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2019年4月

非日常の中で

平成最後の日は、朝からまとまった雨が降っているので、お散歩も庭の草取りも断念しました。GW後半に遠出をする予定なので朝からGSにガソリンを入れに行きました。覚悟はしていましたが、とっても値上がりしていました。行く途中、朝早くから働くお兄さん方をたくさん見かけながら、「休みの日にぼ~っと休んでいたら申し訳ない」と反省。休ませていただいている以上、気合いを入れて休まなければ!

とはいえ、今日はほとんど大晦日の空気感、きっとカウントダウンがあって明日は元旦の空気感なのだろう。「単に月が変わるだけのことにそんなに大騒ぎするのは馬鹿馬鹿しい」という輩も多いけれど、この非日常感は、むしろ大晦日よりはるかに意味がある気がします。何しろ、元号が変わる時にこんなにお祭り騒ぎできるなんてことは普通はないのだから(普通は悲しみの中で厳かに儀式が執り行われるもの)。平成になったとき、大喪の礼の日に日本中が喪に服して、テレビはどの局にしてもため息が出るほどに何日も全部同じで、騒いでいたら不謹慎だという空気感の中、のんきな番組を日常通り流してしてくれたテレ東が陰で賞賛されたのを思い出しました。

『平成』は本当に大変な30年でした。戦争もあり、大災害もあり。だからこそ、『平成』から『令和』へ、それぞれ1文字ずつを取って『平和』の想いを皆で実現させられる未来であってほしい。そんな想いで今日を過ごそうと思います。

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社会人として

この季節になると毎年書いてしまうのが、職場の廊下でのあいさつのこと。

ベテランスタッフたちに、あいさつする人と一切返事をしない人がいるのは、もう慣れました。子どものころや学校で、他人とすれ違ったらあいさつするのは基本だ!という教育を受けてきていないか、あるいはシャイで口の中でモゾモゾ答えているけど聞こえないだけか、なのだと割り切っています。「道で知らない人に声をかけられても答えたらダメよ」とお母さんや学校の先生からうるさく指導されてきた世代なのでしょうか。

そんな中で、フレッシャーズが入職してくると、おそらく彼らの最大の壁が廊下のあいさつなのだということが分かります。明らかに遠くの方から身構えている空気がかもし出されています。集団で動いている連中は、その中の誰かがあいさつするとみんな釣られてやりますが、独りで歩いている、特にドクターやパラメディカルスタッフは大半が素通りします。事務系の人たちはどこかで社会人の身だしなみとしてあいさつの仕方を教わるのに対して、社会に出る前や出てすぐ(大学病院など)にそんな研修を受ける機会のないメディカルスタッフは、それを当たり前のことだとは思えないのかもしれません。

うちは全職員、あいさつが基本の職場です。むかし、わたしが研修医として入職したころ、とてもこじんまりしたアットホームな病院で、職員は事務職から院長までみんながファミリーでしたので、ほぼ知らない人が居ない感じ。だからあいさつしないと、「あいつはあいさつもできない」とすぐに噂になったものです。でも今や日本に誇れる大病院になりました。大学病院や総合病院などでしか働いたことのない若いメディカルスタッフには、「自分に関係するスタッフ以外はみな他人。縁のない人にあいさつするのは無駄」という感じでいいと思い込んでるのかもしれませんね。「その辺の商店街を歩いている赤の他人にいちいちあいさつなどしないのと同じ事だよ」と思っているのかもしれません。

「あんたら、この病院で働いている間に最低限の社会人としての常識を身につけないと、もうその機会はないと思うよ。この大量スタッフを抱える大病院の中で、君らより位の下の人なんてほとんどいないんだから」・・・などと思いながら素通りドクターを眺めている老医であります。

 

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老化の波

先日、大阪国際会議場で行われた学会に参加してきました。大阪駅から会場まで、堂島川沿いの遊歩道を歩いていると、朝からウオーキングする老夫婦や小さな犬を散歩させるご高齢の男性をたくさん見かけました。朝の大阪駅界隈が腕を組みあった若者のカップルや大きな荷物を引き摺った外国の若い観光客の喧騒の中にあったのとは全く対照的で、そこには長閑でゆったりとしか進んでいないであろう時間の流れがありました。長閑といえばのどかですが、失礼を承知で表現するならば、どこか魂が抜けてしまった抜け殻のような姿にも見えないことはない。滅多に着ないスーツを着て足早に歩く自分からはそんな風景が別世界の他人事のように思え、眼に映る高齢者の男女が自分とは無関係に思いながらその場を通り過ぎました。自分に関係あるとしてもそれは遠い先のことだろう、と。

