日記・コラム・つぶやき

息を吸ってください。

外来の診察ではなく、住民健診でもなく、人間ドックの診察。

聴診器を当てて「息を吸ってください。吐いてください。息を止めてください」と云いながら呼吸音や心音を聴き取ります。

この時に、「息を吸ってください、吐いてください」というところを、「息を吸って」「吐いて」「止めて」と命令口調になることが時々あります。だって、まどろっこしいし、話していると音が十分聞こえないので自分の発する言葉は最低限にしたいから。

でも、その都度、気になるんです。なんかこの命令口調は上から目線の極みでしょ。病気で病院を受診しているわけでもないし、わざわざ高い金払って来てるお客さんにそんな偉そうな態度を取っても良いモノだろうか?と。そんなことを思うと、せめて何回に一回か(特に最後)は、「~してください」を盛り込むように心がけているわたしです。

謙虚でしょ。どっかの総理大臣や某大臣みたいに、何を云っても上から目線のしゃべり方になっても気にしていない(というか気付いてもいない)人は、何云ってるかすら分からないだろうなあ。

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引き水

やらなきゃなと思うことは今もたくさん山積みなのに、相変わらず動けないでいます。毎日同じ書類を持って帰ってそのまま持って出勤する。30年もの間ずっと同じことを繰り返して来たのだけれど、おそらく最近の方がひどい。あまり以前ほど義務感に駆られていないからかもしれない。どこか、エキストラの仕事人生だからと思っているところがある。

結局、最初の第一歩が踏み出せない(とっかかれない)からいかんのだけれど。で、一旦終了宣言をしたこのブログだけれど、最近ヒマに任せて時々こうやって書いてみたりなんかする。毎日の義務じゃないのでとても楽。で、先日ちょこと気になっていたことをiPadにしたためていたら、なんかそれが引き水になって他の仕事も一気にできたりしました。

わたしの愛犬セイラは気分が乗らないと1日全くフードを食わなかったりするのだけれど、彼女になんかのキッカケを与えると一気に完食する。あれと同じかな。

だったらまたブログを始めたらいいんじゃない?という人もおりましょうが、そうはいかない。そんなことしてたら、またそればかり考えて毎日文章に追われる日々になってしまって、かえって他の仕事どころじゃなくなってしまうことぐらい、百も承知さ(笑)

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番外:還暦祝いの挨拶(7/7)

(つづき)

わたしの考える予防医療はもちろん病気の早期発見ではありませんが、病気にならないように努力するのが予防医療だとも思いません。病気なんかに右往左往しないですむ生き方をしてもらいたい。病気と共存してもいいから、毎日の基本的な生活、特に食べることと動くことと寝ることが、努力しなくても一番の楽しみのまま一生を終えられるように導くのが予防医療だと思っています。

だから、保健師さんにも不満があります。みなさん、健診結果表を眺めるときに、良くなったところではなくて悪い所ばかり探しています。良くなっていても判定が同じ区分ならまだ不十分だと云い、もっと努力が必要だと云い始めます。皆さんは若いから分からないかもしれませんが、私たちの世代になると「ちゃんとがんばれば必ず正常値になる」ということはありません。生活を変えること自体がとても大変なことです。受診者の皆さんは口では「何もしていない」と云いながら、必ずこっそり努力している。だから結果を密かに期待しているんです。「何も変わってない」と落胆する受診者に「いや、あなたが努力している結果がここに出ていますよ」と、良くなったところを探し出してしてあげてほしい。「今はまだ変わってないけれど、このままやっていれば今から結果が出てきます」とか「こないだ受診した人は、こんなことを足してみたらうまくいったと云ってましたよ」とか、そんな経験値から繰り出すアドバイスこそが保健師さんの特権だと思うのですが・・・。

ま、いいです。そんな自分の考え方を組織に押しつけたいとは思いません。「そんなことお前の自己満足なだけだろ」「それが良い成果を導き出すという証明はあるのか?」などという人たちと議論をしたいとも思いません。ただ、私の求める予防医療がそうである以上、私は私に関わった人たちにだけには、これからもそんな寄り添い方を続けていきます。そんな偏屈爺があと5年間、居座ることをご了承ください。

