこと書いちょん」と自褒めしながら、今一度、そのなかでも自分の好きな文章を紹介してみようという気になりました。9年間続けているこのブログの中にすべて紹介してありますから、読んだことのある方も多いかもしれませんが、改めてちょっとの期間お付き合いください。

明日から始めさせていただきます。

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太極拳と心リハ

太極拳が心リハの代替として有望

Medical Tribuneから届いた記事の見出しについ食いついてしまいました。心筋梗塞発症後や心臓手術後の包括的リハビリテーションの継続がいかに重要かということは、その筋の者ならだれでも承知していますし、患者さんにもそのことを告げますが、実際の継続は意外にむずかしいものです。大病を患ったあと、自分の体力への自信が消失していることや臆病になってしまっていることも原因ですが、そもそもリハビリというのは面倒くさくて退屈なものです。日本でも心リハの継続率が高くないことは問題になっています。もっとも、日本では相変わらず保険適応が切れた後の心リハを継続する場がないことがまずは問題なのでしょうが。

そこで、このアメリカブラウン大学からの報告。『心リハの代替として太極拳が冠動脈疾患(CHD)後の身体活動、体力、体重、QOLに与える影響や安全性を検討した結果、6カ月間の太極拳プログラムにより身体活動量が増加するなど、心リハの代替として有望であることをJ Am Heart Assoc2017;6: e006603)で発表した』『太極拳は、呼吸やリラクゼーションエクササイズのようなストレス軽減のメカニズムを通して心血管アウトカムに好影響をもたらす可能性が高い』と書かれています。

何となくこのオリエンタルで静かな動きが目先を変えてくれて楽しかったのが良かったのではないかと感じていますが、実は太極拳ってとても大きな運動量で、かなりの体力を要します。6か月間以降もそのまま太極拳を続ける人が増えると良いですね。そして、われらが少林拳にもおそらく同様の代替効果があることが推測されますが、どうしても太極拳に比べると”激しい所作”のイメージが邪魔をするのだと思います。是非こっちもどこかの施設が検討してみることを期待します。

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進化は退化(掲載文)

先日TV番組で、「昭和の人って電話番号をいくつも暗記していたんでしょ。信じられませんよね」と云っている若者。「650円を払うのに500円玉をもらうために1150円を払うなんて、気持ちが悪い」という女子アナ。そんなの見て「何云ってんだか」と思いましたが・・・定期の機関誌秋号が発行されました。先日長々と書いたものを、こういう形で1000字にまとめました。

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あなたは、小銭入れを持ち歩いていますか?  
あなたの小銭入れは、パンパンに膨らんでいませんか?

“小銭入れ”が認知症の予防と早期発見のキーワードだということをテレビの健康番組で知りま した。某予備校講師が「小銭入れには最低限の小銭しか入れない」とテレビで言っていたのを思 い出します。“最低限”というのは1円玉、10円玉、百円玉なら4枚まで、5円玉、50円玉、五百円 玉なら1枚まで・・・支払う時にきちんと計算して出せばこれ以上の小銭は必要ないというのです。 一方、面倒くさいので紙幣だけ出して大量の小銭を溜めてしまう人は、頭を使わないので認知症 になりやすいという警鐘。なるほど、合点がいきます。

ところが今、世間ではこの小銭入れの強烈な敵が蔓延っています。電子マネーです。チャージ さえしておけばカードをかざすだけで事足ります。ずっと頑なに拒んでいた私も、先日の東京出 張の時にPASMOを購入しました。Suicaと並ぶ代表的な交通系電子マネーです。それはそれは便 利。JRだろうが地下鉄だろうが私鉄だろうがコンビニだろうが、どこでもこの1枚で事足ります。 何より、経路図を見て運賃を確認して財布から金を取り出して券売機に入れて切符を選ぶという 作業が一切要らない。何を今さら、とバカにしないでください。こんなに便利になっているとは 思いませんでした。その後はおもちゃを与えられた子どものようにいつも持ち歩くようになりま したし、これを機に、その他の電子マネー付カードも積極的に使うようになりました。それが、く だんの健康番組を見たときにハタと気づいたのです。「確かに、まったく頭を使ってない!」… ゾッとしました。レジを待つ長蛇の列や電車の券売機の前でモタモタしないで済むメリットと引 き替えに、失っていくものはとても大きい。現代社会の便利さは電子マネーにとどまりません。 昔は誰でも10件は覚えていた電話番号は、携帯電話やスマホに覚えさせた時点で忘れていきまし た。カーナビは、地図をくるくる回しながら道順や位置関係を想像する作業を奪い取りました。 運動欲のない人間、2階に上るのにも目の前の階段を後目にエレベーター探しをします。便利を追 い求める限り、人間はますます退化を加速させるのだろうと確信します。

