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2021年4月

腎臓機能と水分摂取

eGFRが導入されて以来、腎機能低下に対する一般市民の意識は高くなってきました。これまで腎臓はかなり悪くなるまで放ったらかしていることが多かったからこの風潮は喜ばしいことですし、そもそもそれが目的だったのでそれでいいのですが、CKD(慢性腎臓病)中等度というレベルはあくまでも食事や生活面での注意を促すレベルの状態ですから、一番重要な位置に居るのが栄養士さんや保健師さんだといえます。

先日、わたしが担当している受診者さんで徐々に腎機能が低下していた方が今年さらに低下していたので、外来受診を勧めました。透析の要否を相談したかったわけではありません。今の状態での日常生活や食生活への具体的なアドバイスがほしかったからです。でも、結局外来では、「あまり問題はない(たぶん腎臓自体の病気がなく透析もまだ必要ないということを云ったのだと思われる)から今後も健診で経過を見てください」と云われたそうです。後は、「塩分制限ことを強く指示された」とも。

栄養士さんも保健師さんも、腎臓と云えば必ず「塩分制限」を強調します。でも、意外に水分摂取のことには深入りしません。eGFRにすぐに影響を与えるのは脱水だということは医療従事者なら誰でも知っていることだと思うのですが・・・。腎臓はフィルター構造ですから、しっかり濾過できるだけの十分な水に浸されないと網目が詰まって機能が低下します。夏場に水分を摂らずに急性腎不全を起こす高齢者は思いのほか多いのです。

くだんの受診者さんも、どうも「腎臓が悪い人は水分を取り過ぎてはいけない」と思い込んでいる節があります。人工透析をしていた亡き旦那さんがそうだったからのようです。今の状態はむしろ水分を意図的に摂るべき時期だと思うけれど、具体的にどの程度の水分摂取が妥当なのかを専門家から指示してもらいたくて紹介したのですが、その意図が汲み取られることはありませんでした。残念です。

「栄養士さんは、食べ物の内容や摂り方についてはものすごく詳しく指導してくれるけど、水分のことはほとんど触れないもんね」・・・むかし看護師をしていた妻がボソッと呟きました。栄養素の概念の中に「水分」ってないのかしら。料理作るときには「水少々」とか「カップ一杯分」とか云うじゃないですか。「おいしくできるかどうかは水分量が決め手です」って。

 

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中年期のモチベーション

中年期に運動と食事を改善すると人生後半は健康に 肥満・メタボは体重を3%減らしただけでも改善

”中年期に運動療法と食事療法の両方を実行していると、年齢を重ねてから、心筋梗塞や脳卒中などの心血管疾患を予防できることが、米国心臓学会(AHA)などの研究で明らかになった。体重を3%減らしただけでも、肥満・メタボは改善する。早い時期から運動と食事の改善に取り組むことが、人生の後半に大きな成果につながる”(保健指導リソースガイド20210420日配信版)

「人生の早い時期から、健康的な食事をとり、運動を習慣として続け、生活スタイルを健康的に変えていくと、年齢を重ねてから心筋梗塞や脳卒中などのリスクを低下させることにつながります」(米ボストン大学医学部予防医学・疫学部のヴァネッサ ザンタキス氏)

「将来に健康障害が起こる危険性を回避するために、早い時期から食事や運動に取り組んで、体のコンデションを良くしておくことが大切です」

「運動と食事の両方を改善すると、人生の後半になって心血管疾患の発症リスクが低下することが示されました。運動療法のみを実行していた人でも、それに食事療法が合わさることで、心血管疾患のリスクはさらに低下していきました」

「ヘルスケアの専門家は、食事療法と運動療法を両方行うことが重要であることを患者に強調して、個々に合わせてアドバイスをできるようにすることが望まれます」

こういう生活療法に関する研究データを読みながら、最近どうしてもこれらを深読みしたり日々の指導の材料にしたりする気になれないのは、中年期まで生活習慣病の対応で苦慮している人たちにこんなデータを示してもモチベーションを上げる材料にならないのではないかと感じるからです。「やれば必ず良くなるよ」「大それたことをするのでなくちょっとした取り組みで良くなるよ」と言いたいのかも知れないけれど、「それができれば苦労はない」のですよ。

たとえば、体重75kgの人の場合、体重の3%は2.3kgだ。それくらいであれば、食事と運動を工夫すれば、実行するのは難しくないのではないだろうかと最後に考察して締めくくった筆者は、きっと日頃からテキパキ実行できているかあるいはそんなことを考える必要もない若い人か・・・そんな気がしますなぁ。

 

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卒煙

人間ドックの胸部レントゲン写真の読影をしながら、問診を読むと『禁煙』の文字が目に付きます。『禁煙の意志なし』とか『禁煙したが再喫煙』とか・・・なんか知らんが急に『禁煙』の単語が気になってしょうがなくなりました。

わたしがタバコを止めたのは10年前くらいらしい。”らしい”というのは、止める日のXデーがあったわけではないから記憶が曖昧(覚えていてもしょうがないことですし)で、職員健診のときの過去の問診記録にそう書かれていたからです(もっとも、その数字も本当は余り当てになりませんが)。そんなことはどうでもいいとして、健康志向など微塵もなく止める気などさらさらなかった私が喫煙を止めたのは、カラダが受け付けなくなったから(吸った翌朝にものすごく胃の調子が悪くなってムカムカするし、吸ってもちっとも味がしなくなったから)です。何を云いたいのかというと、わたしのタバコは『禁煙』なのか『卒煙』なのかと云えば、たぶん『卒煙』なのではないかということです。臨床現場では同じことだという空気ですが、当事者にとっては全然違うことだと云う気がします。