でも、よくよく考えると、それは、家の中で過ごすペットのイヌが自分をニンゲンだと勘違いしているように、自分の目から見える周りの風景が二十代の頃と変わらないものだから自分は歳をとってないと勘違いしているだけのことで、おそらく彼らはわたしとさほど変わらない年恰好。休みの日に普段着で近くの公園を朝散歩しているときのわたしだったら、側から眺めて見たとき、きっと彼らと全く区別はつかないだろう。そんな歳になったんだということに気づいて愕然としました。最近、なにもかもが面倒くさくなって、イライラしたりギラギラした目つきをしたりすることを卒業したことを「悟りを開いてきた」と表現しているけれど、いやいや、それはあの”毎日が日曜日”的な老人の世界と同じではないかということに気づかないふりをしているだけではないのか! 

くそう、そんなこと絶対に認めたくない。「こう見えて、おれはまだまだ若いんだぞ!」と言い張っていないと負けてしまいそうになるけれど、絶対に負けたくなんかない。でもそれだったら、何か、若者の証明をしなければな。焦りながら、そんなことを考える今日この頃なのであります。

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モチベーション

「先生、太ったでしょ!」

診察室に入ってくるなりある受診者の男性が叫びました。

「そう見えますか? 去年はだいぶ太ってしまったから一念発起して今だいぶやせてきたところなんですよ。まあ、同窓会が全部終わって、ここ2週間くらいまたリバウンド気味ですけどね」とか、「やっぱり還暦過ぎると基礎代謝が落ちてきてなかなか戻れませんね」とか、意味もなくあたふたして言い訳するわたし。ふとデータをみると、その男性にわたしが会ったのはもう5年前。その頃は、一番頑張ってダイエットしてたときだし、運動に目覚めていたときだし、あのときと比較されたら勝ち目はないわ!とか思って苦笑い。

それでも、受診者さんのこういうコトバが一番ココロにもカラダにも効きます。以前、大きなメタボ腹のおじさんに、「先生、1年前より太ったねぇ!」と指さして笑われたときには、「あんたに云われたくないわ」とココロの中で云い返しましたが、それでもその後のダイエット意識は明らかに高くなりました。

今回のこの受診者おじさんの指摘が、わたしの細胞にまで響いてくれるといいけど、なぁ。

 

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包容力

この春に、3年ぶりくらいで2つの靴を新調しました。日常で履くスニーカーと仕事で履くスニーカー。私の足は幅広甲高なので、普通に足の大きさ(長さ)の表示だけでは足に合うかどうかわかりません。メーカーによってもデザインによっても、素材の硬さや伸びによっても全然違うからです。だから、靴を買うときはなかなか自分の足に合うものに巡り会えません。どこで妥協するか、という場合もあります。だから、今回買った靴のサイズとメーカーは2足とも別物です。

で、自宅用は問題なかったのですが、仕事用を翌日職場で履いてみたら・・・ちょっとしっくり来ない。歩いてみると左足の甲が痛い。きっと靴の一部がわたしの足の甲の血管か神経を圧迫しているんだろうと推測します。少し紐を緩めてみたり位置を少しずらしてみたりいろいろやりながらごまかして履いてみました。今までの経験上、これをだましだまし履いて解決する場合としない場合がある。どれだけ有名ブランドの高価な靴であっても解決しないときにはしない。その場合は残念だけれど履かなくなる。歩けない靴は致命的です。でも、今回のコンバースの白いスニーカーは数日のうちにわたしの足にフィットするようになりました。何がどうなったのかはわかりませんが、どれだけ歩いても全然痛くないばかりか、足に吸い付くようにぴったり填まり込んでいて、感動すら覚えます。わたしの足が靴に合わせたのではなく、明らかに靴が私の足に合わせて変化してくれた感覚。よかった。おかげで毎日、快適に仕事ができています。

で、そんな靴を履きながら自問自答するのです。今の自分にはこの靴のような包容力があるか、と。「これはこうじゃなきゃいけない。自分はこうするのがベストだと固く信じているのだから、そう簡単に信念を曲げるべきではない」・・・少なくとも若いころのわたしはそう信じて突っ張って杓子定規に生きてきました。「正義は正義、正義はいつも正しい」というのが信念でした。「それがいやなら、相手が変わるべきだ!」と。今はかなり柔らかくなったと自負していますが、柔らかければそれでいいのかといえば決してそうではない。ゆるゆるの靴ではかえって履きづらくて疲れてしまいます。オーダーメードではない靴がたまたま出会った足にきちんとフィットするようになるのは、容易なことではないと思うのです。そんな、靴のような人間になりたいものでございます。