“考える”という努力をしないと「要らなきゃ捨て ますよ」とばかりに簡単に破棄されるのが自然の摂 理です。昔から想像されていた頭でっかちの未来 人の予想図は間違いで、本当は頭も小さくて空洞に なっていくのかもしれません。認知症などまったく 興味ないであろう若い世代のみなさん、お気をつ けあれ。

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明日講話の備忘録

予防医療は治療の医療ではない。そもそも病気が相手の医療ではない。病気にならないように注意することでもない。健康な社会の一員であることを自覚させ維持させる医療である。だから、もはやこれは”医療”ではない。

今の社会が病んでいるのは、「健康になるためには”がまん”しなければならない」と全員が思い込まされていることだ。

がまんの先に健康はない。
がまんの先に幸せはない。

健康が”当たり前”の社会に今一度戻るためには、まず、社会全体がそういう機運に動いて行かなければ意味がないのである。

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骨折の地域差

西日本は大腿骨もろい?

読売新聞に掲載されたデータから。骨粗鬆症財団の研究チームによると大腿骨骨折の発生率(大腿骨を折って手術を受けた人の発生状況を分析)は西に多くて東や北に少ないという結果だったそうで、一位の沖縄と最下位の秋田の間には2倍近い差があるとのことです。

納豆消費量だとかカルシウム摂取量だとか運動量だとかいろいろ考察されているのですが、何か腑に落ちない気がします。単純に、「南の人間の方が活発に動いているからその機会が多いだけ」とか「北の人間の方が動きが慎重だ(南の人間は行動がガサツだ)」とかそういう問題ではないのかしら。大腿骨骨折の発生数に対して手術件数に差があったというのならまだ分かるけれど、単なる件数だけの比較なのだから。

いや、別に、地元熊本や出身地大分の発生率が多いのに対してケチをつけたいわけではないのですけれど・・・。

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ベジファーストとカーボラスト

『食べ順ダイエット』はもはや糖尿病患者さんだけでなく多くの一般市民のコンセンサスを得た方法になりました。「同じものを食べるとしたら、最初にごはんを食べるのではなく、最初に野菜から食べて最後にごはんという順にした方が食後高血糖にならない」というもの。人間ドックの説明をしていても、実行している人はかなり多いです。

で、この方法について、ロカボ推進派で有名な山田悟先生の連載記事がMedical Tribuneに出ておりました。

食べ順ダイエットの要諦は野菜にあらず~「べジ・ファースト」でなく「カーボ・ラスト」

簡単に云えば、”食べ順ダイエット”の極意は、べジ・ファースト(野菜を最初に食べるの意)ではなく、カーボ・ラスト(糖質を最後に食べるの意)であるということを欧米においても示された、ということを書いています。だから、「最初に野菜を食べる」というのではなく、「炭水化物は最後にする」ということを強調してほしいというわけです。そりゃそうだ。「野菜が先ならいいとばかりにサラダを追加して免罪符のように食べる人がいるけれど、そんなのただの『食い過ぎ』ですからね」とわたしが云っていることを実証しただけ。というか、もともと大阪府立大から提唱された時点からそう云っているのに、いつのまにか野菜先(ベジファースト)だけが一人歩きしてしまった、これもマスコミの責任でしょうか。