「『卒煙』はポジティブにタバコをやめるため、今までの喫煙経験をやみくもに否定しない、という意味が含まれているそうです」と、どこぞのドクターのエッセーに書かれていましたが、たしかに、『禁』は『禁止』の禁ですから、どうしても強制的に止めさせられた感がありますが、『卒』は『卒業』の卒ですから、能動的におさらばした感じがします。止めたくはないけど周りが止めろと云うし、健康に悪いと白い眼で見られるからしょうがなく止める感じの『禁煙』は、だから、昔愛し合った愛人のことが忘れられずにふとしたことで再会したらまた離れられなくなる印象が払拭できないのかもしれません。

この際、正式な医学用語を『禁煙』から『卒煙』に全面的に改定したらいいのに、とか思っている次第です。

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ペーパーレスの弊害

昨日のタブレット授業の話題で思い出したこと。

先日、職場のスケジュール表に間違いが多く、書き直すのに凹んでいる事務スタッフの方がいたので、むかし、ここで紹介した記事のことを教えてあげました(『紙とディスプレイの違い』2016.9.24)。

これは、紙に印刷して読むときには脳生理学的に「分析モード」、心理的には「批判モード」に切り替わるのに対して、ディスプレイの文字を読むときはパターン認識モード、くつろぎモードに切り替わる・・・つまり、大まかな情報のパターンや流れを把握する時にはディスプレイが向いているけれど、集中を要する細かい作業を行う時(あるいは間違いをチェックする時)には紙媒体が向いている 、というものです。だから、ディスプレイでは大量の情報を全体的に把握するのには優れているけれど 、ディスプレイの文字で読んでいると間違いを見落としやすいというのは避けられない脳の機能なのだということです。

最近はペーパーレスの風潮に加速度が増し、紙に書かれた書類が極端に減っています。紙のコスト削減と資料の管理の問題がかかっているようなのですが、そうなると文章の間違いや誤字脱字が一層増えることは間違いありません。パソコンなどで発表された公文書の類いに最近誤字が多いのはそれが原因なのだろうことは想像が付きますが、さてその一方で、文章自体は一向に読みやすくなっていない(長ったらしい文章は相変わらず昔ながらの理解しにくい表現のまま)。よほどの悪文なのでしょう。これは、書く人間の猛省を求めます!(笑)だって、こんなことが続くと日本語の劣化に歯止めが利きませんもの。

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近視児童の急増

朝のテレビで、最近、小中学生の近視の比率が急増していることが問題になっていると報じていて、その大きな原因がタブレットやパソコンによる授業なのだと云っていました。今や小学生の3割、中学生の半数以上が近視なのだそうです。パソコンやタブレットを使った授業で子どもたちが目を酷使するのが原因だというのです。取材に応じた校長先生は「画面の明るさには十分留意して子どもたちの眼に最適な明るさを選んでいます」と強調されていました。新型コロナ時代のオンライン授業で拍車がかかり、「リモート授業のために各自でWiFi環境を整えろ!」と学校から云われてわざわざパソコンやルーターを買いに行った家庭も少なくなかったと聞いています。

昔は薄暗い部屋で本を読むから目が悪くなるのだと云われてきましたが、それは紙媒体の反射光だからであって、今の時代はスマホやタブレットなど、自らが光を発するから暗闇で読んでも眼は悪くならないとか。だから、明るすぎるのどうのというところが論点になっているのでしょうか。

でも、子どもたちが近視になっている理由は、単にパソコンやスマホ画面を見ることによる眼精疲労ではなくて、遠くを見る機会が減ったからに他ならないでしょう。黒板を見てノートに写して、それをするだけでも遠近の眼筋調整は行えます。それすら無くなって、机上の小さな画面を見るだけですべてが完結するわけで、遠くを見るとしてもせいぜい家でテレビを見ることくらい(狭い家だからそう遠くもないか)。コロナ禍でなくても外で遊ぶことは奨励されず、そもそも家でゲームしている方が楽しいのだからこれ幸いと引きこもる子どもたちの眼は、悪くなる一方に決まっています。以前ここで書いたように、慶應大学の研究によると近視を予防するバイオレットライトが窓ガラスでほとんど遮断されてしまい、直接日光を浴びないとその恩恵を受けないそうだから、これもまた最近の児童の近視化を助長しているのだろうと思います。

まあ、サバンナの原住民のように猛獣の襲撃を早めに察知しなければならない状況にはならないだろうし、今後遠くが見えなくて困るのは車の運転くらいのもの。今の若い子たちの眼が徐々に進化(退化?)して近視だらけになっても特に困らないし、車だって自動運転になれば見えなくても問題ない。遠くのきれいな景色がリアルに見て感動できなくなるのはかわいそうですが、きっとそんなものもバーチャル画像で見るようになるのでしょうか。

 

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適切な日本語訳がない

昨日書いた『スティグマ』や『アドボカシー』もそうですが、『アドヒアランス(遵守?)』『コンプライアンス』『インフォームドコンセント(説明と同意)』などの医学用語だけでなく、あらゆる分野で外来語が普通に横行しています。それ、わざわざ使わなきゃいけないの? 日本語では何が悪いの?というものも多く、そんな単語を普通に使っている若い連中をみていると異星人にしか見えません。

『アドボカシー』は直訳では”権利擁護”なのだそうですが、実は日本語に訳す適切な単語がないのだそうです。 適切な日本語訳がないものは他にもたくさんあります。『ダイバーシティ』とかもそうです。「適切な日本語訳がない」ということは、つまり日本にその概念が存在しなかったからに他なりません。その理由は大きく分けて2つあるように思います。

