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「切り捨てる」ということ

白内障の手術を受けた義母は、洋裁を生業としています。手元で繊細な作業をするためにはメガネが必要でした。ところが、術後とてもよく見えるようになったので、眼鏡なしでもきちんと仕事ができるそうです。実は、本人は覚えていないようですが、レンズを合わせるときに、近くに焦点を合わせてもらったのです。運転をしたり映画を見たりすることがないお義母さんは日常生活でほとんど遠くを見る必要がないから、これで問題はない。その代わり、街で遠くから会釈する人がいても、誰だかわからない。わからないけどとりあえず会釈を返している、と笑いながら話していました。ここまで割り切っているなら問題はなさそうです。

でも、遠くも近くもどちらもそれなりに見えるようにしたいという想いでこしらえたわたしのコンタクトレンズは、結局どっちつかずで、どっちも見づらいし、高い金出して作った遠近両用メガネは、もっと使いづらい。止むを得ずコンタクトレンズしながら老眼鏡をかけることで仕事の書類の小さな文字は解決するけれど、そんな思いをしてまで目を使わなくてもいいやと思うので、最近本を読むことが極端に減りました。夜のサッカー場での生観戦なども微妙にアバウトにしか見えていませんし。

人生というものは、どっちかを切り捨てた方がスッキリすることが意外に多い気がします。そんなことはわかっているのだけれど、どっちを切り捨てる?という選択は、なにか意外と大変なことなのです。切り捨てないと二進も三進も行かないことは歳とともに増えてくるのだけれど、歳とともに切り捨てる勇気が無くなっていくもの。「もったいない」ではないの、「勇気」なの。

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