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理論は事実には勝てず

「先生の今回の研究結果をとても興味深く拝聴しました。で、この結果をもたらしたメカニズムはどういうことだとお考えですか?」

学会などで新しい知見を発表すると判で押したように必ず誰かが質問する「メカニズムの仮説」。これが明確でないと、その結果は単なる”偶然の産物”にすぎないと云われてしまいます。たとえ、普通の100倍の数を検討したり治療をしたりした経験として統計的に有意差が生じたとしても、それをもたらしたメカニズムの理論が妥当でない限り相手にされません。学問というものはそういうものであり、そうでなければ科学の普遍的な真実として生き残ることはできず、万人に恩恵を与えるような大発見というわけにはいきません。だから、理論に見合うだけの事実がほしくて、つい捏造データを作ってしまう研究者が後を絶たないのかもしれません。

話が横道に逸れました。普遍的な摂理を探求するときにはたしかに理論が必要なのだと思いますが、わたしたちが或る一人の人間を相手にして、行動変容や治療の選択を促す場合、そんな普遍的な理屈に意味はあるのか? わたしは標準値やガイドラインの基準値にはほとんど興味が湧きません。その境目の上か下かで大した違いはないことを経験値として知っているから。原因が何であれ、治ればよい。標準治療策を取らなくてもデータが良くなればそれでよい。逆に普遍的な治療法を施しても良くならないとしたら、それはどうしてか?その理論が間違っているのではなく、その人間には向かなかっただけだと結論づけられる。それだったら、無理矢理理論づける必要なんて何もないのではないかと思うわけです。

メカニズムを論じ合い、万人に通用する公式を導き出す努力は学問の世界でやればよい。現実の一人のカラダの反応については、良くなったか、変わらないか、悪化したかの3種類しかないのであります。「原因の説明に納得がいかないからオレは治療は受けない」というなら、好きにすれば良いと思います。どうせわたしのカラダではないのだから。

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