頃、の曖昧さ
もうすぐ父の命日。2002年の日韓ワールドカップ開催の年だからちょうど20年前になります。ここにも何度か書きました。位牌には「平成14年6月16日没」と書かれていますが、わたしが受け取った死亡診断書には「死亡年月日:平成14年6月16日頃」と書かれていました。父は死後1週間くらい経ってから発見されたからです。食卓にあったスーパーの総菜の製造日が6月16日だったから、推定日として選ばれた日。「その日は夕方に散歩していた」と近所の人が云っていたからたぶんこの日は命日ではありません。でも、いつの間にか「頃」が外され、いつの間にかあたかも6月16日に看取った錯覚にとらわれてしまっています。母は病院で看取られましたから確実に5月18日なのですが、父の命日はそんないわく付きの曖昧な日なのです。でももはや真実とは何の関係もなく父の命日は6月16日に確定されています。これがデジタル社会の宿命です。曖昧は許さないのです。
毎年、職員健診の度に書かされる既往歴も、病気や手術をした事実は覚えていてもそれが何年(あるいは満何歳の時)かなんかいちいち覚えていません。禁煙を開始した年(年令)とかも。「よく覚えていない」と云うと「そんな大事なことをどうして忘れられるのですか!」とか叱られる。若い看護師さんにはわからないかもしれないけれど、記憶なんてそんなものなのです。それを覚えていなくても何も困らないのです。「かれこれ5、6年前かな」とか思っていたことがもう10年以上前のことだったりして驚くことは日常茶飯事であります。2011年の東日本大震災とか2016年の熊本地震とか、あるいは2008年にわたしの贔屓のサッカーチームが優勝したとかそんなことは覚えているけれど、両親の命日が何年だったかなんて実はよく覚えていません。妻が甲状腺がんの手術を受けた年・・・わたしたちの結婚30周年目の年だったからなんとか覚えているけれど、妻の記憶はそれより1年後でした(笑)だから、わたしのスマホに残っている入院した日のベッド上のパジャマ姿の写真を見せてやりました。
若い人にはこの「頃」の曖昧さが許せないかもしれないけれど、せめて日々進化しているAI様はこの「頃」を受け入れられるようになることを切に願っております。
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