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2018年2月

疲れているんですよ。

安静時心電図で期外収縮(不整脈)が認められたり、いつになく血圧が高かったりしている時は、自律神経(交感神経)の高ぶりが起きていることを示しています。 「まあ、ちょっと疲れていることの証です」と説明すると、「あ、大丈夫です。わたしは全然疲れてはいませんから」と胸を張って即答する女性(なぜかこういう返事は男性より女性の方が多いというのがわたしの印象)がおります。

そうじゃないんです。あなたは疲れているんです。あなたのアタマは「疲れていない!」と云い張ろうとしていますが、カラダから「疲れました」とメッセージを出しているんです。「もう限界が近いです」と。部下のそういう体調不良に気づかないでイケイケドンドンのワンマン社長さんみたいなもので、そのままその部下が倒れて仕事に破綻が起きて、そこから経営不振に陥る状況に似ています。

「仕事を休め」とは云いません。「明日できることは今日しない」というココロとカラダの余裕を持ちましょう。しなきゃいけないことがあっても、とりあえず今夜は早めに床に就きましょう。それだけで、きっと自律神経の疲れは相当に癒やされること請け合いです。まあ、実感が伴わないから、「そんなこと必要ありません!」と突っぱねられるかもしれませんが(おそろしや)。

余談ですが、”期外収縮”を”危害収縮”、”不整脈”を”不正脈”と書くと思っているヒトが意外と多いのでびっくりしています。”期外収縮”とは、「危害が加わるような危険な脈」という意味ではなく、「本来の周期以外の予期せぬ時に脈が割り込んできて収縮する」という意味、"不整脈”は脈のリズムが整っていないという意味です。たしかに脚ブロックとか二段脈とか、脈自体には全く乱れのない不整脈もありますから。こんなやつは「不整」ではなくて「不正」なのかもしれませんがね。

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肥満はサバイバル(2)

早食いほど肥満は増える

九州大学の研究チームの研究によると、「食事の速度は肥満や体格指数(BMI)の値、腹囲に影響」し、「食べる速さがゆっくりであるほど、肥満の割合は減少すること」が明らかになったので、「ゆっくり食べるよう食事のスタイルを変えていくことで、肥満の予防や、肥満が関連する健康リスクを減らせる効果を得られる可能性がある」と結論付けているそうです。

わかってますって。食が細くて、「まだ食ってるの?」と云う感じのヒトに太っているヒトはいないし、流し込むように食べている豪快な輩はだいたい太っているんです。だから「何を食うかではなく、どう食うかです。とことん噛み倒すだけでいいんです」って、毎日、説明で云わない日がないくらい話しています。当たり前のことなんです。ただね、「早食い」が悪いんじゃない。「噛まない」のが悪いんだから、飲み込み掛けて「まだ噛める。もったいない」と思ってもう一回戻して噛むことをするかどうかなんですよ。

でもね、「食べるのが好き」なヒトは噛まないもの。「食べるのが速いと満腹感が得にくくなり、十分なカロリー摂取をしたにもかかわらず、満腹感を得られるまで余計に食べ続けることになります。反対にゆっくり食べると、満腹感を得やすくなるので、食欲をコントロールし、食べ過ぎを抑えられるようになります」と云われたって、それなら満腹感を感じる前にもっと食っておかないと損!と思えるのが太っているヒトの考え方なんだよ~だ。

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肥満はサバイバル

肥満遺伝リスクを考慮した肥満治療

先日、CareNetに静岡県立総合病院の島田俊夫先生が「肥満は過食が大きな要因の1つではあるが、体質によって太りやすい人、太りにくい人がいることも周知の事実である。BMJ誌の2018年1月10日号に掲載された米国テューレン大学のTiange Wang氏らによる論文は、肥満と遺伝リスクとの関連性ならびに健康食順守による肥満治療効果を併せ検証した興味深い研究」だとして、解説文を書いていました。「肥満遺伝リスクが高く肥満の遺伝素因が強いほど、過食が肥満により大きな影響を及ぼすことが本研究により明らかになった」から「遺伝リスクの重要性を意識しながら肥満治療を心掛けることが、治療成功のカギを握るのではないか」という。

つまり、肥満体質の遺伝子を持つ人間は、普通に食っても太るようにできているから、単なる食事管理の理論だけでないものをしっかり加味して指導すべきである、とのことだろうと思います。

でもね、私は子どもの頃から超肥満児であり、健康優良児の時期もあり、今より20キロ近く太っていた頃もあり、10キロ単位で7、8回ダイエットをして来た人間だから分かりますけどね、それ、一筋縄ではいきませんよ。 肥満の遺伝因子のあるヒトは食うのが好きだから、「食う量を減らす」と云うことがそもそも苦手なわけで、それができるようなら太りはしない。食わずとも生きていける遺伝子だけど、食った方が飢餓には強い。食い込むことができるからこそ生き延びてきたわけだから、「あんたは食わんでも生きていけるから、食うな」と指導しても、できるはずがないのであります。

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高い金

わたしの同世代の友人たちへ

最近、身近な友人や親戚が相次いで亡くなったり大病を患ったりしました。「たまには人間ドックでも受けた方がいいよ」・・・あまり他人の人生に立ち入らないようにしているわたしですが、なんか最近はあちこちで友人に会うたびにそう思うようになりました(口には出しませんが)。特にわたしたちの世代は、事業主だったり定年退職組だったりが多くなっています。彼らはなにかと理由をつけて健診を受けたがりません。「どうもないし、忙しいし、そもそも人間ドックは高いし」 ・・・ほとんど金のかからない住民健診ですら「もったいない」と云います。「家族が受けろ受けろとうるさいから、こないだ止むを得ず受けてみたけれど、案の定なんにも問題がなかった。結局高い金を捨てたようなもんだな」と皮肉交じりに吐き捨てた人もおりました。