ひとつは、「日本人はそんな単語を使わなくとも、遠いむかしから無意識のうちにちゃんとやってきた当たり前のこと」だから。そしてもうひとつは、「封建的で父権主義(これを『パターナリズム』というらしい)の教育のもと、そんな考え方をする必要がなかった」から。前者であってほしい気がするけれど、どうも後者の色合いの方が強い気がします。「差別をしない社会を目指しましょう」という運動があること自体がそれを物語っている感じです。

社会的弱者に対して、日本にはむかしから社会全体で守るという習慣がありました。意識しなくても足の不自由な人や視力の弱い人を見たら手を貸し、お年寄りを見たら手助けす・・・それが欧米化して個人主義的概念が間違って入ってきたモノだからおかしくなってきたのではないか、とは思います。でも一方で、「あそこは部落の出身だ」「家が貧乏で汚いから一緒に遊ぶな」・・・そんな仲間はずれを強要する教育も行われてきたのが日本です。子どもたちはみんな平等に一緒に遊んでいるのに、親たちが引き裂いていく、そんな時代がありました。そんな明と暗の歴史の中で、この日本語訳できない考え方(概念)は定着するのだろうかという懸念はあります。

それが、こんな外来語を定着させて変えさせようとしているのはよく分かるのですが、こんな聞き慣れない単語を理解して自分のものにできるのはたぶん私たち以上の年齢の者たちには難しいことです。そうなると、この単語の意味を定着させることよりも、単語の意味自体を習慣として定着させねばなりません。そうでなければ、おそらくすぐに使わなくなる。そして、「ああしなさい」「こうすべきです」的シツケの儚いところは、単なるハウツーがどこかマナー指導のような感覚でココロが伴わない部分があることです。

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スティグマとアドボカシー

Medical Tribuneのweb講演会で、『糖尿病治療Update~最近の知見を含めて~』(虎の門病院の門脇孝先生)と『新型コロナウイルス状況下での糖尿病治療』(関西電力病院の清野裕先生)の講演を視聴しました。

その中で、日本糖尿病協会長をしている清野裕先生の話に出てきた『スティグマ(Stigma)』と『アドボカシー(Advocacy)』の問題はしっかり抑えておかなければならないと痛感しました。どちらも、ここ数年あちこちの学会や記事などでみかけるようになりましたが、現場の医療者ですらこの単語を見たことも聞いたこともない人が大多数なのではないでしょうか。

『スティグマ(Stigma)』:恥・不信用のしるし・不名誉な烙印~ある特定の属性に所属する人に対して否定的な価値を付与すること
『アドボカシー(Advocacy)』:権利擁護~患者の権利を守るために組織、社会、行政、立法に対して主張、代弁、提言を行うこと

単語の定義をこう書いていましたが・・・何のことかわかりますか?ここがさっぱり理解できない定義だから皆さんに広まらないのではないかと思います。糖尿病の場合は、糖尿病だというだけで生命保険に入れない、住宅ローンに加入できない、怠け者のように思われるなどがスティグマです・・・そんなレッテルを貼られて最終的に社会的地位を失われて差別が生じるのだそうです。これに加えて新型コロナの時代の糖尿病患者さんに対して、「重症化しやすいのだから外に出るな」「糖尿病患者が重症化するから医療が逼迫する」「自己管理のできない糖尿病患者にワクチンなんか優先的に接種させるな」とまで云われるようになっていると清野先生は懸念しています。スティグマはそんな社会の心ない人たちの目だけでなく、医療従事者が患者に与えるスティグマもあると云われていました。「糖尿病が悪化しているのになぜ放っていたのか」「ちゃんとやらないと命を落とすよ」などと主治医に云われて、モチベーションを落としてしまっているマジメな患者さんがいるという事実を医療者はちゃんと自覚すべき、と。清野先生が「糖尿病患者さんは糖尿病の治療をするために生きているのではありません。自分のやりたいことをするために糖尿病の治療をしているのですから」と強調していたことに強く同意します。

アドボカシーというのは、患者さんを守ってあげる視点で「患者さんが自己管理に安心して取り組み、健康で自分らしい生活を維持する権利を守るための活動に積極的に貢献する必要がある」という医療者としての意識教育が必要なのでしょう。わたしの感覚では、そんな当たり前のこと(2型糖尿病は体質の病気だということ)を医者や看護師(少なくとも昔の教育を受けた人たちではない)が分ってないことが不思議でしかありませんが。

 

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『ハウツー』

定期のコラムが発行されました。今回は三部作にしました。『ハウツー』『進化論』『自然体』・・・のつもりですが、どうなるかしら。

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『ハウツー』・・・ウィズ生活習慣病(1)

 

「『早足で歩く』これが一番。これだけ言っておけば運動指導は大丈夫だ!」
「食べるのが早すぎるよね。量も多い。時間をかけてゆっくり食べるべきだね!」

以前参加した研修会の事例検討会で、あるドクターが自信ありげにそう語るのを聞きながら、前に同僚が同じことを言っていたのを思い出しました。「運動と食事を注意すれば生活習慣病は改善する」・・・誰でも知っていることを得意げに話していますが、問題はその先・・・分かっていてもできないから、どうする?というところで皆が頭を抱えているのです。「それは保健師さんの仕事だ」と言って逃げる医者では頼りになりません。その点、保健師さんや管理栄養士さんは知識が豊富です。前出の研修会でも様々なアイデアが出されました。「デザートにアイスクリームは欠かせない」という人には「アイスキャンデーやかき氷に換えればカロリーが格段に減る」とか、「出張先でついファストフードの店に行ってしまう」なら「郷土料理の店を探すと楽しい」とか、「運動嫌いな人にはヨガを勧めてみよう」とか、「30回噛ませたら健診結果が良くなった」とか。