 

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感謝の気持ち

「あたまを撫でてやった」
「あたまを撫でさせてもらった」

「握手をしてやった」
「握手をしてもらった」

単に、「あたまを撫でる」「握手する」という同じ行為なのに、人間の行動に対する自分のきもちの有り様が、そのままコトバの表現として出てくるとまったく違うものになる。ことさら日本語は英語よりもココロが現れる。

上から目線・下から目線、目上・目下という区別を無意識にしてるのだろう。どの表現を自分が発したか(たとえ口に出さなくてもアタマの中で考えただけでも同じだろう)が、相手をどう捉えているかという自分の本心である。大人の人間関係ではむずかしいけれど、それでは、我が子に向かってはどうだろう。「~してやっている」と思ってはいないだろうか。成長していくにつれて本当はいつのころからか「してもらっている」という立場になっていくはずなのに、いつまでも我が子は自分の持ち物と思ってはいないだろうか。

我が家には子どもがいないので、自分は愛犬に向かってはどうだろうかと考えてみた。「あたまを撫でさせてもらった」「おなかをさすらせてもらった」・・・いつも大きくしっぽを振ってキラキラした目で慕ってくる愛犬に向かって、自分はそんな気持ちを持つことができているだろうか。愛犬はわたしが癒やしてあげているのではない。いつでも、あきらかにわたしが癒やしてもらっているのだ。

生まれ変わった(還暦)日から1年。今日、満1歳の誕生日を迎えるにあたって、「まだまだだな」とあらためて思った次第です。

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椅子の高さ

15年くらい前、産業医の研修会だったか、あるいは何かの学会のシンポジウムだったかで、オフィスの椅子の話を聞きました。毎日デスクのパソコンに向かって仕事をする人にとって、椅子の形や高さはとても重要です。椅子はどのようなものがベストなのかを『人間工学』の立場から解説してもらったのです。

で、そのときに教えてもらったのは、「椅子は高くし、デスク上のパソコンモニターを斜め上から見下ろす形にするのが理想である」というものでした。椅子の高さがモニターより低いと、常に見上げる形になり、首を反らせるので頸椎を痛め、姿勢も悪くなって腰や背中を痛めるし、いつも目を見開く形になるのでドライアイになって眼精疲労を起こしやすくする、という理由だったと記憶しています。だから、若いスタッフが椅子を可能な限り低くした挙げ句にさらに寝そべるようにして俯かせたモニター画面を下から見上げる姿勢を取っているのが、滑稽でたまりませんでした。

ところが最近、椅子が高すぎると画面を覗き込む形になって猫背になったり海老反りしたりして、返って腰や首を痛めやすいので、椅子は低くした方が良いという整形外科医の話をテレビの健康番組で見て、大変ショックを受けました。だって、全然云ってることが逆なんですもの。でも、この機会に椅子についてネット検索して調べてみて、なんとなく分かってきました。皆さんの椅子の座り方自体が最近おかしいんです。きっと、大きなデスクトップパソコンではなく皆がノートパソコンを使うようになったからではないかと思います。ノートパソコンのモニターを覗き込んでしまうと、椅子に深く腰掛けて背もたれにカラダを固定させる、本来の『人間工学』的な理想姿勢をしにくくなります。前のめりになるか、海老反りになるか、椅子の前の方に座るか、浅く腰掛けて寝そべるか・・・たしかにわたしも自宅でノートパソコンを立ち上げると必ず猫背で覗き込む形になっていることに気づきました。

日頃、目、肩、腰、首に凝りと痛みがでている皆さん、 今更なかなか理想の姿勢には変更できませんが、オフィスの椅子は基本的に『人間工学』に則った形に設計されていますから、できるだけ深く腰掛けて椅子の形にカラダをはまり込ませて仕事できるように心がけましょう。

 

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健診前夜の過ごし方

最近は、健診前日の食事摂取についてとても厳しくなり、前夜に規定の時刻以降に食事を取ったと分かったら検査自体を受けさせないこともあります。一方で、食後決まった時間以上空けてさえいれば、朝食を取っていてもOKというルールもできました。働き方の多様性を考慮したものだと思われます。