山田先生の記事に中にあった『食物の選択余地が少ない東日本大震災の避難者などに対する血糖管理法というのはとても参考になるいいテキストだと思います。

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「病院総合医」

MedPeer朝日ニュースから配信された記事。

「便利屋」ではない 「病院総合医」育成へ

を読みながら、少しずつ着実に総合診療医の地位が上がっていくことを祈っております。『日本病院会(=日病、相澤孝夫会長)は10月3日の定例会見で、卒後6年目以降の医師を対象とした「病院総合医」の育成を来年4月から開始すると発表しました』『病院総合医を「高い倫理観、人間性、社会性をもって総合的な医療を展開し、将来の管理者候補として期待される人材」と位置づけ』られ、5つの理念と5つの到達目標を掲げているそうです。単なる"総合診療医”ではなく、最終的に『総合的な病院経営・管理能力があり、病院だけでなく地域医療にも貢献できる医師を育成する』ということなので、経営者としての育成も兼ねているようです。

専門医制がどんどん細分化し、エキスパートを目指す医師ばかりが増えて、「病気を見て人を診ず」となっている現在の医療現場を見直すために総合診療医育成に力が注がれるようになったのですが、やはりまだまだ「ジェネラリストはスペシャリストより格下」という風潮が世間一般だけでなく医者の中にも根強くあり、また「まずは自分の技術を磨き上げてからでないと」「まだまだ自分には医者としての経験と実力がないから」といいわけしながらジェネラリストになるのを面倒くさがる医師がまだ主流なのでしょう。たしかにジェネラリストになるためにはかなりの力量が要りますから、最初からそうなるつもりで研修していかないと専門職の延長上のリタイヤしてからの職だと思っている輩にはつとまりますまい。

もっとも、それに経営者育成の概念まで付け加えられると、ちょっと方向が違ってくるので、「それならいいわ」と敬遠する人もでてきましょう。わたしなんかはきっとそのタイプです。

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羽根休め

身近に昨年の地震以来いまだに体調が戻れず日常生活にも支障をきたしている人がいます。熊本のヒトのトラウマは大なり小なり消えることなく潜んでいます(我が家のワンの大きな音に対するうろたえ方を見る限り、それは人間だけでもない様子)が、それが不安神経症として低空飛行のまま回復できないことへの焦りで潰されそうになっています。

でも、それは無理のないこと。突然予期しない地割れがして穴の中に転げ落ちた。真っ暗闇の中を泥まみれになりながらやっとの思いで這い上がってきたところ。穴から這い上がったから、さあこれで昔のように飛び立てるぞと思ったら大間違いです。深い穴から必死の思いで這い上がるのに費やした体力は並大抵のものではないし、油断するとまた穴の底から吸い込まれそうになるのを耐えつづけなければなりません。消耗した体力を蓄え戻して羽を整えるためには、まだまだ多くの時間が必要です。

「まだ薬を飲まないとまともに眠れない」と悩むなかれ。
「薬を飲めば眠れるようになるまで回復した」と思うべし。

側の人間は、禅問答のように簡単にいうけれど、そう思えるように変化するだけでもそんなたやすいものではありません。そう実感します。でも、一進一退しながらも一年前より確実に前に進んでいることを、ずっと見守っているわたしにはちゃんと見えています。飛び上がる準備段階に移るまでには、もう少し羽根休めする時間が要りますよ。

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症状ないから?

人間ドックや健診結果から『要精査』『要治療』の判定をして診療情報書を送るのに受診しない人の言い訳の双璧は、相変わらず「忙しかったから」と「症状がないから」です。どちらも似たような理由づけなのですが、先日受診者本人から書面が送られてきました。

「健診結果の値が悪くて紹介状が出されていることは十分承知していますが、毎年同様の異常が指摘されているにもかかわらず全く体調は良好で、特別な症状もなく、わたしは『自分は病気ではない』と考えております。体調に何らかの変化があれば受診も考えますが、現時点で医療機関受診の意思はありません。どうぞわたしの意向をご理解ください」

いろいろ云いたいことはありますが、丁寧に健診機関に返事を書かれたことに敬意を表したいと思います。特に自分の希望で受ける人間ドックと違って、企業健診として自分の意思とは関わりなく受けさせられている人にとってはこういう想いの人は多いのではないでしょうか。

