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漢字変換

最近は、以前にも増して公の場や公文書でも誤字が多い。特に漢字変換。テレビニュースとかで、「え、ここでその漢字?」とか思っていると、おわび・訂正が入ってくる。「ということは、それがない場合はあれで正解だと云うことなのか?ほんとに?」と云うパターンも本当に多くなった気がします。

いや、わたしもこんな日記やブログを毎日書いていると、以前より遙かに誤字脱字が多くなってしまって、後日読み返してからこっそり書き直すことがあります。最近はだれも指摘してくれない(間違ったのだろうと慮ってのことか、そもそも読者が減っただけのことかは定かでないけれど)。まあ、こんなことになっている悪の根源は、手書きでなくなったせい。というか、パソコンやスマホでの書き込みになって前後関係から判断された漢字変換が勝手に成されるから、それをアタマの中で検証する作業をしなくなってきたからなのではないかと思います。昔と違って、コンピューターの辞書の学習機能はかなり優秀になりましたから。でも、最初に変換された漢字候補が正しいとは限りません。というか半分方は間違っている漢字変換が候補の最初に来ている気がしています。

以前は、「あれ?このときはどの漢字を使うんだったっけ?」と悩んだら、辞書を取りに行くことはさすがにないけれど、せめてその単語をググって凡例などを確認していました。でも最近は面倒くさくなって、なんとなくニュアンス的にこれでいいんじゃないの?と思ったらそのまま採用してしまいます。それが本当に正しいのか間違っているのか結局わからないけれど、おそらく次からも同じシチュエーションならわたしもパソコンも同じ漢字を選ぶことになって(それが「学習機能」)既成事実としてインプットされるのでしょう。本当は違うんじゃないの?と思うことも少なくないわけです。「つける」とか「はく」とかちゃんと使い分けられている自信は実はあまりありません。「エアコンをつける」は「点ける」か「付ける」か、「ズボンをはく」は「穿く」か「履く」かとか。単語じゃなくてセンテンスで入れて変換されるのだからこれが正解なんじゃないの?とか思ってしまいます。それは、パソコンの辞書機能や学習機能を信用している、というよりも「面倒くさい」から。「ここで使い方を間違ってもたぶん意味は相手に通じるだろう」からという言い訳でもあります。

さすがに最近はわたしも、友人の文章の誤字を指摘することはしなくなりました。”野暮なこと”だから。でも、文頭で書いたように、それをきっかけにして相手が間違った使い方を正解だと思って使い続けるだろうことを看過してよろしいものなのだろうか、とそのことだけが気になっている昨今であります。

 

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