「ない」というあきらめ方
いつも整理することしか考えていない”スイーパー”であるわたしは、断捨離に躊躇しません。3年使わないものは一生使わないと思っています。たまに「昔うちで買って使っていた●●はどこ?」と聞かれ、「それは押し入れの隅かどこかにあったかも」と思うようなこともありますが、「いや、もう捨てちゃったから、たぶんない!」と答えることの方が多いです。
今、職場ではコンピューターのシステム更新が行われようとしていて、古いデータをどうするか(特に画面上に残しておくべき情報かどうか)を検討されていて、わたしのところにも専門領域に関することを聞きに来ます。特に5年くらい前までは行われていた心臓検査だとかその時の返信コメントだとかをどうするか?という内容・・・スイーパーであるわたしの答は明白です。「今使われていないデータは、もう一生使わないのだから、捨ててください」。もちろんデータバンクとしてはどこかに残るのでしょうが、「10年前の検査データはどうだったっけ」とかいってデータをさかのぼって探す可能性とかないですか?と聞かれるので、「ない。少なくともわたしはない」と即答します。なぜなら、「システム更新の時に昔のデータはすべて捨てたから、調べたくても、ない」とあきらめているから探さないのであります。
いつ使うかわからない(使う可能性はないわけじゃないけど、使わない可能性の方がはるかに高い)ものを保存し、いつでも書き込めるように”箱”を残しておくということは、それだけデータが重くなり、必要もないのに毎回そのデータ群をコンピュータが探しに行くのです。ヒトも機械も無駄な労力を浪費することになるのなら、「ない」という潔いあきらめ方を選んで今をすっきり生きていける方が良いのではないか、というのがわたしの考え方です。
だから、わたしの家には”お宝”と思しき品は存在し得ません。わたしがこれから先ビッグデータを駆使して日本中をアッと云わせるような大研究をする可能性もゼロです。スイーパーはいつも身の回りをすっきりスリムにさせておかねば、ね。
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