「どうもないから問題ない」の理論は予防医療の世界では論外であり(「まだ病気ではない」は正しいけれど「問題ない」かどうかはわからない)、わたしの専門領域である心臓や血圧の問題から出てくる症状はおそらく『突然死』とか『突然倒れる』とかいう類だと思われるのですが、本当にその程度の覚悟は持っているのだろうか、という思いはあります。個人事業者や国民保険の個人受診者の皆さんには、その危険性さえきちんと伝えておけば、その後の受診の有無は自己責任だと思うのですが、くだんの受診者のような企業健診の場合は管理者(会社)に責任があるので「受診してもしなくても本人の勝手」というわけにはいかないのです。本意ではないかもしれないけれど、会社で働いている限りは受診するまでずっと受診干渉せざるを得ない、というのが、わたしたちアウトソーシングを引き受けている施設の立場なのです。借金の取り立て屋みたいで申し訳ないのですが、そこのところをご理解くださいませ。

 

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運動の効能についてもコホート研究

30分×5日/週の身体活動で12人に1人の死亡予防~五大陸大規模コホート研究PURE study

Medical Tribuneで紹介された記事。経済水準が異なる国や地域の一般住民を対象とした大規模コホート研究PURE studyで身体活動と死亡や心血管疾患の発生との関連を検討した結果、国の経済水準の違いや身体活動の種類にかかわらず、身体活動量の増加は死亡や心血管疾患発生のリスク低下と関連する(1日30分、週5回の身体活動により12人に1人の死亡が予防できる可能性など)ことを発表した(Lancet 2017年9月21日オンライン版)、というものです。

『身体活動は低コストの戦略』『身体活動の促進は持続可能な健康をもたらす』などと大きな見出しが並んでいます。多動児であるわたしは、雨でも降らない限り毎日ワンの散歩を小一時間やりますから、普通にクリアする基準ではありますが、さてさて、”運動欲の存在しない人間ども”にとって、こんなデータはカラダを起きあがらせる起爆剤になるものでしょうか?

かくいうわたしも最近は必要以上に歩くことを極力控えるようになりました。身体活動をアップさせるために散歩の後にさらに小一時間一人で散歩して歩数稼ぎをするのが日課でしたが、どうもそれをすると翌朝からしばらく股関節と腰が痛くなって日常生活に支障を来すようになったのです。股関節痛と腰痛が起きるようになったのは他の理由だ!と他人に云ってますが、たぶん歩きすぎでしょう。運動の後のクールダウンやストレッチ、コンディショニングなどをきちんとすれば良いのでしょうが、運動を終えればそのままなのが日常。こういうデータは、動く習慣のない人に腰を上げさせる効果はありますが、それ以上に日頃から動いている人の活動量をさらに引き上げる危険性を秘めています。今でも十分なのに、「運動はすればするだけ健康にいい」と思い込んでいる輩(特に高齢者)・・・こっちのやり過ぎには警鐘をならしておいてほしいものです。

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コトバの使い分け

「先生 、おはようございます。今日は大変お世話になりました。どうもありがとうございました」などと深々と頭を下げたかと思えば、後ろを向いて「おい、〇〇くん、これを急いで片付けてくれ。こないだ指示しといた書類はできとるんか?」と部下を呼びつける。「おい、そこの坊主、これ食ってもいいぞ」と弁当残りを子どもに投げ捨てたりする。

ちょっと例が極端だけど、相手によってコトバ遣いを完全に変える人がいます。わたしはこれができません。家族や旧友以外では、よほど親しみを込めたい時でない限り、自分が上司だからとか、年齢が上だからとか、そんな理由で赤の他人にタメ語を使うことができないのです。小学生にも丁寧語を使って友人に笑われたこともありますが、相手によっていろいろ使い分けする意味もないし、上から目線で話しかけるほど自分は優れた人間だとも思わないし、そもそも自分の地位や年齢は相手には何の意味もないし、などと頭の中で考えてしまうのかもしれません。