たしかに人間ドックは高い。内容が充実していればいるほど高い。よほどの金持ちか日頃から人間ドック用に積み立てていないとバカにならない出費です。でも、それでもやはり受けてほしい年ごろなのです。三十代の人にむやみやたらに「受けろ」とは云いませんが、返って最近は、若い事業主や自営業の若者の方が積極的にドックを受けて健康に留意しようとする人が多い印象を受けます。

「一回受けてみたらちょっと血糖が高くて『糖尿病だ』とか云われたから、もう二度と受けないことにした!」という知人がいましたが、どうもわたしたちの世代は一筋縄ではいきません。「その後、血糖はどうですか?」と聞いたら、「うん、調子いい!」って即答してきましたが、あの後から一度も採血受けてないでしょ。あの時の血糖値は「ちょっと」どころの高さではなかったんだけどなあ。

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理由づけは、云い訳探し

人間ドックの生活習慣病関連のデータが悪化すると、ヒトは必ず原因が何なのか考えます。「新年度にデスクワークばかりの職場にかわったから」「仕事がら、どうしても断れない宴席が多くなったから」「いつも走っていたけれど、仕事が忙しくて運動の時間が取れなくなったから」「結婚したから」「同居の義母が食事を作るから」などなど。まあ、あまりにもサラサラと口から出てくるから、きっと最初から考えて来てるんでしょうね。

『ニンゲンは、反省はするけど学習はしない動物』なんだそうですが、皆さん、原因を自分なりに発見して満足しているみたい。「で?」「だから?」「わかってるんなら何とかしたら?」とか返してやりたいけど、わたしも、じっと我慢してそのまま聞き流すことができるようになりました。どうせ他人事だし、自分で発見して、自分で理由づけしているんだから、わたしが云わなくてもホントは何をしたらいいのかわかっていることなんだもの。

ま、『理由づけは云い訳探し』なので、云わせておきます。わたしも、傍から客観的に見たらこんな云い訳ばかり云っているのかもしれない。”人のふり見て我がふり直す”ことができるのがわたしたちの仕事の特権だから、自分も今こそ、学習して行動できる動物にならないといけないな。

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部活動廃止

小中学校の部活動について・・・周りに子どもがいないので、今、こんなことになっているなんて全然知りませんでした。

「熊本市立小・中学校運動部活動の指針」の改定について

たしかに学校の先生ほどブラックな職業はないな、と友人知人の姿を見ながら感じていましたが、公務員の代表である『学校の先生』の働き方改革をするなら、”必修クラブ”の顧問は無用の長物ということになるのでしょうか。やりたくもないのに人がいないから顧問にさせられ、仕事だけでも忙しいのにこんなことに時間を潰される。ヘトヘトになりながら夜遅くに家に帰りついてメシ食って寝るのがやっと・・・となると、部活動なんてなくしてもいいのではないか。子どもたちの部活動は、素人が顧問になってムダに指導するくらいなら地域の社会活動としてしっかりした指導者が教えてあげた方が子どものためではないか。

良くわかる理論なのですが・・・手を挙げる指導者が居なければクラブは廃部になり、もともとカラダを動かしたくもない子どもたちは一層動かなくなる。だから、『総合運動部』を作って、まあ遊びの身体活動レベルは確保しよう、ということでしょう。先生にとっても生徒にとっても保護者にとっても、「学校の部活動なんて百害あって一利なし」「そんなもの無駄なモノだったんだから無くなってもいいんじゃないの」とかいう感じで割り切られてしまうのかしら。まあ確かに、最近の部活はちと過剰ですもんね。

わたしの両親のような”でもしか教師”の時代、子どもだったわたしも含めて、のんびりした良い時代でしたね。たしか、わたしが通っていた中学校では放課後の部活の時間の上限が決まっていて、わたしが入っていたバスケットボール部は、その制限時間以降は『社会体育』として月謝を払ってやっていたことを思い出します。あのとき、指導者の先生はコーチ料とかもらえていたのかしら?

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働き方改革(3)

(つづき)

仕事量が最低限で、ちょっと忙しいと不機嫌になり、すぐに部下に丸投げするような人は、まあ人間としての廃人ですので無視すればいいとして、「働きすぎ」とは何なのか、疲労の蓄積によるうつ病や虚血性疾患をもたらす場合と、能力以上の事を達成できた満足感に満たされる場合とに明確な違いは見いだせますまい。

考えれば考えるほど複雑な問題だなと感じています。医者が仕事を早々に切り上げるなら救急医療への過度の期待はしないでもらいたい。コンビニや運送業やその他のサービス業、飲食業もまた、過重労働の根源は「24時間いつでも対応してくれるのが当たり前だ」と世間が考えるようになったからであって、万人が満足のいく人生を送るためには、今の社会が”当たり前”と思うことからやめるしかありません。

ま、そういいながら、少なくとも今のわたしはしっかりと働き方改革ができています。昔より楽をしている感じはありません。もしかしたら、わたしの分の仕事を他のスタッフが割り増しさせられているかもしれませんが、知れています。まあ、一般市民の多くは、ちゃんと定刻で仕事を終わらなければならないという足枷さえ設ければ、死ぬ気で働いて、オンオフはクリアにできることでしょう。漫然と働いている方がはるかに楽ですが、メリハリのある生き方をした方が充実はするだろうと思います。

政府がいい加減でずさんなデータを使って虚像の働き方改革案を提出し、国会で大問題になりながらもゴリ押ししようとするニュースを眺めながら、ふとこんなことを考えた次第です。 (完)

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働き方改革(2)

(つづき)