そんな話を聞きながら天邪鬼な私はそっと首をかしげます。アイスクリームを食べたい人は別に冷たいお菓子なら何でもいいわけではないし、面倒くさくてファストフードを選ぶ人が独りで郷土料理屋なんか入らないし、運動したくないのにヨガをするとは思えない。毎回数なんか数えていたらちっとも味わえない・・・専門家は意外に自分では実践しません。学会や研究会に行くと会場を行き来するエスカレーターやエレベーターには長蛇の列なのにその横にある階段はスカスカだったりします。他人には「運動しろ」と言いながら自分では楽な方法を探してしまう人たちのアドバイスはどこか他人事で、到底当事者の苦悩は理解できまいとこっそり同業者をディスっている私です(笑) 私は「自分ならどうする?」と考えることにしています。食べたいアイスクリームをガリガリ君に換えるよりデザートの分だけメインを減らす方が堂々と食べられるのではないか、出張先のファストフードはもうひと区画離れた場所の店舗に行って買ったら罪悪感が薄れないか・・・大したことでなくても、自分だけの達成感は得られます。

専門家の知識は普遍的ですが、それが自分に活かせるかどうかは分りません。他人が成功した方法で自分も成功する確率は決して高くありません。「必ず上手くいく方法がないならしない」という人は、きっとずっと何もしないでしょう。行動変容に王道はありません。どうぞ、自分なりに試して自分だけのレシピを見つけてください。私にもそのレシピがありますが、決して他人には教えません。どうせ、自分だけに効く魔法ですから。 

 

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「正解はいつもひとつ」ではない

むかし、ここで『カギをかけるか開けるか』(2008.5.20)という話を書きました。カギっ子のわたしは学校から帰ったら外から泥棒が入ってこない様に家中のカギをかけて回るのに、後から帰って来た4歳違いの姉は泥棒が侵入してきてもすぐに逃げられるようにわたしがかけて回った家中のカギを開けて回りました。『全く同じ事に対しても発想の仕方には真逆の考え方が存在することを子どもながらに知りました』と書きましたが、世の中にはこのようなことはたくさんあることを知っています。

「真実はいつもひとつ」というのは某アニメの主人公探偵の決め台詞ですが、本当はそうではありません。医学の世界でも、常識と思われてきたことには必ずアンチの考え方が存在することを何度かここにも書いてきました(『定説には必ず逆説がある』2008.2.21)。高血圧の治療や脂質異常の治療ですら、すべきかすべきでないかという全く逆の話に答えが出ていないのです。

自分の考え方に対して、その逆の考え方があることをいつも知っておくことは大事です。自分の考え方を否定されるようなことは少なくありません。そんな時、そのアンチの意見を聞きたくないと、それを無視するかあるいはその意見の間違いや矛盾点を見つけ出そうとします。自分に自信があればあるほど、自分の考え方以外は全部間違いだ(自分の考え方がベストだ)という思いに成りがちで、そうなると視野はどんどん狭くなるのが常です。わたしもむかしものすごく尖っていた頃、自分の考え方がすべて正しいと信じていた時期があります。「どうして、こんな当たり前のことができない?」と周りを責めていたものです。最近は変わってきました。恩師に諭されたからというのもあります(『恩師の遺言』2008.2.18)し、自分に自信がなくなってきたからというのもありますが、ふと、あの子どもの頃の姉の考え方のことを思い出したからなのではないかと思っています。「へー、そんな考え方もあるんだ。よくもまあ、そんな発想ができるなあ。スゴいな~!」と驚いて感動できる余裕、忘れていました。凝り固まった年寄りのアタマには想像だにできなかったような柔軟な発想がどんどんできていく若者たちの考え方に最近はいつも感服するばかりです。

いまさらながら、「アンチの発想って面白いな」と思うことしきりです。

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プライド

隣に住む義母がフラフラしながら愛犬の散歩をしていました。なぜなのかは知っています。先日消化器内科を定期受診した時にエコーで大腸に塊が見えたとのことで、金曜に大腸ファイバー検査を受けるのです。だから2日前から低残渣食を食べています。「もう、私は朝からうどんとか豆腐とかしか食べてないから力が出なくてフラフラよ」・・・マジメに指示通りの食事を守っているのですが、さすがにもうすぐ87歳、もう少しアバウトに守れば良いんじゃない?と思うけど、口にするのは止めておきました。

これは、彼女のプライドですね。「すごいですね、とてもきれいに準備できていますね」と施行医に感心されたい。負けず嫌いといってもいいのかもしれません。「年寄りだからしょうがない」と云われるのがとにかく一番キライ。

それがアンチエイジングの秘訣なのかも知れませんが、でもフラフラして歩かねばならないほどにやらなくてもいいのではないかしら。大腸ファイバーは大腸CTと違ってある程度の残渣は吸い取ってもらえるし、洗浄液も十分奏効するはず。転んでケガをすることの方が心配な娘婿でありました。

で、今日、無事に検査が終わりました。結果は「異常なし」、とりあえず良ございました。

 

 

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人間ドックの日

日本人間ドック学会では、正式に7月12日を『人間ドックの日』に制定したらしいです。人間ドックを最初に組織的に行ったのが、1954年(昭和29年)7月12日、国立東京第一病院(現在の国立国際医療研究センター)だったことにちなんでいるようです。

人間ドックの『ドック』が船の点検修理をするあの”ドック”に由来している(船が長い航海のあと点検・修理のためにドックに入るように、人間も定期的にドックに入る必要がある、という考えから生まれた言葉)ことは有名なのでみなさんご存じでしょう。と、こんな仕事をしているから常識だと思っているけれど、意外に知られていないのかも。特に医療関係者は知らないような気がする。だって、『ドック』なのに『ドッグ』だと思っている人、医療関係者の方が一般の人より多いのではないかしら。

学会から紹介されたページに『日本記念日協会』のHPがありました。この中にある『新しく登録された記念日』見てると、なかなか面白い。よほど怪しいヤツじゃなかったら、金(1件15万円らしい)さえ払えばここに登録できるみたいです。

