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2018年8月

ちっとも成長してないということか

この季節は、玄関のヒメコブシの落ち葉を掻くのが日課。晩秋の落ち葉ほどドサッとは散ってこないけれど毎日少しずついつまでも散ってきます。夏の落ち葉はそんなもの。

で、これを出勤前と出勤後に掃きながら毎年思うのです。こうやって律儀に掃いているからキレイを保てるけれど、わたしが毎日それをしていることなんて周りの家の人は誰ひとり知らないのだろう。散ったままの枯れ葉が道を塞いでいるのを見ている人はそれがキレイになったのを確認して「ああ、ちゃんと掃いたんだな」と思ってくれるだろうけれど、最初に汚かったことを知らない人は、わたしがどれだけ汗水垂らして掃いていたとしても、別に何も変わってないと思うだけだから。

誰も見てないところで善行やっても誰からも認めてはもらえないんだよね、とか愚痴る。でも、神様はいつも見ているのよ。誰も見ていないようで、ちゃんと誰かが見てくれているものよ。駐車場の向こう側のアパートの住人とか、近くの家の二階の窓からとか・・・。でも、善意は見返りを求めたら善意ではなくなるモノよ。なんてなことを考えていること自体、まだまだ人生の修行が足りんな。

そんなことを思い、書き記してみたモノの、いつか同じことを書いたような気がして検索してみたら、やっぱり3年前の夏に書いてあった(『夏の落ち葉』 )・・・還暦過ぎても、ちっとも成長してなかったことだけが確認できたわけだ。なんか、3年前より打算的な考え方が板についてきている気がしないでもない(笑)

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かがみ

最近、ゆるゆるのカラダになってしまったわたし。ちょっと小走りしても、「どぼん、どぼん」と音を立ててお腹が揺れております。

そんなわたしが、最近、「いいね」と思っているのが、かがみ。入院中の妻の付き添いで何度も新幹線に乗りましたが、新幹線ホームのトイレに入ると必ず姿見があります。我が家にも玄関に姿見があります。かがみの前を通る時、ちょっと構えるようになりました。昔は無防備に前を通っていましたが、今は違います。自分の目に飛び込んでくる自らの姿を虚像でもいいからできるだけかっこよくさせたい。だから、前を通る前にできるだけ胸を張ってお腹を引っ込めてちょっと顎を引いて、「これでよし!」という確認をしてから、歩き始めます。

これ、大事。自分の姿を客観的に目に映すことで自分が頑張れる。最近は、夜中にトイレに起きた時もトイレのかがみを前にちょっと胸を張って斜に構えて、「よし!」とか口に出してから用を足したりしているわたしです。それが、なにか?

かがみを見る度にかがみの前に立ってポーズを取る、というのはアンチエイジングのために絶対大事なこと。どんだけお腹を引っ込めても実態は変わりはしないことは分かっているけれど、姿勢を正してお腹に気合を入れれば何とかなることを確認して、「よし、頑張るぞ!」という気持ちになることが大切だと思っています。「ま、いい歳だし。しょうがないか」と思った時から老化は加速度を増すのであります。

まあ、「よし、まだ何とかなるな」と安堵して、グウタラな人生を送っていたら意味がありませんが・・・。

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なぜ、動脈硬化は進んだの?

定期的に人間ドックを受けている受診者さんの検査結果を担当保健師さんと前もって検討していました。脂肪肝もなくなり、内臓脂肪も減少し、アディポネクチンも増加して、明らかに生活習慣病の改善が認められるアラカン男性。ただ、ごくわずかではありますが胸部CT検査で大動脈壁の石灰化を初めて認めました。1年前まではなかった所見です。

「え?どうして動脈硬化が進んだんですか? これだけ節制して検査データもしっかり改善しているし、血圧の薬もきちんと飲んで良好のコントロールを続けているんですよ!」・・・担当保健師さんが「納得いかない!」という顔をしてわたしに食ってかかりました。

さて、なにか不思議なことでもありますか?・・・ 現代社会において、運動や食事や睡眠をきちんと制御しタバコも吸わずストレスも溜めず、飲むべき薬をきちんと飲んでさえすれば、動脈硬化が進むはずがない!という考え方をしてしまうのは、おそらく若い世代のメタボ腹の連中ばかりを見ているからでしょう。人間、歳をとれば臓器は老化します。きちんと節制していても老化はします。アンチエイジングは年齢相応の老化の速度をできるだけ遅くさせようとすることであって、決して細胞の老化を停止させることではありません。病的な老化を進ませないようにするために生活療法があるのであって、健全な老化(加齢)は自然の摂理であります。

こんな小さな石灰化所見のひとつやふたつで悲観することなんか全然ありません。良い感じで歳を取っていきましょう!

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糖尿病は治るのか?