若い頃はどれだけ一日中頑張ってもToDoリストは毎日増える一方でため息ばかりをついていました。自分の能力以上の仕事を引き受けていた可能性はありますし、未熟者なので要領が悪かったことも考えられますが、朝の段階で時間内に済ませるためにどうやったらいいかの1日の計画を立てればそれなりに仕事はこなせていたはずだと思います。昔は、夜遅くまで仕事をする姿が当たり前で、若いのが早々に帰ると「不真面目だ」と評価されていましたから、最初から時間的なマネージメントをする気がありませんでした。「時間が余るなら寸暇を惜しんで勉強をしなさい」・・・若い者は忙しさこそが優秀な臨床医になるための必須条件で、それでも「日本の医者は欧米の医者よりも楽をしている」と云われていました。

ところが最近になって急に、「時間マネージメントができない人はダメな人」と云われ始め、仕事に余分な時間がかかるのは能力不足だと云われてしまう。たしかにわたしが産業医をしている企業の過重労働面談の対象になる人の半数は「決して他の人より仕事量が多いわけではない」と上司が云います。「長時間働いていれば仕事ができる」と思うのは早計であるというわけです。でも、かつてのわたしのボスは、早朝の畑仕事から講演して夜中に帰宅するまで、次から次から新しい用事を見つけ出し、時間マネージメントをしているからこそこれだけの量のことをこなせるのだろうなと思わせる生き方をしている人もいます。そんな生き方を目の当たりにして憧れてきましたから、わたしも、いつの間にかいつも何かする事で落ち着く人間になり、何もしない時間ができると急に不安になるようになってしまいました。 (つづく)

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働き方改革(1)

わたしの両親はどちらも学校の教師をしていました。でも働き方は全然違っていました(という風に息子には見えました)。父はいつも決まって夕方5時には家に帰り着き、そのまま風呂を沸かして入ってから着物に着替えて晩酌を始めます。彼が仕事を家に持って帰ったところを見たことがありません。校長になるための試験勉強をしていた時だけは分厚い法律の本みたいのを読んでいましたが、いつもは新聞を読んでいるか盆栽の本を読んでいるか。そして夜の8時には床につきます。

一方、母は父より1時間ほど遅れてバスで帰ってきます。帰りにスーパーで買い物を済ませて帰ってきます。夕餉の支度と後始末を済ませた後、職場でやり残したテストの採点や通信簿の閻魔帳記入などのための書類を広げますが、すぐにうたた寝をしてしまう毎日。なんかいつも仕事が溢れている感じを受けました。

昔は職員室で残業ができませんでしたから終わらなかった仕事は持って帰っていたようですが、今の社会で云えば、母は過重労働で指導を受けるパターンです。父が仕事に対していい加減に淡白で、母の方が教育に熱心だったに違いないとわたしは大人になるまでそう思っていました。でも単に父の方が要領が良くて割り切り方がクールだったのだろうことがわたしにも分かってきました。最近のわたしも、家には仕事を持って帰らないように心がけています。どうせ持って帰ってもほとんどできないのだから。かといって、昔のように遅くまで残ってサービス残業をするようなこともない。むしろ皆より先に先頭を切って帰宅します。それでも仕事はそれなりにできるものです。その気になればちゃんと時間の使い方も工夫できるし、集中さえすればこなせるもの。 (つづく)

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救急現場が急に冷たくなる病気

顔面真っ青で見るからに尋常じゃない表情で救急外来に担ぎ込まれる患者。本人はいたって深刻なのに、いろいろ検査している間に、急に看護師の態度が冷たくなる病気がいくつかあります。まあ、問診取っている時点でほとんど予想は付きますが。

「コレはきっとハイパーベンチだね」と医師がつぶやき、動脈から採血した血液を機械にかけた看護師が「やっぱり、ハイパーベンチでした」と云いながら、検査値の印字された小さな紙を掲げて帰ってくる。コレが過換気症候群。簡単にいえば、呼吸のしすぎで体内から二酸化炭素が出て行きすぎた状態。息苦しいので一層頻呼吸をして酸素を吸い込もうとするのでますます悪化。動悸だけでなく、手足からどんどんしびれ始めて全身が動かなることもあります。昔、水泳のオリンピック女性選手が緊張のあまりコレになったことがありました。治療は、症状が軽ければ小さな紙袋やビニール袋を口と鼻にかぶせてやると治ります(一見、シンナー中毒みたいですが)が、救急外来では鎮静剤を注射して眠ってもらうのが簡単ですし、手を取りません。目を覚ました時にはほぼ治っています。

看護師さんが冷たくなる病気のもう1つが尿管結石です。気の毒そうな同情した顔はしてくれますが、基本、ほったらかしです。わたしの40年来の持病。何度放置プレイをされたことか。ER に担ぎ込まれた時には張り裂けんばかりの激痛で急性腹症として鳴り物入りで入ってくるのに、石とわかった瞬間に皆が安堵してサーッと潮が引くように散っていく。まあね、そうじゃなかったら、消化管が破れたか、大動脈が裂けたかの可能性があるのだから、ER 全体に緊張が走るもんね。「良かった、石で」と思わずつぶやいてしまいますよね。でもね、そんな最中にも、当の本人は七転八倒。「はい、この痛み止めですぐに軽くなりますからねー」と注射なんかしてくれるけど、治らない時は本当に治らないんだ。

どっちも、当の本人はとっても辛いんですよ~。そこんとこ、よろしくご配慮くださいね~。

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処世術

わたしは父親似で、妙に正義感が強く、約束を守らない上司がいると若いころからよく食ってかかる男でした。最近、うちの職場のある若いスタッフを眺めながら、ふと若いころの自分を思い出しました。