だから、それを見事に使い分けることできる人を見ると、「ある意味すごいな!」と思います。まあ、別に憧れはしませんけれど、いつからそんな使い分けができるようになったのかちょっと興味はあります。彼らは、たぶん、常日頃誰に対してもタメ語を使っていて、仕事の時だけ外国語を使うときのように別のモードになるのでしょうかな。

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枯れ尾花

胸部レントゲン検査の読影をしていると、そこに実体がないのに何かがあるような気がしてならない時があります。「これは、異常陰影?」と思って所見を指摘するのですが、ちょっと間を開けてもう一度見直してみると、さっきあれだけ見えていた陰影が見えなくなる。「あれ、ただの骨か!」・・・こんな思い込みによる勘違いはよくあることで、見落とすよりは良いんじゃないかといわれるのですが、なんか腑に落ちない。どうして自分にだけ見えたのか・・・。

一方で、自分には何もないように見えたのに、二次読影の他の先生が読んだ所見に「異常あり」と書いてあったので見比べてみると、確かにそこには明確なカゲがある。カゲがあると分かったら、その後は何度見返してもそこには明らかなカゲが圧倒的に存在する。どうしてこんな明らかな異常が自分には見えなかったのだろう?と思うと凹んでしまう。

”幽霊の正体見たり枯れ尾花”

だから、人間ドックの画像読影は二重読影(複数の医者が別々に読影して一致するか確認する)が基本。分かっているけど、まだまだ未熟者な自分に喝!

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平均値のおそろしさ

「日本人の肥満が増加した原因はカロリーの取りすぎだと云われてきたけれど、それは間違いである。なぜなら、最近の日本人は健康志向の影響でカロリー摂取量は明らかに減ってきているにも関わらず相変わらず肥満も糖尿病も増加しているからである」という理論に対して、「個々の肥満患者を診ていると、彼らは確実に摂取カロリーが多い」「平均で変化がないのは、痩せ(特に若い女性)と肥満の二極化の結果であり、単に平均のグラフの動向から判断するのは早計である」と慶應大学の伊藤裕先生が一喝しているのを読みました(『アンチエイジング・バトル』坪田一男著、朝日新書 p26)

こういう類のデータ分析は以前からよく問題になっていて、諸般の理論のアンチテーゼを論ずるときにあえて同じデータの読み解き方の違いを指摘することが手法として行われます。基本的に医療の現場では統計学的検証で有意差を証明しない限り普遍的な事実しては認めてもらえないのですが、まさしく日本人の肥満統計はいい例で、極端に悪いものと極端に良いものとが同等に存在すると平均点として希釈されてしまう可能性はあります(バラツキの評価はできますが)。くだんの肥満とカロリーの関係についてはどっちが真実か存じませんが、こういう統計結果の評価の仕方で真逆の結論を導き出すのだとしたら、こと予防医療のための一般市民の生活の仕方に普遍的な理論を後ろ盾にしようとすることに無理があるのではないかという気がします。やはり、健康を得るのに理屈はいらないのではないかしら?・・・そんなことを云ったら、元も子もないか。

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アプリとパターン認識

スマホの普及により、健康管理のためのアプリケーションもたくさん開発されています。自分の日々の生活で食べているもの、感じていること、活動量、起床時間、睡眠時間など、目的によって違いこそあれ、ボタンを押していくだけで診断をしてくれて各々の診断に従った生活のアドバイスをしてくれます。この手のプログラムがちゃんと普及できるかどうかのポイントは、入力が簡単であることとアドバイスが適切であることだと思います。

わたしたちの施設でも大手メーカーの協力を得て活動量のアプリの使用を始めましたが、あれはちょっと扱い方が面倒なのでうまく普及できるかどうかは疑問です。ただ、そういう世界に関わってみて感じることは、結局診断もアドバイスもすべてが単なるパターン認識に過ぎない、と割り切られているのだということです。この条件とこの項目が合わされば診断はこれである可能性が一番高く、こういう生活パターンの人にはこういうアドバイスをしておけば良い。10年以上前に「こんなもの、単なるパターンですよ」とゲスに笑っていた理系男子のイヤな顔をふと思い出しました。