健診や人間ドックに臨むとき、その付近の生活はどうしたら良いのか。前夜は21時以降に絶飲食厳守なのですが、いつも夜中まで飲んで食って乱れまくっているのに健診前2~3日だけ節制して検査に臨む人(できるだけ良い結果にしたい)もいれば、いつも通りより少し多めにわざと遅くまで飲み食いして臨む人(いつもの生活を評価してほしい)もいます。もっとも、後者の中には、結果が悪ければ「遅くまで飲食したセイだから」と後で言訳する往生際の悪い輩もいますが。

思うに、健診というものは、きちんと絶飲食しても異常の人(真の異常者)を見つけ出すのが目的ではなく、本当は飲食しようがしまいが異常が出ない人(真の正常者)かどうかを調べていると考えるべきです。だから、「厳しい条件で検査しないと不正確だから守れないなら検査を受けさせない」というのはおかしな話だと思います。守らずに検査して異常だったときに「ちゃんと守っていればOKだったかもしれないから気にしない」と逃げられないようにしたいのでしょうが、本来は夜中の0時に飯食っても朝8時頃には正常に戻っているのが当たり前なのだからして、条件を守っていようがいまいが異常値が出ればそれは異常なのであり、治療(生活療法も含む)が必要なのです。そう割り切ってほしい。もっとも、そういう言訳をする輩は、そもそも条件を守った上で異常値が出てもどうせ生活改善など何もする気はないのだろうけれど・・・。

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『わが父』

先日、中学の還暦同窓会が盛会のうちに終わりました。このとき、中学3年の担任のG先生が作文を持ってきてくれました。「当時書かせた作文をずっと持っていたからみんなに返したい」と。私の手に45年以上ぶりに戻ってきた作文。「こんなこと書いたかなあ」と思いながら、なかなか激しいことを書いていた思春期の自分に驚きました。怒りながらも何とか冷静を保とうとする中学3年生・・・その作文をそのまま書き写してみます。

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『わが父』題名はみんな同じだったから指定だったみたいです)

 現在、少なくとも尊敬できる父だとはいえない。そんな父が、時々ものすごくいやになったり、腹だったりする。”あんな人間にはなるまい”と思うこともよくあるのだ。それはぼく自身、気持ちがいらいらしているためなのかもしれないし、僕の性格として変人なのかもしれないのだが・・・。

 彼は庄屋の家の次男坊として生まれて、いろいろと努力したと聞いている。人間としてしっかりしている点では頭が上がらない。少し酒が入るとよく自慢話をしはじめる。よく聞く話にこんなのがある。それは今住んでいる家を建てる時だが、その金を集めるのにあっちこっち回って、集めたということである。よく父の故郷の方が相談にやってくることがある。父はそれだけ信頼され、頼りにされているようだ。ただそんなことを言っている時のちょっとした態度に、とてもしゃくにさわることがあるのだ。それがなければ、と思う。

 それから、彼は大ボラをふく。まるでわかっているのだという顔をして、あまり知らないことでも、「・・・だ」ということばをよく使う。そのために、いろいろ迷惑することがよくある。この中学に来るようになったのも、それがひとつの原因なのである。これも改めてもらいたいことのひとつだ。また、何を聞いても何も答えてくれない時のあることなど、いろいろあるのだ。

 しかし現在、一番感じやすい時期にいるぼくだから、もう少したつと、彼をほんとうに理解できることがあるかもしれない。その日のくることを、期待したい。また彼自身、現在の自分のあり方について考えて、改めるべきことは改めてもらいたいと思う。

 

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最悪の場合

芸能人ががんに罹ったり、難病になったりしたことを公表するたびにマスコミが騒ぎ立てるのが、最近特にひどくなった印象を受けます。

以前、めずらしい感染症が流行して大騒ぎになったときにも書きましたが、基本的な知識のない人間がネット検索の字面で自分なりの理解の仕方をしただけでまことしやかに説明をする風潮はそろそろやめてもらえないだろうか。たとえそこいらの専門医を急いで呼んできたとしても、彼らとしても、本当はとても奥深くて複雑な内容を簡単に説明しろと云われた挙げ句にそのことばに責任を持たされるので、結局一番最悪の場合の想定でしか語れないでいます。