本当に今日は、こんな場を設けていただいて、ありがとうございました。 (完)

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番外:還暦祝いの挨拶(6/7)

(つづき)

最後に、あと5年間(クビにならずに元気でいたとき限定ですが)を働かせてもらう上で、どうしても云っておきたいことがあります。

この17年間、予防医療の考え方もここの施設の中も大きく様変わりしましたが、ただとても残念なこと(というか不本意なこと)があります。ここの組織への不満というよりも、今の予防医療界全体に対する不満です。それは、皆さんが、「受診者さんが病気になるのを待っている」ということです。これは私の求めている予防医療とは全く違います。ご存じのように、私は判定5(要精密検査)とか判定6(要治療)とかにまったく興味がありません。「精検受診率」にも興味がありません。しなければいけないからやっているだけです。なぜ紹介状が出るかを説明したら、もう後は本人の人生なのだから、好きにしたらいいと思います。大の大人なんだから、自分で考えろ!と。判定3(要経過観察)や判定4(要再検)も同じことで、要するに「あなたは病気ですよ」と云っている。「さっさと治療を受けなさい」ということです。血圧140/90なんて、今すぐ治療しろという値です。こんなものを予備群だとか云っている方がナンセンスです。でもちょっと面倒なのは、このレベルではくすりをもらえない。くすりをもらえないくらい軽いのではなく、くすりをもらえないのにこの時期に一気に動脈硬化の進展が加速度を増すから、自分の力で努力しないといけない。一番大変な時期なのだということは教えないといけません。そんなことをしてくれるいい先生を紹介する必要はあります。でも、それは私の仕事ではありません。

私がいつも大事にしているのは、判定1(異常なし)や判定2(軽度異常)です。特に判定1は「正常」と判定しておきながら、ちっとも正常でない人がたくさんいる。血糖なんて、たぶん数年のうちに境界型になって10年もしないうちに絶対に糖尿病になる、と分かっている人が「正常」の判定の中にいる。こんな人たちこそが予防医療の最大の対象者。だけど、「正常」だから・・・もっと悪くなってから相手してあげるよ、と皆さんは云っている。それがもどかしくてたまりません。

もちろん、この時期に何かを始めてもどうせ糖尿病になりますし、最終的にはくすりがいるかもしれません。「それなら、糖尿病になってから食事療法をするのと同じじゃないか」という人がいますが、全然違うのです。今、自分の体質を知って、丁寧に好きなものを美味しく食べることを習慣づければ、食べることが「楽しいこと」のままになるし、「糖尿病」の診断が付けられてもそれはただの通過点に過ぎないことになる。食事が”制限食”ではなくなるんです。一生つきあうことになる病気のために大好きな食事を犠牲にしない生き方ができるんです。 (つづく)

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番外:還暦祝いの挨拶(5/7)

(つづき)

そんなわけで、とりあえず健診センターに異動して頃合いを見て地方の病院に就職するのがいいかなと目論んだのですが、なんやかやとありまして、結局そこから17年間、しがらみの中で働くことになってしまいました。この間に、父親の急死や家庭内別居やうつ病に苛まれる時期を経験することになりました。

人生初めての”うつ”はかなり辛かった記憶があります。1、2時間しか眠れない日が1、2ヶ月続きました。円形脱毛症になり噴門部に大きな胃潰瘍ができ、いろいろな人の言葉がリフレインしてきて、「自分はこの組織に必要な人間なのだろうか?」と悩みながら、悶々として眠れないまま朝を迎える日々。この職場を辞めようと何度も思いました。でもこのとき、わたしの心の中に大きな波が襲ってきたのです。「自分は、何のために医者になった?」という初心の確認。組織がどうだとか、自分が組織にどう見られているとか、誰が自分を誤解しているとか、そんなことはどうでもいいのじゃないか。自分が医者になった理由・・・目の前にいる患者さんに寄り添って、良い人生になれるように手助けをしたい、という強く純粋な想い。それをいつの間にか忘れてしまっていなかったか。今の自分は、自分自身をその原点に立ち戻らせるべき時だと神様が教えてくれているのではないのか・・・そんな想いが一気に押し寄せてきて、気付いたら辺りに立ちこめた霧がウソのように晴れていました。