こういうことは、単純に割り切ることが肝要だということはよくわかっています。大事なことは診断よりもその後の実行できる細かい個別のアドバイスだけれど、そこに人は割けない。だから出来るだけ機械が答えてくれて人間が介在しないで良いようにしないと採算が合わない、ということも理解しています。わたしのように、「人間はパターン認識だけでは分類できない行動を取る。例外があるからこそ個性なのだ」と思っている人種には絶対に携われない世界だということも自負します。

学校教師をしていた父が生徒たちを数種類にパターン分けして単純にパターンごとの指導法をしながら「教育なんて簡単だ」と云い切っていた横で、子どもたちの各人の個性に悩み「どうやったらこの子の性格を活かせるかなあ」と毎晩頭を抱えながらいつに間にかうたた寝をしていたこれも学校教師の母の姿を思い浮かべ、結局父の生き方が勝ち組なのだろうかなあと思う今日このごろです。もっとも、母以上に不器用に育った自分、全然キライではありませんし、これからもそんな自分の想いを大切にして行きたいものだと思っております。

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「切り捨てる」ということ

白内障の手術を受けた義母は、洋裁を生業としています。手元で繊細な作業をするためにはメガネが必要でした。ところが、術後とてもよく見えるようになったので、眼鏡なしでもきちんと仕事ができるそうです。実は、本人は覚えていないようですが、レンズを合わせるときに、近くに焦点を合わせてもらったのです。運転をしたり映画を見たりすることがないお義母さんは日常生活でほとんど遠くを見る必要がないから、これで問題はない。その代わり、街で遠くから会釈する人がいても、誰だかわからない。わからないけどとりあえず会釈を返している、と笑いながら話していました。ここまで割り切っているなら問題はなさそうです。

でも、遠くも近くもどちらもそれなりに見えるようにしたいという想いでこしらえたわたしのコンタクトレンズは、結局どっちつかずで、どっちも見づらいし、高い金出して作った遠近両用メガネは、もっと使いづらい。止むを得ずコンタクトレンズしながら老眼鏡をかけることで仕事の書類の小さな文字は解決するけれど、そんな思いをしてまで目を使わなくてもいいやと思うので、最近本を読むことが極端に減りました。夜のサッカー場での生観戦なども微妙にアバウトにしか見えていませんし。

人生というものは、どっちかを切り捨てた方がスッキリすることが意外に多い気がします。そんなことはわかっているのだけれど、どっちを切り捨てる?という選択は、なにか意外と大変なことなのです。切り捨てないと二進も三進も行かないことは歳とともに増えてくるのだけれど、歳とともに切り捨てる勇気が無くなっていくもの。「もったいない」ではないの、「勇気」なの。

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アディポネクチンと骨折

血中アディポネクチン濃度の上昇が骨折の予測因子に-日本人糖尿病患者の大規模コホート研究を解析

超善玉ホルモン(あるいは長寿ホルモン)と称せられるアディポネクチンは今が旬とばかりにあちこちで研究されていますし、うちの施設でも人間ドックで測定を始めました。当然インスリン機能を改善させ動脈硬化を予防するこのホルモンは「多いに越したことがない」と思っていましたし、皆さんにもそう説明してきました。

ところがどうも、アディポネクチンは骨折リスクを上昇させるのだと。『アディポネクチンとその受容体はヒトの骨芽細胞にも発現するため骨代謝にも大きな影響を及ぼすと考えられている。これまで糖尿病がない男性では、血中アディポネクチン濃度の上昇は骨折リスクの増加と関連することが報告されている』『大規模な前向き疫学調査である福岡県糖尿病患者データベース研究(Fukuoka Diabetes Registry;FDR)のデータを用いて、血中アディポネクチン濃度と骨折リスク(全ての骨折および骨粗鬆症性骨折)との関連を調べた』ところ、『閉経後女性を含む2型糖尿病患者では、血中アディポネクチン濃度の上昇に伴い、骨折全体のリスクだけでなく骨粗鬆症性骨折を来すリスクも高まる可能性がある』ことがわかり、さらに『閉経後女性と男性における骨折のリスク因子を調べたところ、両者の骨粗鬆症性骨折の有意なリスク因子として高アディポネクチン血症(血中アディポネクチン濃度が20μg/mL以上)が浮かび上がった』というのです。

血中アディポネクチン濃度が20μg/mL以上というのは、NHKにして「100歳まで生きる選び抜かれた人」なわけじゃないのかいな?