どう考えても最近のテレビニュースやワイドショーは、タブーの領域に入り込みすぎていると思います。専門領域にいる者同士がディスカッションするのならともかく、つけ刃(やいば)の知識で太刀打ちできる領域ではありません。専門医を呼んで説明してもらったとしても、半端な知識や情報しかないコメンテーターの質問は見当違いだし、その答えもどうしても当を得ないものになるのでとても変。感染症の場合と違って、がんや難病のたぐいはあまり興味本位で飛びついてほしくないデリケートな領域なのです。野次馬的な興味が湧くから視聴率が取れる!と躍起になるのでしょうが、世間には同じ病気で苦しみながら闘病中の患者さんがたくさんいます。テレビが一律に最悪の場合の情報ばかりあおり立てることが、そんな人たちに不安を抱かせたり、不必要に疑心暗鬼にさせたりするのではないかととても心配です。

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がんは必ずしも生活の乱れが原因ではない

最近、芸能人ががんに罹るとすぐに公表してくれるモノだから、マスコミが我れ先にと躍起になって病気の解説をします。慌ててネット検索したり近くの専門クリニックに取材したりしてつけ刃の知識で解説をするものだから、思いもよらない内容をまことしやかに説明しているのをみて苦笑いすることは少なくありません。

先日、元アイドルのFさんが舌がんの手術をした後に食道がんも見つかったことが話題になりました。「普通、食道がんは男性に多く、それは男性の方が大酒飲みや喫煙者が多いからです」「Fさんの場合はそんな環境ではなかったのにどうしてがんになったのでしょうか?」「食道は食べ物にも関係しています。熱いモノが多かったり刺激物が多かったり・・・」そんな会話を眺めながら、さすがに聞いていられなかったのでスイッチを切りました。

「何も悪いことはしていないのに、どうして自分はがんになったのか?」「どうしてわたしだけ?」と悩んでいるがん患者さんは少なくないのではないでしょうか。がん細胞なんて、毎日いくつも生まれてきています。それを自分の抵抗力で潰して回っているからがんに冒されずに済んでいるわけです。 Fさんの場合は、重複がんなので明らかに体質の影響が考えられますし、もともと特殊な病気に罹ってきていましたから免疫力の問題もあったかもしれませんが、普通の場合はタバコによる肺がんとウイルスによる胃がん、子宮頸がん以外は明確な原因はありません。「がんは生活が乱れていなければ起きないモノだ」という発想はやめましょう。

最近、本人に告知されるようになったからとか著名人が積極的に公表するようになったからというだけでなく、確かにがんは増えているように思います。これはがんになりやすい環境になった(空気の汚染や化学物質や食べ物に含まれる栄養分の変化など)こともあるのかもしれないけれど、むしろ人間の方の抵抗力(免疫力)の低下が急激に進んできたからではないか、というのがわたしの持論です。子どものころから無菌状態で保護されてきた現代人ががん細胞に勝てなくなっていくのは、自然の結果なのかもしれません。だからこれから先、若い人ほどがんになりやすくなるに違いないと懸念しております。

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電子カルテ(後)

(つづき)

この事例でわたしが一番問題にしたいのは、そんな大きな異常所見を見つけておきながら、直接電話することなく無機質な電子カルテに粛々と書いただけだったということです。今時は、どこの世界でもそうなのだと聞いています。「自分はちゃんと書いたんだから、読まないヤツが悪い」みたいな・・・それは、自分の仕事が「目の前の画像を正確に読影することだ」と割り切っているからなのでしょうか。自分が医者である以上、主治医でなくても「自分が助けられるものなら何とかしたい」とは思わないのかしら。今回のニュースから、そんなことを考えてしまいました。

とはいえ、放射線科医が画像読影をしてくれることはとても重要なことです。わたしが臨床現場で働いていたころ、自分でオーダーした検査は自分で読影するのが当たり前でした。だから、呼吸器科医が胸部レントゲンを見るときは肺しか見ないし、循環器内科医が同じモノを見るときは心臓の大きさや肺うっ血がないかという目でしか見ない。そのために、循環器内科の外来で定期的にレントゲン検査をしていたのに肺がんの陰影を見つけられなかったなどということは珍しくなかったと聞いています。同じ画像を放射線科医が読影すると、肺や心臓はもちろんのこと、骨や皮下組織や縦隔や、とにかくその写真に写っているすべての情報を確認してくれるのです。放射線科医の目には私たちの目には見えないモノが見えている・・・とても驚き、尊敬したモノです。

だからこそ、画像に見えている異常を「あなたは気づかないかもしれないけれど、異常がありますよ」と強調して伝えてほしい。「あんたの目は節穴だから見えないだろうな。でもちゃんと教えてあげたからね。気づかなかったら自分で責任とりな」的な意地悪はしないでほしい。面倒くさくてもお節介でも、そうあってほしい。『電子カルテ』って、そういうアナログ的で人間的なコミュニケーションをホントに希薄にさせるよね・・・それがわたしの偽らざる感想です。