ところで、この人間ドックの日には何か特別なセレモニーがあるのかしら。記念日なのだから全国の人間ドック施設はこの日を祝祭日に設定してくれませんかね~。今年は月曜日ですし。

 

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ハナミズキを見上げる

昨日の雨が花散らしの雨になり、満開だったわが家のハナミズキの花びらが一気に散りました。今日はさらに北寄りの風が強くて花吹雪状態。有給休暇をいただいたので朝から竹箒を持ち出して汗だくで掃き掃除しました。もっとも、掃いている端から風で吹き飛んでくるし上からもハラハラと新しいのが落ちてくるし・・・ちょっとだけタメ息をつきながらも、ほどほどに任務完遂しました。

わが家の庭のハナミズキはキレイな濃いピンクで、東南の角にあるので道を歩く人も見上げて見惚れるほどの自慢の木です。花が咲くと、「キレイに咲きましたねー。毎年咲くのを楽しみにしてるんですよ」と声をかけてくれる人もいます。でも、「キレイですね。でも、これから花が散り始めると毎日掃くのがたいへんだ!」と心配してくれる人も(うちの義母ですが)。

そうですね。見惚れるほどに咲き誇る花にうっとりする人とこの時点ですでにその後の憂鬱を考える人・・・世の中には二種類の人がいますね。それは花に限りません。わたしは、どちらかというと後者でした。それがあるがためにココロから楽しめないことも多々ありました。物事をポジティブとネガティブに分けるなら、明らかに後者。でも、そうすることで、必ず襲ってくる憂鬱を迎え撃つココロの準備が出来るのです。わたしはキリギリスにはなれない性格、と。でも、そんなわたしも最近はちょっと変わってきた気がします。キレイに咲いたハナミズキを毎日家の二階から撮影してインスタグラムにアップしたり、木の下に佇んでひとしきり見上げたり、楽しんでいます。その後にやってくる憂鬱は必然のことですが、決してエンドレスではない(それは秋の落ち葉もそうです)ことが分っています。今、咲いている花の総数は変わらない(どんどん増えていくわけではない)のですから。

今日も風に翻弄される花びらを箒でちりとりに納めながら、「今年もココロを癒やしてくれて、ありがとうね」と独り言を口にする余裕がでてきました。自分が、感動すべきモノをココロから感動できるようになったことに、ちょっと満足しています。

 

 

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言い訳

何かミスをしたとき、あるいは思ったほどの成果が上がらなかったとき、「実はですね・・・」と言い訳をすると、「言い訳なんかするな、みっともない!」と叱られること、よくあります。

でも、わたしは、言い訳は大事だと思っています。『言い訳』ということばに、『言い逃れ』『自己弁護』『責任転嫁』などの負のイメージがありますが、わたしは『言い訳』はイコール『自己分析』だと思っています。自分はなぜ失敗したのか、何が想定と違っていたのか、何をどうすれば良かったのか・・・その分析は、反省というより、次への修正行動の基礎になるはずで、それもさせずに、「ドンマイドンマイ、今回のことは忘れて次に頑張れば良いんだから」と慰めてくれるのは、実は無責任というもの。

「どうしてこんなに遅れたんですか?」「申し訳ありません、言い訳はしません、弁償します」「いや、言い訳してくださいよ。理由を知りたいだけなのですから」「いいえ、申し訳ありません」「いやだから、謝ってもらわなくて良いですから理由を教えてください」「申し訳ありません」「・・・もういい、そんなもん要らないから持ってさっさと帰れ!」・・・むかし、客人が来たのでお寿司のデリバリーを頼んだら時間がかかりすぎた上に注文した品が足りなかったことがあって、菓子折持って謝りに来た店の人と玄関先で一悶着あったのをふと思い出しました。きっと運んできたバイト生が道を間違えて右往左往したのだろうと推測されるのですが、それを「こっちの『言い訳』だから、お客さんには関係ないから」と頑なに黙られるのは返って信頼を失うことになりましょう。こっちが『言い訳』を要求している以上、それは『言い訳』ではありません。それこそ相手方の都合でしかないのだから。もう20年近く前のことですが、それ以降あの老舗寿司屋から出前を頼むことはなくなりました。

でも、「人間は言い訳の動物である」とか「人間は反省はするけど学習はしない動物だ」と云われます。この『言い訳』が何度も繰り返されるようでは、失敗が無意味になってしまうということを肝に銘じるようにしています。言い訳しなきゃいけないことをしでかすのはよろしくありませんが、でも、失敗したときには大いに言い訳しましょう。そして、その失敗を元に、二倍も三倍も大きい人間になりましょう!

 

 

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風袋

恒例の4ヶ月間の職員向け健康プログラムを終え、活動量計(まめ太郎)職員健康管理室に返納しました。わたしのポリシーとして、この期間は可能な限り毎日体重測定をするけれど、これが終わったら体重計には載らないことにしています。体重の数値に縛られて生活するのを続けるのが苦痛だからです。

でも、今年は何となくその後も週に2回ほどこっそり測定しています。焼酎を飲み過ぎた日の翌日など意外に減ったりするので面白くて。このとき、実は測定前に『風袋』を引く設定にします。もともと活動量計の設定がそうなっていたから。で、『風袋』として1.0kgを引くのですが・・・明らかに引き過ぎではないかと、ちょっと良心の呵責に苛まれているところです。体重計に載るとき、白衣のズボンとアンダーシャツだけになるのです。ベルトもしていませんし腕時計も外します。どう考えても裸の身体に1.0kgも加わっているようには思えません。実際、職員健診当日の朝に更衣室で測ってから健診で測ると絶対に正式のヤツの方が重い。きっとそっちが本物なのですよね。

