適切な日本語訳がない
昨日書いた『スティグマ』や『アドボカシー』もそうですが、『アドヒアランス(遵守?)』『コンプライアンス』『インフォームドコンセント(説明と同意)』などの医学用語だけでなく、あらゆる分野で外来語が普通に横行しています。それ、わざわざ使わなきゃいけないの? 日本語では何が悪いの?というものも多く、そんな単語を普通に使っている若い連中をみていると異星人にしか見えません。
『アドボカシー』は直訳では”権利擁護”なのだそうですが、実は日本語に訳す適切な単語がないのだそうです。 適切な日本語訳がないものは他にもたくさんあります。『ダイバーシティ』とかもそうです。「適切な日本語訳がない」ということは、つまり日本にその概念が存在しなかったからに他なりません。その理由は大きく分けて2つあるように思います。
ひとつは、「日本人はそんな単語を使わなくとも、遠いむかしから無意識のうちにちゃんとやってきた当たり前のこと」だから。そしてもうひとつは、「封建的で父権主義(これを『パターナリズム』というらしい)の教育のもと、そんな考え方をする必要がなかった」から。前者であってほしい気がするけれど、どうも後者の色合いの方が強い気がします。「差別をしない社会を目指しましょう」という運動があること自体がそれを物語っている感じです。
社会的弱者に対して、日本にはむかしから社会全体で守るという習慣がありました。意識しなくても足の不自由な人や視力の弱い人を見たら手を貸し、お年寄りを見たら手助けす・・・それが欧米化して個人主義的概念が間違って入ってきたモノだからおかしくなってきたのではないか、とは思います。でも一方で、「あそこは部落の出身だ」「家が貧乏で汚いから一緒に遊ぶな」・・・そんな仲間はずれを強要する教育も行われてきたのが日本です。子どもたちはみんな平等に一緒に遊んでいるのに、親たちが引き裂いていく、そんな時代がありました。そんな明と暗の歴史の中で、この日本語訳できない考え方(概念)は定着するのだろうかという懸念はあります。
それが、こんな外来語を定着させて変えさせようとしているのはよく分かるのですが、こんな聞き慣れない単語を理解して自分のものにできるのはたぶん私たち以上の年齢の者たちには難しいことです。そうなると、この単語の意味を定着させることよりも、単語の意味自体を習慣として定着させねばなりません。そうでなければ、おそらくすぐに使わなくなる。そして、「ああしなさい」「こうすべきです」的シツケの儚いところは、単なるハウツーがどこかマナー指導のような感覚でココロが伴わない部分があることです。
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