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電子カルテ(前)

先日、泌尿器科系のがん手術を受けた患者さんに数年後の定期検査(CT検査)で別の臓器の新しい腫瘍が発見され、読影した放射線科医が電子カルテに所見を記載したにもかかわらず主治医がそれを見落とし、結果として1年後にはその腫瘍(進行がん)のために死亡した、という医療事故があったことをネットニュースで知りました。奇しくも、テレビでは放射線科が主役のテレビドラマが話題になり、芸能人のがん公表が続いて、世の中が割とゾワゾワしている中でのこの事故。

最初に目に入ったのは、「電子カルテへの記載」・・・なんでそんな重要な所見を見つけたのに直接電話連絡しなかったのだろう。そうなんです。今や大きな病院はどこでも電子カルテで、読影レポートも採血データも全部院内ネットでつながっている電子データで集められてその人のカルテができあがります。だからデータ収集に落ちがない、と思われがちですがそうではない。むしろ逆です。膨大なデータが一瞬にして集まってきて、その情報の重要度なんて何も考慮されないままに並んできますから、主治医の目にとまらないデータは少なくないと思われるのです。昔のように紙データが戻ってきてそのひとつひとつをカルテに糊付けする作業は、「医師の仕事じゃない」「この無駄な時間の浪費が残業を増やす原因だ」と非難されますが、それでも一枚一枚を貼る作業を自分でする方が必ず一度は目を通す(通さざるを得ない)ことになるから、むしろ見落としは減ると思います。電子カルテの最大のネックは、情報量があまりに多過ぎて主治医のアナログな目をすり抜けるデータが少なくない、ということなのであります。 (つづく)

 

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『大切な人を連れ出そう』

連載コラム4月号が発行されましたので、転載します。

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『大切な人を連れ出そう』

「健康づくりのためには、運動をすることが重要だ」ということを、みなさんは知っていますか? 「いまさら何を言っている? 当たり前だろ!」と思いますか?

 「みなさん方の大多数は、たぶん誤解しています」・・・昨年、ある医学学会のパネルディスカッションで、座長の先生が開口一番そう言い放ちました。日本で生活習慣病予防のための運動量が足りない人は全人口の約7割いるそうですが、実は“わかっているけどできてない”という人はその中の3割弱で、残り7割強はそもそも健康的な生活を送ることに興味がない(健康無関心層)のだそうです。つまり、日本国民が運動不足なのは、その重要性を知っているのにしないからではなく、それが重要かどうかを知らない(あるいは知る気がない)人が多いからだということになります。私たち予防医療に関わる医療者や行政機関の担当者は、日々運動の重要性を啓発して回り、どうやったら行動に移してくれるか試行錯誤しながらあちこちで健康教室やイベントを開いているというのに、そして毎日のようにテレビでは健康番組をやっているというのに、そんなことは世の多数派である健康無関心層にはどうでもいいことで、「今運動している人や今後やりたいと思っている人は自分から健康情報を集めるけれど、それ以外の人はそもそも聞く耳を持たない」のです。

この健康無関心層に運動をさせるためには、健康への興味などに関わりなく、とにかく彼らを引っ張り出すしかありません。社会の空気を変えなければ人は変わらない・・・つまり、健康に興味がある人もない人もひっくるめて社会全体が自律的に動く風土を作るしかない。ある健康イベントに参加した人のアンケートで「なぜ参加したのか?」という質問に、「家族や友人が誘うから」という答が一番多かったそうです。あるいは「参加賞に景品をもらえるから」と。彼らを引っ張り出すのに必要なのは、そんな健康とは無関係な理由です。運動したら健診データが良くなるとか認知症が予防できるとか、そんなことでは動きません。隣県の大分には『おおいた歩得』(日常のウォーキングや健診受診、健康イベント参加などで健康ポイントを獲得して、それが貯まると県内の協力店舗で特典がもらえる)というスマホアプリの取り組みがあります。健康や運動に興味がなくてもポイントを貯めたら何かもらえるアプリ・・・こういう取り組みがうまくいくと社会は変わるかもしれない、と個人的には注目しています。でも、そんなものの成果を待たずとも今すぐできることがあります。みなさんの周りにいる、みなさんにとって一番大切な人をとにかく連れ出しましょう。理由なんか要りません。おそらく今この文章を読んでいる方は健康無関心層ではないでしょうから、辺りを見回して目についた健康無関心層と思しき仲間を、早速連れ出してください。