そう思うと、実は、この風袋引きの数値にかなりの上乗せしないと正味の体重ではないことになるのです。もう、勝手に測っているだけなのだから風袋を引かなければそれでいいのではないか?とちょっと葛藤しますが、実際に見える数値は引いた方がすっきり(少ない、当たり前)するし、そもそも体組成計のときと比較するには同じ条件がいいのではないか、と言い訳しながらそそくさと最初に1.0kgの引き算をしてから載る日々であります。

でもちょっとだけ、自己嫌悪。

 

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思ったほど足が上がらない

自分の身体能力を過信している高齢者は体力が低下しやすい

 ”年齢を重ねると、「自分はまだまだ元気だ」と、自分の体力を過大に評価してしまうことがある。しかし、高齢者が外出頻度の低下などで身体活動量が低下すると、自身の身体能力を過大評価してしまう傾向があることを、東京都健康長寿医療センター研究所と東京都立大学の研究グループが明らかにした。体を積極的に動かすことを習慣にし、自身の体の状態についてよく理解しておくことが、体力の低下を防ぐために重要であることが示された。”(保健指導リソースガイド2021.3.30配信版)

『歩行中に障害物を跨ぎ越そうとするとき、もし自分の跨ぎ越し能力を過大評価していると、自身が思っていたよりも足が上がらず、障害物につまずきやすくなり、転倒につながる可能性も高くなる。』っていうの、とても良くわかる。自分が想定しているほど足は上がってないから、何もない平地でも躓いて転びそうになることが時々あります。今回の研究で自己能力評価を跨ぎ越しテストというやつで行ったところ、『外出頻度が低い高齢者ほど自分の能力を過大評価(または過小評価傾向が縮小)する傾向がある』との結論。たしかに、ちょっと動かないだけですぐに筋力やバランス能力が落ちてしまうのが高齢者の避けて通れない現実なわけで、それなのに以前動いていたときのイメージで考えるから、自分の想定と現実のギャップの大きさがトラブルを招くことは、容易に想像できます。

この記事では、そんな高齢者のために『フレイル予防アプリ:スクワット・チャレンジ全国版』とやらも紹介されていましたので、気になる方はぜひクリックしてみてください。

あれ?iphoneではできないの?

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思索の時間

今年は春の訪れが若干早い印象で、いよいよ庭の草にも伸びる勢いが増した気がします。これから1~2週間ごとの草むしりが必須の時期・・・それは同時にわたしの思索の時間の始まりでもあります。1~2時間の自分だけの時間、草たちと向き合い、会話する楽しい時間なのであります。

うちの庭には今年は妙にタンポポが多く生育していました。いつもは花壇の中が中心なのに今年は普通の雑草に紛れてたくさんのタンポポ・・・そういえば雑草の中で、いつもタンポポやスミレは特別扱いしてしまいます。他と何ら変わらない雑草なのに、ちょっと有名なブランドなもので抜く時に良心の呵責に苛まれるのであります。しかも、同じタンポポでも花壇や植木鉢の中に種を落として咲いているタンポポとその横の地面に種が落ちてしまったタンポポとでは、どうしても運命が分かれがちになる。タンポポにとっては理不尽な話であります。

もっとも、そんな理不尽な中で生き延びるために彼らは大量の種をばらまいて淘汰の波の中を生き延びて行くのだろうし、きれいな花を咲かせているのも見逃してもらえるチャンスを得るためなのかもしれない。タンポポの花が一夜にして綿帽子に変わり一気に風に乗って飛んでいく姿はとても逞しい。だから、私は躊躇することなく、自分の気に入ったタンポポは残し勝手に生育した気に入らないタンポポは有無も云わさず抜き取ってしまうことにいたしました。

理不尽で依怙贔屓(えこひいき)な対応に目くじら立てて怒るのは人間様だけです。そんな声に昔は「だから何?」と蹴散らしていたのに、現代社会では何でもかんでも取り上げて対応しようとする。『不平等』というのは、生きとし生けるものの共通の当たり前の摂理なのではないのかしら?

 

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いきがる若者

テレビのニュースを見ていたら、時短営業の飲食店から追い出されて公園で酒飲んで騒いでいる若者にインタビューしてました。

「こんなに早くに追い出されて飲むとこないんだからしょうがない。『止めろ』と云われて止めるような人間じゃないからな、オレは!」と答えていました。今の社会でも、やっぱりいきがるんだねえ、若いもんは(笑)

そもそも『いきがる』は『粋がる』であって、『粋だと思って得意になる。また、虚勢を張る』という意味。”オレはオレのやりたいようにやるんだから、文句云うなよ!”という主張なのだろうけれど、傍で見ていたら滑稽すぎるのが常。おそらく、わたしたちの年齢の人間だからそう思うのではなく、彼らと同世代の人間も同じように感じて引いていると思います。この輩の姿はちっとも粋じゃないものねぇ。でも、若い頃って、「この体制に反発する自分の姿に酔いしれる」ことがある時期です。そうやって子どもから大人に変態していくのでしょうか。おそらく、「オレはガマンしたくてもガマンできない未熟者だからしょうがないんだよ」と云った方がはるかに潔くてかっこいいと思うけど、そんなこと死んでも云いきらんわなぁ(笑)

この時期は、それがかっこ悪くても、ダサくても、粋がることは必要なのでしょう。がんばりたまえ、若者たちよ!

 

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運動と睡眠の関係

運動をすると睡眠を改善できるのはなぜ?