どんなに偉い人でも、どんなに相手が目下でも、「他人との約束が守れない人は社会人として最低!」・・・融通の利かない堅物のわたしは、いつもそう思って生きていましたし、だからこそ自分もそういう生き方をすべきだとがんばってきました。

「オレはお前よりはるかに偉いんだ」「オレくらいになるととても忙しくて、急に別件が飛び込んでくることはしょっちゅうなんだから、しょうがないさ」と嘯く人も居ますが、わたしの元上司はそういう時に決してそんな云い訳を云わない人でしたし、わたしのような若造にでも素直に謝ってくれました。だからこそ、誰にも慕われる人だったわけで、わたしもそんな人になりたいと憧れた事を思い出します。

「キミの云っていることは正論だけどね、組織の秩序というものがあるからね。キミはわたしが上司で良かったよ。他の科でそんなだったら、◯◯科の××先生のように、早々にどこか他の病院に飛ばされる所だったよ」と、冗談とも本音とも取れるような事を笑いながら云ってくれました。「わたしの前ではそれで良いけれど、他のところではもう少し上手くやりなさいよ」という忠告だったのでしょう。でも、そんな上司に恵まれて生きてきた(その後に出会った上司も軒並みそんな人で)せいで、いまだにわたしは場の空気を読まずに偉い人にも食ってかかりそうになることがあります。この歳になっても社会性の乏しい人間であります。

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こだわりとルーチンワーク

うちの愛犬は、わたしが仕事から帰ってくると全身をこれでもかと云うくらいにくねらせながら大きなしっぽをグルグルまわして出迎えてくれます。一旦わたしに歓迎の飛びつきをした後、おもむろに庭の方に向かって走り始めます、後ろを振り向きながら。そして、庭に出るテラスのガラス戸を開けると一目散に庭に出て行きます。最初は、オシッコをガマンしているのかな、と思っていたけれど、どうも違う。多くの場合、彼女は勢いよく庭に出た後、”犬走り”を5、6歩ほど歩いたところで突然立ち止まり、すぐに踵を返して戻ってきます。「何だよお前、ムダやんそれ」とツッコむわたし。

どうも、それが彼女のルーチンワークの様です。そういえば、子どもの頃、私の姉も突然ちょこっと飛び上がって指で唇と額をツンツンと叩くやつをやってました。それを数回繰り返す。「何しているの?」と聞いたら、「わたしのおまじない」と。「意味ないジャン」と冷たく突っぱねた記憶があります。

こういう行動は、周りからみると無意味な行動に思えるけれど、当人にとっては大切な行為。これをすることでココロが落ち着くのだということを知っています。一流のプロスポーツ選手が必ず行うルーティーンと基本的には同じこと。そんなココロの支えになれる行為が、わたしにはないなあと思う今日この頃。サッカー観戦時のゲン担ぎも最近は流動的だし・・・。最近の私のココロが不安定なのは、確固たるルーチン行為を持っていないからなのではないかと思う。なにかないかなあ。

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たばこと失楽園

2018年2月5日に配信されたMedical TribuneのDoctor's Eyeは熊本市民病院の橋本洋一郎先生でした。

安全なレベルの喫煙は存在しない

世の中の喫煙者の多くはニコチンやタールの量が減れば健康の害はそれに比例して減ると考えており、軽いたばこに替えたり本数を減らしたりしたのだから、あるいは加熱式たばこに替えたのだから、それで良かろうと考えているのだそうです。肺がんのリスクは1日20本から1本に減らしたら5%にまで減少するという報告もあるので、それは完全に間違いではないのだけれど、動脈硬化疾患(心筋梗塞や脳卒中)に関しては1日20本から1本に減らしてもリスクは半減しかしなかったという報告を紹介してくれています。だから、「たとえ1本でも吸えば健康リスクはかなり高い」つまり「減らしても無駄、止めるしかない」ということを脳卒中の第一人者は訴えておられます。「米国では米食品医薬品局(FDA)が加熱式たばこを認可しておらず、FDA科学諮問委員会は、IQOSが紙巻たばこ喫煙より害が少ないというフィリップモリスの主張を5対4で否定した」という報告は先日ここでも紹介しましたが、まあ、加熱式たばこにも逃げ道はないですね。

わたしがたばこを吸っていた頃、健康被害があることを承知の上で止めなかった理由は、「別に長生きはしたくないから」ということでした(今はカラダが受け付けないから吸わないけれど)。吸うなら吸うで、半端なことはしても無駄だから、止めるか吸い続けるかの二者択一をお勧めします。もっとも、1日1本とか5本とかの、昔の恋人とどうしても手を切れない人は、きっとそのうちに再び禁断の恋にのめり込んで、失楽園の結末になるのでしょうね。それもまた、佳し、かな。

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価値観の違い

予防医療の世界に入って15年以上になります。予防医療の考え方もかなり変化してきて、むかしは怪しい眉唾物扱いだった概念(食後高血糖とか腸内細菌とか)が当たり前になってきました。

ただ、そんな予防医療の世界が、最近おかしな方向に向かっている感じがしてなりません。医師も保健師も『二次精検受診率』を向上させることだけに必死で、あるいは『特定健診受診率』『特定保健指導受診率』をいかに高めるかに必死で、「結果説明や保健指導はそのためにしているのだ!」と云い切る人すらたくさんいます。「そのために国も予防医療に金と労力をつぎ込んでいるのだ!それが向上しないんだったらやるだけ無駄だ!」とまで。

わたしはそんな風潮がとても不満です。まあ、価値観の違いだから、うちの施設内の幹部クラスの話し合いでももう10年近く前からこの話になると、わたしと他の先生方の考え方の違いが歴然で、その都度溜息をつきながら「こんなんなら辞めてやる!」と息巻くわけです(生活がかかっているのでがまんしますけど・笑)。

結局数字で示せる成果を出さないと、それは「単なる自己満足」なのだということになるわけですし、「自己満足であっても、予防医療の本分は『病気にならない人生を送るための行動変容を促す力添え』でしょ」というと鼻で笑われてしまう。そんな仕事をしながら高い給料をもらっているわけだから成果を出してナンボだけど、でもなんか悔しい。そこに異常がある人を専門医に早く誘(いざな)うことはもちろん私たちの仕事だけれど、そんなの誰にでもできる仕事であって、経過観察とか軽度異常とか書かれている項目に隠れている異常をどうやったら悪化させないかをアドバイスする力こそが人間ドックを専門とする医師や保健師の本領発揮の場なのではないのか?