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幸福論

先日、スライドの整理をしていたら、15年ほど前に職場の若手スタッフのために作ったスライドがたくさん出てきました。その中に、こんなシンプルなスライドが目にとまりました。

 

 幸福は自己満足

 不満は被害妄想

 

当時、何を感動してどこからこの名言を見つけたのかは全然覚えていないので、今、確認してみたら、『バートランド・ラッセルの幸福論の言葉』なのだそうです。それを、江頭2:50さんが云ったのがテレビに乗ったのだそうですが・・・覚えてない。

でも、15年経ってもう一度読んでみたら、今の方が心に響く。『考え方次第で幸せは変わる』ということらしいけど、そんな次元じゃなくて、生きとし生けるもの、みながこれを呪文のように唱えていればきっとみんな幸せになると思うのです。

 

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片付けられない大人

片付けられない人がいます。使ったモノを元の位置に戻せないのです。ただそれだけのことだと端から見ているとよくわかります。ここにあった方が便利だ。すぐにまた使うから。後で戻しておくよ・・・いろいろ言い訳はするけれど、結局は元の位置に戻すのが面倒くさいからやりはしない。「今の位置を定点にすれば良い」 と考えるようだけれど、次に違うところで使ったらまたそこから戻さないからいつの間にか現在地がどこなのか分からなくなる。

こういうことは、本人の性格とかの問題ではなく、教育の問題。子どもの頃の家庭の躾(しつけ)の問題。「わたしはちゃんとうるさく指導したのよ」と親は云うかもしれないけれど、本人はそんなことはわかっている。分かっているから叱られればするけれど、そうでなければしないわけだから、やはり教育の問題だと思います。

躾(しつけ)とは、無意識でもできるように刷り込まれた日常所作であって、叱られるからイヤイヤやっただけでは到底身につかないものなのであります。

最近は、『自主性を重んじる』とか『本人が嫌がることは無理強いしない』とかいうのが教育だという風潮なのだけれど、大人になっても片付けられず、社会人になってもゴミの山に埋もれてしまうような人間になるとわかっていても、何も云わずに傍観する覚悟が親御さんには本当にあるのだろうか。ま、最近は親も片付けられない人が多くなってきたから、躾(しつけ)そのモノの概念が存在しないのかな。

いや、ふとある人を眺めながらそんな気がして、書いてみた。

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行動を起こすとき(2)

(つづき)

さて、仕事ではその”行動を起こさせる”側の立場にいるわたし。他人に行動を起こさせる(行動変容)ということがどれだけ大変かを思い知らされてきました。20年近く前、予防医療の世界に入ったときはとにかく動脈硬化の恐ろしさをオーバーに語り、「この状態は、今日帰りに突然死しても誰も驚かないレベルですよ!」とまくし立てていました。保健師さんからは「先生にガツンと云ってもらったので受診者さんがショックを受けて『今日からがんばります』って神妙に云ってくれましたよ」と褒められて天狗になったりしましたが、実際にはそんなことでは大部分のヒトは行動を変えられないことを知っています。特に生活習慣病に対する行動変容というものは、その場では納得して「今夜からがんばろう」と心に誓ったとしても帰ったらそうも行かず(いや、しようと思ったらできるかもしれないけれど、次の健診は1年後なのだし、1日遅れてもそんなに変わりはしないし・・・とか思っているうちにすぐ1年後が来るのが常です)。

むかし、普通に喫煙をしていたころ、東京の研修会で肺がんの恐ろしさとすさまじさを1時間レクチャーされて、「もう今からたばこは吸わない!」と心に決めてその場に持っていたたばこを箱ごと捨てたのに、ホテルに帰ってビールを飲んでいたら、何か口寂しくて近くのコンビニにたばこを買いに走って吸ってしまって、ものすごい自己嫌悪に陥ったことを思い出しました。

つまり、何かに対して自ら行動を起こすということは、ものすごく大きなエネルギーが必要なのだということ。そういうことです。

 

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行動を起こすとき

東京の劇団から次の公演のチラシがDMで届きました。世間でも割と名の知れた有名な役者Kさんが主催する劇団の公演です。先日はわたしの大学時代の演劇仲間(お江戸で役者やってます)も客演で九州を廻っていました。