 ”筑波大学は、運動を行うことで、質のよい睡眠がとれ、より短時間で効率よく「睡眠要求」を満たすことができるという研究を発表した。
 睡眠時のゆっくりとした脳波である「デルタ波」をエンベロープ解析するという新しい手法で、脳波の活動を多角的に調べた。
 その結果、⽇中に活発なウォーキングなど、最⼤酸素摂取の60%程度の強度の運動を1時間⾏うことで、夜は質のよい睡眠をとれ、デルタ波が睡眠の前半に集中して⼤幅に増えるという。”(保健指導リソースガイド2021.3.30配信版)

”昼間の活動によってたまった身体と脳の疲労をとるため身体は睡眠を要求する”という『睡眠欲求』は、健康的な生活をしている人なら実感としてわかるでしょう。わたしがこの記事で興味を持ったのは、運動の種類と質の問題です。『激しい運動は睡眠の質の主観的な改善、および客観的な深い睡眠時間の増加にはつながらないものの、より安定した深い睡眠を誘導していることが明らかになった』とか『⽇中に最⼤酸素摂取の60%の強度の運動を1時間⾏うことで、夜は時間が短くても質のよい睡眠をとれ、深い睡眠の指標であるデルタ波が睡眠の前半に集中して⼤幅に増え、安定性を強められる』などの研究結果。これらは、うまく自分の生活にも活用できるかもしれません。

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マスク会食?

『まん防』と共に今年の流行語にノミネートされそうな『マスク会食』・・・これ、実際にはどういう風にするのですか? 先日TVで、ひとりで食べに来ているおじさんがマスクずらして一口食べてはまた戻す光景を見ましたけど、あんな感じを想定しているのでしょうか。たぶん行政だけでなく医療者もそれを勧めているのだから、何かもっと違うやり方なのではないか?と思うのだけれど、誰も教えてくれない。そのうち、ワイドショーか何かで具体的な作法を特集するのかしら。

だって、あの光景は明らかにおかしい。まず、モノを食べると口や唇の周りは食べたモノでベトベトのはずでそれに顎マスクしていたマスクをかぶせるなら、マスクは一口ごとにベトベトになりますよ。しかも、都度都度顎マスクするわけだから、顎の雑菌が口へ、口の周りのベトベトが顎へ・・・どう想像してもそうならざるを得ない気がしますよね。明らかに不潔ですよね。わたしたちが昼食を摂るときは、一旦ポケットにきちんと二つに畳んで仕舞っておいたマスクを、食べ終わった最後にナプキンで口を拭いてから付け直します(本当はそれでも不潔だから、食べる前に付けていたマスクは食事の前に捨てて、食後には新しいマスクを付けるべきだ、とまで昨年のマスク不足が起きる前までは云われていたはず)。一口ごとにナプキンで口を拭くわけにもいかない。でもやっぱり、食事中の顎マスクが一番不潔です。飲食店に入ってから、石鹸や消毒液で手を洗うことはあっても、店の洗面所で顔を石鹸で洗う人はほとんどおりますまい。

まあ、複数の都道府県で『マスク会食』が義務化されるのだから、わたしの考えが浅はかだったことがすぐに分かるはずだと思っています。是非、早くに何が違うのかご教示いただきたいと思います。でも、貪り食ってしまうわたしは食い方が汚いので、到底無理・・・きっと熊本で義務化されたらわたしは外では絶対に食べないでしょうね。

ところで、『マスク会食』と云うくらいだから、"会食"ではなく一人でランチ食べに行くときは一口ごとのマスク義務は解除されると思っていいのですかしら? 

 

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思いがけないこと

昨日、亡き父への恩返しのために延長の末優勝した柔道の野村選手も、あるいはこれまた延長の末に61年ぶりに春の大分県大会を制した大分舞鶴高校野球部も素晴らしいけれど、やはり何と云っても水泳の池江選手の東京オリンピック出場決定のニュースに勝るモノはないでしょう。彼女の生き様のすべてが、『感動』というよりは『感謝』・・・コロナ禍の重苦しいニュースしかない毎日に、頑張ることへのエールを彼女から私たちに送ってもらえたような気がします。

そんな4月4日はわたしの姉の誕生日です。年賀状以外全く連絡を取ることもない姉ですが、義兄のGメールに「誕生日おめでとう」の伝言を送っておいたら、夜になって電話が入りました。
「わざわざお祝いメールをありがとうございました」
「いえいえ。お変わりありませんか?」
相変わらず他人行儀な会話です。
「それがね、変わりはあったのよ」

ん?

「2月に眼が曇ってよく見えなくなったから眼科に行ったら、すぐに脳神経内科に行けと云われて、行ったら脳出血だということでそのまま1週間入院したんよ。高血圧の薬を出してもらったら少し良くなってね」

あらあら。

「眼は白内障があるから頭の方が落ち着いたら手術しましょうとか云われたけど、そっちはそんなに困ってないからどうでもいい。高血圧は大腸の手術の時に薬をもらったけどあまり飲まなかったのが悪かったんやろうね。まあこれから薬を続けないといけないのか悩んでいるけど、ただ、その神経内科の先生が、『パーキンソンの可能性がある』っていうのよ。どう思う?」

あ、ここが電話してきた目的か!