いかん、また堂々とグチを書いてしまった。

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タブー

最近は、『タブー』を完全に無視されています。

『タブー(taboo)』~触れたり口に出したりしてはならないとされているもの。禁忌。おかすことが禁じられている、神聖または不浄な事物・場所・行為・人・言葉の類。”もともとは未開社会や古代の社会で観察された、何をしてはならない、何をすべきであるという決まり事で、個人や共同体における行動のありようを規制する広義の文化的規範である”(Wikipediaから)

”触れてはならないこと”ってとてもたくさんあったのに、今は全然無視です。「知る権利」というよりは「暴露する権利」、それによって得られる利益に大義名分がぶら下がっている印象。

皇室に関わる一切のことは、まさしくタブーの最たるもの。昔から、いろんな噂があることもないことも(ないことはないのでしょうが)裏で流れていたとしても決して公にはしなかったのに、今や芸能人張りのスクープ報道をたやすく行ってしまうご時世になりました。今回のことは正確には皇室内のことではないのだけれど、なんかちょっとお気の毒。

もちろん、相撲協会のごたごたにしろ、政治家の諸々にしろ、どれも昔は闇の中で揉み消されていたことはたくさんあって、それを正義の名の元に暴露することはある意味では当然のことなのかもしれません。でも、それが一般市民にまで及んでしまうのはいかがなものかという思いもあります。何かの事件や事故があれば、加害者の一族郎党だけではなく被害者の家族や本人の過去のいろいろにまで言及し報道するのが最近のトレンドになってしまって、とても怖い気がしています。事件や不祥事の報道と週刊誌の覗き見的三面記事報道とが完全に混同されてしまって、ネットがそれを一気に拡散してしまう社会。『タブー』は良いことではないかもしれないけれど、何もかもを白日の下にさらすことが決して正義ではないと感じる今日この頃です。

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レジスタントスターチ

「おにぎりダイエット」で体重が減少 ご飯と運動で腹囲は減らせる

「お腹すいたねえ。ちょっとスーパーでおにぎりでも買って食べる?」
「お米は太るからイヤだ~。食べるんだったらパン屋さんの出来立てパンが良い!」

なんて会話がよく聞こえてきますが、お米は決してダイエットの敵ではないことを推奨したいと思っていたので、今回の記事はとても心強いと感じています。 JA全農とルネサンス(スポーツクラブ)が、おにぎり中心の食事と運動トレーニングを組み合わせて体重を減らす「おにぎりダイエットプログラム」を提唱しており、その成果を公表しました。

お米を、イコール『炭水化物』と定義する栄養学に問題がある(塩=塩化ナトリウムと考える間違いと同じ)ことは以前から感じていました。なぜ、ヘルシー食材とし欧米で人気のお米が日本では人気がないのか、不思議でなりませんでした。そして、おととしの熊本地震の時におにぎりしか食えなかっただけで10キロ近くも体重が減ったわたしは、「おにぎりは痩せる」と実感したことを覚えています。

ここに、『レジスタントスターチ』というコトバが出てきます。「でんぷんでありながら、エネルギーになりにくく、整腸作用や生活習慣病の予防効果があるとされている食品中の成分であり、食物繊維の1種」「食物繊維の中でも、腸内細菌に対して良い影響を与える効果があり、不溶性食物繊維と水溶性食物繊維の特性をあわせ持っているなど、ユニークな機能を有している」とWikipediaには書かれています。このレジスタントスターチが”冷えたごはん”に多い、というのもおにぎりダイエット理論のひとつのようです。

ただ、「おにぎりダイエット」のミソは、同時に運動もするということです。「炭水化物」は文字通り「炭」と「水」、そして「炭」はエネルギーです。運動を始めると最初にこの「炭」が使われます。残るのは「水」だけ。おにぎり食ってほどほどに運動すれば、必要なビタミン、ミネラル、食物繊維以外何も残るものなんかないのですから、そりゃ太るはずがない・・・それが、私が熊本地震のときに見る見る痩せた原因だと云っていいでしょう。

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躾と云うより、血です。

振替休日の今日は、朝から愛犬に起こされていつものように朝のオシッコと朝食を与えるところから始まりました。彼女にとっては、今日は普通の月曜日なのでしょう。

「おまえ、まーた今日も仕事休むんか~?」という目でわたしを睨んでいますが、これは、彼女の思いやりではなく、日頃わたしが出て行ってから貰えるオヤツの権利が得られないのと、それをもらってから妻と一緒に二度寝することができないからだと思います。現在、不貞寝中です(笑)

こんな日は、わたしの主夫ココロがメラメラ燃えてくる日。昨夜まだ乾いていなかった洗濯物を畳んでから、夜のうちに洗った洗濯物を干したところ。家の掃除は午後にしましょうか。こういうことをしているのを窓の外から覗いて発見した義母が叱るわけです。「そんなこと、自分(妻)がしないで夫にさせるなんてみっともない!」と。「あなた(わたし)が夫として優しすぎるからいけないのよ!」とも(笑)