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へふれふ、へふぺふ

先週末に大阪で行われた第65回日本心臓病学会学術総会に参加してきました。循環器救急の現場から離れて15年以上が経ち、小さな研究会や画像系の学会を除けばこの領域の学会に参加させていただくのは本当に久しぶりでした。

で、今回の学会で初めて知った単語。「ヘフレフ」と「ヘフペフ」。事もあろうに、今の仕事では絶対にお目にかかれないであろう『心不全』のシンポジウムになんとなく引っ張られるようにして入ってしまったら、最初からこの単語。「なんとも滑舌の悪い医者だこと」と思うたら、これが正式な発音なんですってさ。しかもそんなこと常識らしい。さっそくこっそりスマホで検索。

欧州心臓病学会(ESC) が作成した「急性及び慢性心不全の診断と治療ガイドライン2016」の改訂版では、従来から大きく二分されていた左室駆出率(LVEF)が低下した心不全(heart failure with reduced EF:HFrEFヘフレフ)とLVEFが保持された心不全(heart failure with preserved EF:HFpEFヘフペフ)との間に、LVEFが「mid-range」の心不全(heart failure with mid-rangeEF:HFmrEFミッドレンジ)が新たに加わった”(「心不全の薬物治療の最前線」から)

さーて、ちんぷんかんぷんだぞ。その「従来から二分されていた」というのが、ヘフレフとヘフペフのようである。「ヘフレフ」が左室収縮力低下にともなう心不全で、「へふぺふ」が左室拡張機能障害による心不全(左室収縮力の低下がない )なんだと? わたしの知っている心不全の概念は、「心不全はまず拡張不全から始まって進行すると収縮不全になる。だから初期の段階ではなかなか見つけられない」というものだったのに、いつの間にかこの2つは別の概念であるということになっている。どうも2011年あたりからそうなったみたいですが、これはほとんどカルチャーショック的衝撃。昔の理論で作ったスライドで偉そうにレクチャーしていたのが恥ずかしい。やっぱり、数年に一度はトレンドの学会には出ておかないと、浦島太郎というか化石扱いになってしまうな、と痛感しました。

ちなみに学会で仕入れたヘフペフの知識メモ。ヘフペフでは心エコー上、左室長軸方向の収縮力が低下する所見が確認され、因子として糖尿病、高血圧、肥満が関与している。また、年齢とともに低下して特に高齢女性は注意を要する、だそうな。

 

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階段の使い方

先週末は大阪で学会でした。まあ、関西はエスカレーターの右側に並び、関東は左側に並ぶという文化の違いにはすっかり慣れて、駅でもデパートでも違和感なく周りの皆さんの流れに乗れるアラカン親父。最近は「エスカレーターで歩くべきでない!」が話題になっているからか、大阪駅も新大阪駅も前より歩く輩が減った気はしました。もっとも、ゴロゴロ転がしていた割には駅であまりエスカレーターに恵まれず、階段ばかり使わされた感はありますが。

で、学会場。関東で総会がある時は大部分が左側並びなのでほとんど気にならないのだけれど、関西で全国学会があると関西の人は迷うことなく右側に立ちますよね。今回の会場だったグランキューブ大阪は12階までフルに使うので移動が多く、それでも箱がキライなわたしはほとんどがエスカレーターで行ったり来たり(階段使いたかったけど非常時以外は使わせないぞ感満載だったので断念)。自分の前に乗っている連中が右に立つか左に立つかでどこから来た連中なのか推測して遊んでいました。