「姉ちゃん、あなた相変わらず自己管理がいい加減やけど、こんな軽い症状で済んで幸運やと思ってこれからはきちんと薬飲み続けた方が身のためやで」と心の中でつぶやく。大腸がんの治療をして今年で5年目だからやっと一つの区切りだと思ったのに・・・お互い、何でも有りの年頃やもんね。気をつけなきゃよ(まあ、それはわたし自身にも云えることですが)。そんなことを忠告しようとしたら、「あ、ゴメンね急に電話して長話して。今日はこれで切るわ。メールどうもありがとう!」と一方的に話した後、「もし、何か用事があるときは電話して!わたしメールはしないから」と云い残して切ってしまいました。相変わらず忙(せわ)しないねえ(笑) 別に話すことなんかないからメールにしたんやないかい。だって、電話したら、「どうしたん?何かあったん?」とアタフタするやないか、いつも。

とにかく、お大事に。

 

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ハナミズキ

今年も、わが家の庭にハナミズキの花が一気に咲きました。ショッキングピンクの艶やかな特徴的な花びらがとてもキレイで華やかです。

この花が咲くと、5年前のことを思い出してしまいます。あの日、いつものように夕方のワン散歩を夫婦でして、畑に咲き誇ったレンゲソウを写真に収めてから帰ってきたら庭のハナミズキも花びらが開き始めていました。「おー今から一気に広がったらキレイだろうね」と暢気に夫婦で見上げましたが、その日の夜、あの熊本地震(前震)が襲いました。その後に続く本震からの避難生活とさらに豪雨の襲来・・・生きた心地のしない日々の中で生き延びるのに精一杯だったあの頃、ふと気付いたらハナミズキの木はすっかり葉っぱだけになっていました。

わが家をここに建てたときに植えた木ですから、もうかれこれ25年。毎年この季節に咲いていたのでしょうが、実はこのときまでこの木の花をマジマジと眺めたことはありませんでした。この木が「ハナミズキ」という名前だということも忘れていました。そうです。わが家の春に圧倒的な花を咲かせるハナミズキの存在を本当に意識し始めたのは、5年前からなのです。

この花は春の訪れを表す花。春は、出会いと別れの季節。きっとこの艶やかな花を見ると人それぞれの思い出が湧いてくることでしょう。

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新しいもの

先日、新しい財布を買いました(今年の私は『八方塞がり』で新しいことをしてはいけないと云われているので妻に買ってもらいました)。新しいモノに換えて困るのは、使い勝手が完全に変わってしまうこと。今まで使っていた財布も何年か前に買い換えたときになかなか慣れなくて苦労しました。

自分が使いやすいように工夫して仕様を決めているのにそれを根本から変えなければいけないとき、「なんて使いにくいんだ!」と思ってしまいます。これは通勤カバンなどのプライベートの品でもそうだし、職場のコンピューターシステムの仕様変更などの大きな品でもそう。そして、結局「前の方が良かった」と思うわけです。よほどその前に使っていたモノが使いにくかったのでなければ、おおむねそんな感じです。それを使い始めた頃には同じ不満を漏らしていたくせに、それをすべて棚に上げて云うのです。でも、愚痴を云いながらもまた新しい工夫をするうちに慣れていく。今では、職場の新しいシステムも、毎日使うこの新しい財布も、もう長い間使い込んでいるかのようにしっくりと馴染んでしまっています。「あたらしい財布どう?」と妻に聞かれたら、迷わず「これ、なかなか良いよ」と答える今日この頃であります。

そういえば、昨年妻が買ってきてくれた玄関の靴べら。前に使っていたのと比べると大きすぎて仕舞うところがない。第一、今まで使っていたモノの行き場もない。「あなたが『靴べらがほしい』って云うから買ってきたんじゃない」「ボクは仕事先とか移動先で使えるように『携帯用のがほしい』って云ったじゃない!」などとちょっと揉めましたが、今では当たり前のように以前あったのとはまったく違う場所に鎮座しています。そして前から使っていた靴べらは職場のロッカーに落ち着いています。どっちも、ちょうどいい大きさで納まっています。良きかな良きかな。

 

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肝に銘じましょう

きっと、公務員の皆さんにとって、恒例行事は是が非でもやりたい(やるべきである)という風土なのでありましょう。大宴会は論外だとして、時短営業を要請しているときにあえて21時以降の送別会を断行する勇気たるや、大した物ですね。おそらく全国の公務員(だけでもないか)の皆さんの中には同じようなことをやらかして、今、バレやしないかと気が気でない輩がたくさんいることでしょう。たぶん、今回問題になっているのは周りにいた一般客とか店の従業員とかからの通報(チクリ)で判明したものでしょうから(というか、堂々と身分明かしながら大声で挨拶するなんて・・・「悪いことなんかしていない」という自負なのでしょうか)、”こっそり”やっている人たちはもっとたくさんいるはずですね。

それにしても、世間はかなり緩いんですね。厳しい指示を出しているお膝元があんななんですから。待て待て、うちの施設も他山の石的な気持ちで眺めているわけにはいかないのかもしれないぞ。「自分がちゃんとやっていれば皆が同じような志で頑張っているに違いない」と思ってはいけないということか。でも、うちの連中はちゃんとやっていると思うけどな。

●歓迎会送別会や花見は、普段から一緒にいる人と少人数で。
●会食は十分な感染防止対策を行った上で4人まで。深夜に及ぶ飲食をともなう会合は参加禁止。
●接待をともなう飲食店、並びに換気などの感染対策が不十分の飲食店へは立ち入り禁止。

これが、うちの職場のHPに掲げられている現時点でのプライベート活動面での注意事項です。「医療人としての自覚を持て」とのコトバも。でも、おそらくどの職場でもこの程度のスローガンは明示しているはず・・・それが有名無実だから、もう春だというのに都会の感染者が一向に減少しないのでしょうかね。

今日から職場には多くのフレッシャーズが入職しました。オリエンテーションのためにスーツを着ている若人ばかりが病院の中を闊歩しています。今の時期、外からの息吹は新鮮で嬉しい反面、気を引き締めておかないと無症候ウイルス持ってきているかもしれない・・・こんなこと考えなければならない世の中が早く落ち着きますように。

そういえば、昨年配属になったスタッフの方々、正直なところ本当の顔を知りません。プライベートやそれこそ歓迎会や親睦会の類いが一切中止なって、マスクを外した顔をみる機会が皆無。異常だけれど、でも、今はそれが当たり前なのです。おわかりでしょうか、一部の不届き者の公務員の皆様方。

 

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