申し訳ないが、おかあさん。これは妻がしないからわたしが渋々やっているのではないのですよ。わたしの趣味、というよりわたしの家系の当たり前の光景なのです。わたしが小学校のころ、『家族の仕事』という作文で、「お父さんは、毎朝早く起きて朝ごはんのスイッチを入れます。洗濯物は日曜日にしますが、それもお父さんの仕事です」と書いたのを、両親に𠮟られたことをふと思い出しました。「みっともないから、そんなこと作文で書くな」「だって、本当のことやん」「本当のことでも、他人にわざわざ云わんでもいいことと云ってもいいことがあるんじゃ!」・・・そんな親子の会話まで、洗濯物を畳みながら思い出して独りで笑ってしまいました。

「あえてお義母さんに反論するなら、こういうことは、夫(わたし)の躾ではなくて、子どもの頃(親)の躾なのではない?」と思うのだけど、そんなことは決して口にはいたしません(笑)

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義母からの苦言

「あんたに会ったら云おうと思ってたのよ」

先日、義理の叔母(義母の妹)がわたしの勤務する病院で手術を受けました。手術の日に義母は病室で付き添いをしていましたが、そこにやってきた看護師さんが大きなマスクをしたままで何かを早口で云って去って行ったのだそうです。「ダメよ、あれでは何云ったかさっぱりわからんかったよ!」と思ったのだとか。

わかってますよ、そんなこと。それはもう何年も前に機関誌のコラムに『マスク小僧たち』という題名で書いたやつですよ。もっとも、看護婦さんのマスクはやむを得ない。例年にないインフルエンザの猛威のために、職場では自分が感染していなくても可能な限りマスクをすることを義務づけられています。叔母の見舞いに行こうとしたわたしたち夫婦が二親等以内の身内ではなかったから、という理由で病室にも上げてもらえなかったくらいの厳戒態勢を敷いている病院なのですから。

でも、義母が云うように、理由が何であれ云っていることが他人に伝えられなければ意味がないということを、プロであるならばもっと厳粛に捉えなければならないと思います。ただ・・・お義母さん、わたしに云ってもダメです。わたしが彼女たちに注意する機会は全くありません。たぶん、当の本人は全然気づいていないはずです。その場で注意するのは角が立つし偏屈婆と思われるのはイヤ!というのだったら、せめてご意見箱に書いて投書してしてくださいよ。

ま、似たような現場で働く皆さん、肝に銘じてください。若いヒトにはピンと来ないかもしれませんが、多くの患者さんや家族は、分かったふりをしていても全然理解していません。聞き流しているというより、聞き取っていません。重要なことではないのならいいですが、重要なことを話して「わたしはちゃんと云ったのに」と思わないようにしましょうね。わたしも注意しなければ・・・。

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『様子を見ましょう』

外来医療用語の代表に、「様子を見ましょう」というのがあります。

「いろいろ検査をしてみましたがあまり悪い所はなさそうです。しばらく様子を見ましょう。また何かあったら受診してください」という使い方をします。

そうです。もちろんこれは、医者の”逃げコトバ”です。このコトバは、外来医師が患者さんを追い返すための常とう手段であります。ま、「問題ないですね。心配いりません。はい、じゃ、次の方どうぞ!」みたいな冷たい斬り捨て型の云い方に比べればマシですけど、それでも、これで帰ってしまったらきっと二度とこの先生の外来に顔を出すことはできないでしょう。「しばらく」がどのくらいで、「何か」がどんなことなのか良く分からないから(これは昔、機関誌のコラムに投稿した『診察室は不思議な空間(1)』に書いたことがあります)、再受診する時は二の足を踏みますし、受診するならこの先生ではない所に行くでしょう。その医者にとっては、真の病名が何だって構わないのです。二度と自分の前に現れさえしなければそれでいい。だから、できたら納得いくまで質問して食い下がってください(まあ、何もないのだから、無い袖は振れないでしょうけれど)。

でも、おそらく多くの良心的な医者は、「様子を見ましょう」というコトバを発する前に必ず他のことを云っているはずです。なのに多くのヒトが覚えていない。コトバがむずかしくて何云っているのか分からなかったから聞き流したのかもしれないし、異常がなかったことで安堵して何も聞こえなくなったのかもしれないけれど・・・たぶん、そのときに話された内容が一番大事。医者がそのとき、どういう病気を疑って検査をし、結果がどうで、今後何に注意しろと云っていたのか、どうか思い出してください(まあ、記憶に残らないのは説明の仕方が悪いのでしょうが)。

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諦観

『諦観(ていかん)』といえば「あきらめること」。「あきらめる」といえば、想いを断念し、「まあしょうがないさ」「こんなものかな」と自分に云って聞かせて忘れること、と思っていました。わたしは最近、何かと『あきらめること』ができるようになってきて、煩悩を調整できるようになってきたと自負しているところなのですが・・・。

仏教用語の『諦観(たいかん)』は、まったく違うことなのだそうですね。「あきらめる」とは、正式には「あきらかにみる」・・・何を明らかにするのかと云えば、因果、因果の道理。何かが起きたらそれには原因があり、その原因を明らかにして、解決するために対策を実行すること、なのだそうです。常に、自分の行動を客観的に見つめ、反省し、前向きに生きることを『諦観』というらしい。

ん~、深い話じゃ。

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”病人”の気持ち

人間ドックの生活習慣病関連の項目の精検(要精査、要治療)受診率が相変わらずとても低い。がん関連も高くはないけれど、やはりがんは死に直結する印象があるのか、7割以上はどこかの医療機関を受診しているようです。でも、生活習慣病、特に高血圧、糖代謝異常(糖尿病)、脂質異常については絶望的な受診率です。