そんなわたしは、1日目は左からの右側修正。2日目は午前中右側で午後左(前がみんな左だったから)、たまに真ん中にしてみたけれど、やっぱり手すりを握ってないと不安だから最後は左に落ち着きました。

こういうのも、意外に頭の体操になるものよ(笑)

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高齢者の人間ドック

高齢者に人間ドックは必要なのか?という議論はずっとあります。「80歳以上に人間ドックは不要!」と云うと、「年寄りを切り捨てるのか?」と怒る人がいるけれど、それは大きな間違い、というか誤解です。

日本の医療技術水準は高いので安全度は他の国に比べれば高いでしょうが、それでも人間ドックは身体に負担をかける検査をたくさんします。胃カメラだって大腸カメラだって子宮体がん検査だって、身体の中に異物を挿入する検査です。固い医療器具が粘膜を擦るのですから必ず傷をつけます。何らかの異常のために必要に迫られて行うわけでもないのに、身体に傷をつける危険性に対して無頓着すぎです。細胞が歳をとると回復にも時間がかかります。

検査で異常を見つけるメリットと検査で身体が傷つくデメリットとどちらが上か? 歳を経るほど細胞が劣化するのだから、若い人より病気を見つけ出す可能性は高いはず。それを病気と云っていいのかどうかは議論のあるところですが、異常値は確かに歳とともに多くなるでしょう。でも日々をきちんと過ごしておれば、そのほとんどは治療を要しません。それでも気づかずに進行がんなどを見つけたとしたら、おそらく根治術の適応ではありません。そうなると、治療もしないのに病気を見つけるメリットは果たしてあるのか・・・「自分は病気だ、でも治せない」では、存在が気になるだけ損なのでは?

乱暴な書き方をしましたが、年齢が上がるほど身体の異常は増えてくるし不調も増えてくるのが摂理。それならば通り一遍のスクリーニング検査に身を晒すのではなく、自分の身を任せられるホームドクターをしっかり持ちながら、日々の体調の相談をするのが得策ではないだろうか。

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無駄な検査~CEA検査

多くの人間ドックのメニューに腫瘍マーカーとしてCEAというのがあります。CEAは、carcinoembryonic antigen(がん胎児性抗原)の略称で、胎児の消化器の粘膜組織に存在するたんぱく質のこと。出生後は極微量になるはずのこの物質が異常に増加すると、大腸がんや肺がん、胃がんなどの存在する危険性があるため、がんのスクリーニング検査として人間ドックに入れられています。

ところがこれ、肺がんや大腸がんだけではなく、肺や甲状腺の炎症でも上昇しますし、膵臓や胆のうや耳鼻咽喉科領域のがんでも上昇することがあり、前立腺特異抗原であるPSAほど決め手のある検査ではありません。

CEAが異常高値だと、必ず大腸ファイバーと肺CT検査を精査として受けることを要求し、そこに異常がないと他の臓器のさらなる検査を検討しなければならないことになります。CEAだけを保険診療で定期的に検査することは禁止されています。費用と時間を費やしていろいろ調べた挙げ句に問題なかったとしても、その異常高値の値だけが残りますし、おそらく翌年も異常高値でしょう。正体も分からないのに毎年のドックの度に心が凹みます。喫煙者はたばこを止めれば正常化する人が少なくなく、この場合はまさしく肺の慢性炎症の表れでしょう。

一方、諸検査をして大腸がんや膵臓がんや胆管がんなどを見つけて治療した人もいます。でもすべてが進行がんです。CEA検査をしなくても、人間ドックでは腹部エコーや便潜血検査をしますのでそのレベルであれば他の検査で見つけられる可能性が高く、CEAだけで見つかった例はほとんどない・・・予防医療として早期がんを発見できるスクリーニング検査ではないのです。

となるとこの検査、心を凹ませるだけの存在でしかなく、商品を売る営業サイドとしては残しておきたい顔をしていますが、そもそも健診やドックでのスクリーニングとしての存在価値はないに等しいと云えます。検査さえしなければ心安らかな人生を送れる人は意外に多いことを知っているだけに、この検査、「止めてしまえばいいのに」というのが医局の意見です。

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