次の公演は下北沢で5月に2週間の予定で行われるらしい。長いこと彼らのお芝居も観ていないので観に行ってみたいものだな、とか思いながら届いたチラシを隅々まで眺めていました。「ちょっと興味があるから行ってみようかな」と云うにはさすがにお江戸は遠すぎます。「行ってみたい」と思うのは、それがプロの芝居だからか、この劇団の芝居だからか、この役者さんの劇団だからか、客演者に好きな俳優さんが出ているからか、あるいは題材が面白そうだからか・・・どこかにすごく惹かれないとなかなか行動には移れない年頃になってしまいました。

『ヒトが行動を起こす』というのはとても大変なことです。2週間に一度、隣の県で行われるプロサッカーの贔屓チームの応援のために山を越えるわたしですが、この交通の便が必ずしもよくないサッカー場に足を運ぶという行為も、シーズンパスを買っているわたしのようなコアサポーターでも大変なのだから、「どれ、ちょっとサッカーでも観に行くか」くらいの気持ちでは足を運んではくれません。地元チームががんばっているからたまには観に行くか、とかいう輩はめずらしい。せいぜい、今日は相手チームが有名な強豪だから、有名な外国選手が出るかもしれないから、とか、あるいは彼女を誘うデートの口実だとか、何かもっと大きなきっかけがいるに違いないのであります。(つづく)

 

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アメリカに負けたがん対策

がん死亡率が米国に逆転される理由

 Medical Tribuneに大阪国際がんセンターがん対策センター特別研究員 大島 明先生の寄稿文が載っていて、それを読みました。予防医療の中で”がん”にはほとんど興味のないわたしではありますが、人間ドックや健診を生業(なりわい)にしている身としては、がん死亡率がアメリカより上になりそうだというデータはちょっと気になるところ。

「1971年のニクソン米国大統領(当時)のがんに対する戦争宣言以来のがん対策の取り組みの成果として、米国のがん死亡率(男女合計、2000年米国人口を標準とした年齢調整死亡率)はピーク時の1991年から2016年までの25年間で27%低下し、部位別には肺がん、大腸がん、乳がんなど多くの部位で死亡率が減少していた」これに対して、日本は、「日本のがん死亡率(男女合計、1985年日本人人口を標準とした年齢調整死亡率)も、ピーク時の1996年から2017年までの21年間に28%減少している」のだそうです。ところが、日本の場合は胃がんと肝がんの死亡率の減少によるところが大きく、これは検診のおかげではなくて上水道の完備や衛生観念の改善などの影響が大きい。

一方で、今、日本の部位別がん死亡のトップは、男性では肺がん、女性では大腸がんですが、この2つのがんについてはもうすぐアメリカの方が死亡率が低くなるのだそうです。
・肺がん死亡率:近く日米が逆転するのは必至、原因はたばこ対策の遅れ
・大腸がん死亡率:逆転を許した原因は大腸内視鏡検査の非推奨

ま、さもありなんの考察が示されておりました。どっちも国の施策・・・いくら健診現場が禁煙(たばこ不買)と大腸ファイバーを薦めていても、国は動く気はありません。自分の身は自分で守るしかない日本の現状を鑑みれば、身を守るすべは決まっているような気がします。

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一気に緩くなりました。

先週末に、中学時代の還暦同窓会が終わりました。「全員が満60歳を迎えた後にする」ということで年度末に開催されました。たしか、最後に60歳になったのは3月27日生まれのSくんだったか。

おかげさまで、何とかスーツのズボン、穿けました。1年前の還暦の宴を開催してもらった時以来穿いてなかったのでとても心配でしたが、キツキツのファスナーを止めてから何度か揺すぶったら、折り合いが付きました。12月から行った3ヶ月のダイエットで体重も体脂肪率も減りましたが、腹回りがほぼ1年前と同じかちと大きい。2月いっぱいで終了したけれど、何とかこの宴まではリバウンドさせないようにがんばったのであります。

が、それも無事に終了しました。もはや、思い残すことは何もありません。今後、退職する時くらいしかこのスーツを着る機会もないかもしれないし、最悪、貸衣装って選択もある。なんか、急に緊張感が緩んでしまいました。かっこよくカラダをキープさせなければならない目標が、なくなってしまいました。無理してつかまりスクワットやゼロトレなんかしなくても何も困らないし、昼休みに職場の見回り散歩の意味もない。ユニクロのジーンズはどこまでも穿き伸びてくれるし・・・(笑)

なんか、去年と同じようなリバウンドの流れになりそうな予感。

 

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