見えすぎるということ
夜中に、ゆっくりと我が家の風呂の湯船に浸かりながら、ぼ~っと辺りを眺めました。
そしたら、なんか浴槽のタイルがいつになく黒ずんでいるように見えて、近づいて観察してみたらたしかにあちこち汚れている。壁のタイルもなんか端々が薄汚い。
「どうしたんだろう。昨日まではこんなに汚れていなかったと思ったけど、今日、砂埃かPM2.5か何かが窓から大量に舞い込んだのだろうか?」・・・夜中にそんなことを思いながらちょっとだけ凹んでしまいました。
でも、湯船から出て石けんでカラダを洗おうとして、気づきました。「コンタクトレンズを外すのを忘れている!」・・・いつもは仕事から帰ってすぐに外すコンタクトレンズをつけたままうたた寝してしまい、目覚めてからすぐに入ったから・・・「なんだそうか。いつもはもっとアバウトにしか見えてなかったから、お風呂がそれなりに汚れていることに気づいてなかっただけなんだ」・・・それに気づいたら、なぜだか安堵する自分がいる。いつもは見えなかったから気づかなかっただけ。ということは、『本当は汚れている』のだ。本当はもっとショックを受けないといけないのではないのか、と思うのだけれど・・・。
84歳になる義母が、白内障の手術を受けた後に自宅で洗面所の鏡を見たらものすごく薄汚れたシミだらけの自分の顔が目に入って、「私は恥ずかしくて他人様の前に出て行けない」と大きなサングラスをかけ始めたのを見て、「お義母さん、周りの人にとっては何も変わってないのだから、いまさらそんなことをする必要はないと思いますよ」と云って、一層落ち込ませてしまったことをふと思い出しました。
真実はどうであれ、あまり見えすぎないのがいい。真実がどうであれ、自分が見えている世界が自分の認識の中の現実なのだから、それを信じていて困らないのであれば、見えない状態のままでいてもいいのではないか。それが幸せというものではないか。
なんてなことを考えるわたしって、変ですか?
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