「先生、糖尿病は一回罹るともう治らないという風に思っていましたが、『治る』という話も聞きます。どっちが本当なのでしょうか?」と、受診者さんに聞かれました。

「この方法を続けたら必ず糖尿病は治ります」という先生がいますが、私は基本的に2型糖尿病は治らない病気だという考えです。内服治療をしなくても良好な値に維持できることを「治った」と呼ぶのであれば「糖尿病は治る」は正しいのですが、糖尿病の治療は風邪の治療とはまったく違います。糖尿病はあくまでも『運動療法』 『食事療法』『生活リズム(睡眠など)』が治療の基本ですから、これを維持させることで良い値にコントロールできているということは、「良い治療が続けられている」というのに過ぎないと考えています。

「一時期、節制して薬もたくさん飲んでいたけれど、今はもう何も注意することなく、若い時と同様にぐうたらな生活で暴飲暴食三昧やっている。なのに血糖値は全く正常だ!」というのを「糖尿病が治った」と云うのだと私は思うのでありますが、そんなことは一時的な事故でない限りありえない。だから、くだんの受診者さんには、「糖尿病は治るとか治らないとかいう概念の病気ではありません。一生付き合いながら、生活療法という治療だけでうまくコントロールできたら上出来な病気です」とお答えしました。「でも、よほどの山奥で自給自足、悠々自適な生活を送らない限り、おそらくいつかはまた薬剤治療を必要とするようになると思いますから、主治医との付き合いは必ず続ける必要があります!」とも付け足しておきました。蛇足ではありましたが…。

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やる気が落ちた

60歳になった途端、わたしの中で明らかに何かが変わった。職場の定年は数年前から65歳に引き上げられたから、基本的には何ら変わらない毎日を送っています。役職も給料も待遇も変わりません。

なのに、何かが違う。ひとことで云えば、『やる気』が落ちた。『やらなければいけない』という思いが湧いてこなくなった、と云った方が正解かもしれません。週末だけでなく、平日にも家では何もしない。夕食を済ませて、ワンの散歩を済ませて、ぬるめの風呂にゆっくり浸かって、スマホをいじる間に眠くなるので床につく毎日。スマホのToDoリスト(リマインダー)には遊びの予約しか書かれていない。予定表は有休と振休の日の確認ばかり。

そういう事にものすごい不安があったのに、特に気にならなくなりました。どこかで社会的にエキストラになった感覚に満たされてしまったのだと自己分析します。自己啓発のために、仕事上でちょっと疑問に思った事を検索して勉強して記憶しておく、なんてこと、もう必要ないと思ってしまうのです。依頼された講演も全部断るようにしたから、一層新しい知識の吸収は必須ではなくなりました。老化防止のために運動や食事や睡眠やなんて考えていた事も、急にどうでも良くなってきたし・・・。

同級生と酒を飲み交わしたりすると、還暦を超えて会社の経営トップとして日本を引っ張る立場になっていく人、還暦で定年退職したのをきっかけに新しい事業を手がけようとする人、新しい資格を取るために勉強を始めた人、今までやれなかった趣味を始めようという夢を語る人、などなど。みんな、偉いなあ。『悠々自適』というのは、わたしのようなやる気のない萎えオヤジのことではなく、きっと彼らのような生き方をいうのだろうな。

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健康無関心層

日本心臓リハビリテーション学会で準備されたパネルディスカッションの中に『スマートウエルネスコミュニティ』という概念のセッションがあって、興味深く拝聴させていただきました。座長の久野譜也先生(筑波大学)たちが進めている活動の紹介です。

テーマは『健康無関心層』。いわゆる『健康無関心層』は全人口の約7割を占めており、そのほとんどはそもそも健康情報へのアクセスを一切しない。例えば、死亡リスクの第4位が『運動不足』(1位は『高血圧』2位は『喫煙』3位は『高血糖』で、5位は『肥満』)であることは、世間の健康番組やマスコミ記事などで有名だけれど、彼らはそんなことは知らない。彼ら健康無関心層の中の7割は今後も運動などしようとは思っていない、ということが分かっているのだそうです。つまり、私たち予防医療に携わっている医療者や行政などが大きな勘違いをしているのは、私たちは「国民は、健康づくりの重要性は分かっているのに行動変容につなげられないだけ。そこへのアプローチがうまくいっていない」と思い込んでいるけれど、そうではない。単に、国民の大多数はその重要性など全く知らない(分かっていない)というのが真実だ!という事です。「今運動している人も、今後やりたいと思っている人も、彼らは健康情報を自分から取りに行く。でも、それ以外の人は、健康情報自体を取りに行く意思がないのです」と久野先生は強調していました。「結局これまで、医療者も行政も、この『健康無関心層』をまったくターゲットにしないままの対策を講じてきたのではないか」という事で、一番重要なのはこの『健康無関心層』対策なのだ!という取り組みを紹介していただきました。

「町(社会)を全体を巻き込んで変えてしまわなければ人は変わらない」「都市を健康にする」ということばはわたしの心に妙に響きました。残念ながらわたしの仕事は、あっちからやってくる健康に関心がある人たちの心を動かして行動変容させるということしかできませんが、国民の健康は健康に興味がある人もない人もひっくるめて町全体が自律的に動く(歩く)風土つくりが一番重要なのだということです。