「昨年、『要治療』の評価を受けたが未受診」という問診項目が目につきます。脂質異常はまあ良いとして(良くないか)、糖尿病とか、「どうして病院に行かないのだろう」と首を傾げたくはなるのだけれど、分からないでもない。「どうもないから」というよりは「できたら他人事であってほしい」という気持ちがどこか逃げの方向にカラダを引っ張っていく。病院受診したら『糖尿病』と決められてしまう。もしかしたらクスリなんか飲まされるかもしれない。何ともないのに、他人からも『糖尿病の人』という目で見られるようになるかもしれない・・・。 「テレビでもあれだけ糖尿病の啓発番組がやられているし、糖尿病がどれだけ怖い病気かわかっているだろうに、ほったらかしても良くはならないのに、どうして受診しないの?」と専門職のナースやドクターは思うのだけれど、それは、彼らが「専門家だから」なのではなく「他人事だから」なのではないかという気はします。

ただ、これだけ情報が蔓延している社会だから、糖尿病が悪化するとどうなるかくらいはなとなく分かっているから、「どうもない」かもしれないけど「心配していない」わけでもないはず。それこそインターネットや雑誌を読みあさって気をつけられることはそれなりにしているはず(まあ、ほとんどの人が”それなり”ですけど)。糖尿病の治療の基本は運動と食事と睡眠なのですから、それでコントロールできるなら別にそれでいいのです。ただ、もともと症状がないのだから、成果は血液検査で評価するしかないわけで、それを1年後の健診でこっそり見るのでは、さすがに不十分なのです。

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老いのバージョン

わたしのパソコンのキーの打ち間違いは日に日に酷くなります。

自信があったキー捌きに間違いが目立つようになって、「それは老化の証拠よ」と妻に笑われて落ち込んだのはもう何年前だったろう(ここまで書くのにすでに5回ミスタッチ)。「頭が出した指令を指先がきちんと遂行できなくなってるんだもんね」と云われ、ちょっと反論したのが懐かしい。今やそんなこと当たり前で、ミスタッチしない日なんて一回もないわ(笑)

それは”馴れ”であり、「もっと老化に抗う気持ちを持たないとどんどん萎んでいくよ!」と云われてもあまり気にもならなくなりました。打ち間違えたら打ち直せば良い。もう一度間違えたらもう一度打ち直し、それでも間違えたら、ちょっと深呼吸してから前よりゆっくりキータッチしていけば、今のところ問題は起きていない。

そんなレベルはとうの昔に通過。最近は、スマホやiPadを指で触ろうとするとビクともしなかったりする。冬場に指が荒れて指紋認証できないことはしょうがないけれど、それではない。たぶん皮膚のアブラが足りなくて、器械がわたしの指を”生き物の皮膚”として認めようとしない様子なのだ。こっちは残念ながらゆっくりしようが強くしようが、ダメなときはダメ。今や、こっちの方がはるかに凹みます。

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理論は事実には勝てず

「先生の今回の研究結果をとても興味深く拝聴しました。で、この結果をもたらしたメカニズムはどういうことだとお考えですか?」

学会などで新しい知見を発表すると判で押したように必ず誰かが質問する「メカニズムの仮説」。これが明確でないと、その結果は単なる”偶然の産物”にすぎないと云われてしまいます。たとえ、普通の100倍の数を検討したり治療をしたりした経験として統計的に有意差が生じたとしても、それをもたらしたメカニズムの理論が妥当でない限り相手にされません。学問というものはそういうものであり、そうでなければ科学の普遍的な真実として生き残ることはできず、万人に恩恵を与えるような大発見というわけにはいきません。だから、理論に見合うだけの事実がほしくて、つい捏造データを作ってしまう研究者が後を絶たないのかもしれません。

話が横道に逸れました。普遍的な摂理を探求するときにはたしかに理論が必要なのだと思いますが、わたしたちが或る一人の人間を相手にして、行動変容や治療の選択を促す場合、そんな普遍的な理屈に意味はあるのか? わたしは標準値やガイドラインの基準値にはほとんど興味が湧きません。その境目の上か下かで大した違いはないことを経験値として知っているから。原因が何であれ、治ればよい。標準治療策を取らなくてもデータが良くなればそれでよい。逆に普遍的な治療法を施しても良くならないとしたら、それはどうしてか?その理論が間違っているのではなく、その人間には向かなかっただけだと結論づけられる。それだったら、無理矢理理論づける必要なんて何もないのではないかと思うわけです。

メカニズムを論じ合い、万人に通用する公式を導き出す努力は学問の世界でやればよい。現実の一人のカラダの反応については、良くなったか、変わらないか、悪化したかの3種類しかないのであります。「原因の説明に納得がいかないからオレは治療は受けない」というなら、好きにすれば良いと思います。どうせわたしのカラダではないのだから。

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ちょっと休暇

労働基準局さまからの厳しいお達しで、「有給休暇はきちんと取るように(取らせるように)努力しなさい」ということで、2月3日から7日までお休みをいただきました(3日と4日はもともとお休みですから、正式には有休は3日間だけですけど)。