理屈はわかるが、その関心のない人を動かすのは容易ではない。そのための『健幸アンバサダー』つくりや、インセンティブの取り組みなど、今後の課題についてのパネルディスカッション…聴衆は決して多くはなかったけれど、とても刺激を受けるセッションでした。

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フレイル

横浜で行われた第24回日本心臓リハビリテーション学会に行ってきました。

今、突然ブームになってきた単語が『フレイル』『サルコペニア』。ロコモ(ロコモティブシンドローム)がなかなか定着しない中、予防医療の概念の中にこの単語が一気に割り込んできたのは、社会が高齢化してきたからだということは容易に想像できます。

日本老年医学会は昨年1月に、『高齢者』は75歳から!(65〜74歳は『准高齢者』)という提言をしましたが、それに引き続き今年は『健康長寿達成を支える老年医学推進5か年計画』という提言をしました。その中にも『フレイル予防・対策による健康長寿の達成』という項目があります。

『フレイル』というのは「加齢によって予備能力が減り、ストレスに対する回復力も低下した状態」と定義されます。『サルコペニア』は「加齢による骨格筋量の低下」のことであり、サルコペニアの延長上にフレイルがあることは想像に難くありません。今なぜフレイルか? 世間でメタボリックシンドローム対策が定着し、「とにかく痩せなさい」としつこく追い回されるがために、ふと気づいたら筋肉がやせ衰えて動くに動けない状態になっている。健康に真面目に取り組む高齢者ほどその傾向は強くなり、「太ること」への罪悪感が生じてきているようです。筋肉が衰えて動けなくなり、動くのが億劫になり、動かないと食欲も減退して一層筋肉が落ちて行く、というのがサルコペニアのスパイラルです。アンチエイジングの基本として、何かの機能が衰えれば、バランスを取るためにそのほかの心身の機能もそのレベルに水準を落としてしまう…これが『老化』、そしてこれこそが『フレイル』。そんな萎れた老人になると介護の世界に落ち込んでしまうから、高齢になったら若い頃とは逆に「しっかりものを食って、筋肉を養って、とにかく太りなさい」というわけです。

ダイエットに目覚めて、ちょっと太ると急に食べなくなり、みるみる萎んだ足になってしまった84歳になる義母の姿をみているとこの理屈はよく分かります。でも、「糖尿病の主治医が、太るな、痩せろってうるさく云うよ」と言い訳するので、まず医療者教育も重要なんでしょう。ただ、メタボ対策からフレイル対策に移行する指標は何なのか。『65歳からはフレイル対策が重要』とあちこちで云われるのですが、わたしの世代のあの大きなお腹オヤジにフレイル対策なんて絶対無用だと思うし、見るからに覇気のない痩せて萎んだ人ならともかく、ある時から逆の生活パターン指示を受けるようになったら誰でも戸惑います。なんか、フレイルが問題なのは今の高齢者だけで、今のメタボ世代の連中はそのままメタボ高齢者になるか、筋肉だけ落ちるサルコペニア肥満になるかに違いないというのがわたしの本心です。心配なのは、若い頃の健診でメタボに引っかからないように頑張った優等生たちだけではないかと思います。

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病院行ってもねぇ

「甲状腺が大きいしいくつか気になるのう胞もあったみたいだから、やはり定期的に専門病院を受診した方がいいですよ」

毎年職場健診として人間ドックを受診してくれるアラフォー女性の受診者にそんなアドバイスをしたら、「昔は通っていましたが、毎回行っても、検査を受けて『問題ないですね』と云われるだけなので、だんだん行くのが面倒くさくなっていたんですよね」と、正直な本音を答えてくれました。だから、放ったらかしていたらがんになってしまった私の妻の話を敢えてしてみました。「妻も同じことを云って面倒くさがって行かなくなったんですよね」というわたしの顔を気の毒そうに見つめて「へえ」と云いましたが、「でも、病院に行っても、どうせねぇ」とお茶を濁しながら診察室を出て行きました。

そうなんです。この女性のやや伏し目がちに苦笑いした顔をみながら、これが真実なのだと思いました。「先生の奥さんの話は気の毒で、そんな事はあり得るのでしょう。でも、そんな事は滅多にあることではない。毎年受診した方がいい事は分かっているけれど、行ってもどうせいつもと同じように『変わりないですね』と云われるだけなのだ」と思っている。それなら、せめて2、3年毎に受診したらいいのではないか、と傍観者は思うのですが、そんなものではない。「毎年受けなくても良いから、2、3年後に受けてください」と云われるのが一番中途半端で厄介。まず、1年後なら覚えていられるが、2年、3年と経つと今が何年目か忘れてしまうもの。そして、「2年後か3年後で良い」という言葉は「多分何も起きないだろう」というメッセージである事を当事者は実感しているからです。

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