そういうわけで、ちょっと旅に出ていますので、ブログを2日間ほどお休みします。

みなさま、ごきげんよう。

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専門医資格

わたしは循環器内科医として15年近く働きましたが、実は専門医資格を有していません。だから、「専門は循環器内科です」とは云えません。

実は、医学の世界で『専門医』(専門学会がその領域のエキスパートとして、知識や経験値が一定線に達していると認めた証、らしい)というのに重きを置き始めた頃、わたしは東京の病院に勤務していました。当初は暫定措置として、決められた書類を提出すれば資格を得ることができたのですが、当時は循環器内科に属していなかったためにあまりその重要性を理解していませんでした(わざわざ受け持った患者さんの退院サマリーを大事に貯めていたのに日の目をみませんでした)。その時に暫定措置の申請をしなかった者が専門医を取得するには、あらためて内科学会の専門医を取らなければならず、それは市中の救急病院で勤務している限りは難しい。いろいろな病気の患者さんを万遍なく受け持って症例数を確保しなければならないからです。それを得るために大学病院に研修に出してもらった先生もおられましたが、わたしが循環器内科医になった目的はそんな資格をもらうことではない、と諦めた次第です。

まあ、特段後悔はしていません。「専門医を持たない医師はマジメに仕事や勉強に励んでいないいい加減な医者だ」とレッテルを貼りたがる病院幹部はたくさんいますが、そんなもの云わせておけば良い。専門医資格を持ってないから減給されるわけでも辞めさせられるわけでもないのだから、特に出世したいのでなければ医者として何も困らない。もちろん、資格や役職大好きな受診者さんにはヒラの医者として見下されますし、最近の新しい専門医制度はちょっと首を傾げたくなるものです(たぶんわたしは一層取得は難しくなった)が、おかげさまで、わたしたちの世代はそれでも何とか生きていけます。今の若い先生方は、資格取りや単位取りばかりに奔走して自分のやりたいマニアックな分野は片手間でしかやれなくなるから大変だし、面白くないんじゃないかなあと思ったりします。

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非空腹時の評価

特定健診の受診条件として「食直後でなければ(食後3時間半以上であれば)血糖値を評価して良い(今までは10時間以上空けていないとダメだった)」とお国がお達しを出したために、健診現場は大騒動です。国としてはできるだけ受診率を上げさせたいから飯食っててもOKにしたい。「ちょっとくらい高めの値でもメタボと引っかけてくれた方が良い」と思っているわけですが、金を出す保険者としては特定保健指導に該当する人をできるだけ少なくしたいし、それを請け負う健診機関(わたしの勤務する施設など)は特保用と普通の人間ドック用に条件を変える煩雑さ(正式には厳密に血糖評価をすべきであるという自負もあり)を極力避けたい。それぞれの立場の思惑がモロに見えてきます。

そんな中、食後3時間半では病気でなくても中性脂肪が高値を示すのじゃないか?という懸念があります。これに対して、「非空腹時に異常と判断する基準」というのが先日某医療雑誌に掲載されていました。それには、中性脂肪は175mg/dl以上(空腹時なら150mg/dl以上)と書かれていました。普通の人でも食ったら高値を示しますがすぐに下がるはず。どの程度のEBMを根拠にしているかは知りませんが、世の中多彩な労働環境や生活環境の中で、健診を受ける時(午前中)に必ずしも空腹を維持できているとは限らない(夜勤明けの人や深夜営業の飲食業の人など)わけだから、幅広く健診を受けてもらってスクリーニングするには大事なことなのかもしれません。第一、いつもは夜中まで飲み食いしているのに、健診の前日だけ早々に夕飯を食い終わって朝まで何も食わないなんて、全然フェアじゃない(そんな条件にしても異常になるのは本当の異常だから年貢の納め時だぞ!と云うことはできるか)。

非空腹時検査が多くなる中で、アメリカから提案されたのが新しいLDL(悪玉コレステロール)の推算式(計算式)です。

LDL-C値の新規計算式

昔からあるFriedewald式は総コレステロールと中性脂肪とHDLコレステロールがわかればLDLは計算で出てくるというものですが、中性脂肪の値が高すぎると成立しない(マイナスになる可能性もある)のがネックでした。それを改善させたのがこの新しい式らしいです(日本では、ほとんどの健診機関ですでにLDLコレステロールは直接測定するので、あまり計算式の必要性はありません)。

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ピロリ除菌と飲酒

どう答える? ピロリ菌除菌中の禁酒の必要性

”日本ヘリコバクター学会のガイドライン(2013年版)では、「アルコール摂取は除菌率に関係しない」と明記されているが、二次除菌治療に関しては、使用するメトロニダゾールにアルコールの分解酵素であるアルデヒド脱水素酵素阻害作用があるため、「禁酒指導は徹底させる必要」をうたっている。このため、「もともと飲酒は悪影響があると思っていると、二次除菌治療の情報のみを記憶してしまうのかもしれない」と話している”にもかかわらず、東京薬業健康保険組合健康開発センターの職員に「ピロリ菌の一次除菌中に禁酒は必要か否か」について自分で調べて回答せよ質問したら95%が「必要」と答えたのだそうです。2/3の人は「ネットで調べて」という回答で、「インターネットは間違った情報をまことしやかに流して世論を形成する危険性がある」と論評しています。

でも、実はわたしも禁酒は必須だと思ってました。ネットで調べた経験はないけれど、ピロリ除菌治療の説明を初めて受けた時点でだれかにそう教えてもらって以降、そう信じていましたし、うちの保健師さんの多くもきっとそう信じていると思います。わたし自身、人間ドック受診者の対象者に必ず「除菌中の1週間は酒を飲めませんが、それ以外は何も制限はありません」と説明してきました。「仕事上酒は止められないから、除菌治療は無理です」と答えた受診者さんも何人かいたので、とても申し訳ないことをしました。

『禁酒が必要なのは、二次除菌。一次除菌は飲んでも構わない』ですね。覚えておきます。もっとも、”ちなみに、飲酒は一次除菌に影響を与えないばかりか、飲酒者の方が除菌の成功率が高く、また飲酒量が多い方が成功率が高くなるという報告もある(Eur J Gastroenterol Hepatol 2002; 14: 291-296)”という部分は、オフレコでお願いします。

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