私の医者としての転機。医学部を卒業して地元に帰ったこと、大学を辞めて今の病院に就職したこと、最も信頼していたボスが志半ばにして逝かれたこと、予防医療の世界に移ったこと、そして、うつ病になったこと・・・幸いなことに、どれも私を前に前にと押し出してくれることばかりでした。今思えば、すべてが必然。優秀な科学者になることもなく、何か大きな功績を残すこともなく、誰かに自慢できる技術もないけれど、それでもここまで大きな力で導かれた結果のような気がしています。 (つづく)

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番外:還暦祝いの挨拶(4/7)

(つづき)

東京の病院で内地留学をした後、熊本に帰ってきて数年後に、病院が今の地に移転しましたが、その直後にボスが脳腫瘍になりました。入院して3日目、ボスは闘病を始める前にひとりひとりを病室に呼び出して想いを託しました。その時私がボスに云われたのは、「相手に逃げ道を作ってやってほしい」ということでした。キミは何もかもきちんとやることができるし、キミの云うことはいつも正論だから反論のしようがない。でも、周りの人たちは皆がキミのようにきちんとできるとは限らない。むしろできない人の方が多い。その時、できない人は反論ができないから逃げ道を失ってしまうのだ。キミのやっていることは全て正解で正義だけれど、これから上の立場になって部下を持つようになると、それでは反感をもたれたり煙たがられたりするようになる。それが心配だ。だから、いつもそっと逃げ道を作ってあげる努力をしてほしい。キミにはできるはずだ」・・・それまで、尖がりまくっていた私は、ミスをした担当者を呼び出して大声で怒鳴ったり、カテ室でカテを投げ捨てたり、上司でも約束を守らなかったら「バカにしているのか」と叫んだりしていました。それが少しずつ変わってきたのは、そんなボスとの約束があったからです。最初は不本意でしたが、やってみたら目の前の世界がバーッと広がっていくのが分かりました。これは私の人生の大きなターニングポイントになりました。

そんな私に次の転機が訪れたのは、何度目かの地方の病院への単身赴任中でした。平成12年冬。亡くなったボスの後を引き継いだ部長からの電話が、アパートの部屋でくつろいでいたときにかかってきました。「健診センターに循環器の枠が1つできそうなのだけれど、キミ行く?」と。その頃、病気になるもっと前から動脈硬化を予防することが大事だということに私が興味をもっていたことをどこかで聞きつけたのでしょう。私は、予防医療の世界への興味とは別に、うちで先進的治療を受けた人がおそるおそるの人生を送っているのを見守りながら、そんな患者さんにもっと人間らしい生活を送ってもらうリハビリの仕事を地方の病院でしてみたいという想いも膨らんでいました。どっちにしようかな、と悩んでいた時にかかってきた電話だったのです。「わかりました。考えておきます」と答えたら、彼が云うのです。「あした返事をしないといけないから、今決めて!」  (つづく)

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番外:還暦祝いの挨拶(3/7)

(つづき)

半年後、研修を終えて地元に帰る前日、当時のボスにご自宅に招いていただいて一泊しました。「循環器はとてもダイナミックでドラマティックな世界だったろ? 心臓が止まって真っ黒なカラダになって担ぎ込まれた患者さんが、元気に笑いながら歩いて退院していくんだよ。しかも心臓には癌がないから一生の付き合いになる。患者さんが亡くなるまでずっと寄り添ってあげられるんだ」「どうだい、あと1年、うちで働いてみないか?」静かに夢を語っていたボスが、急にこっちを見つめてそう云いました。彼も精神科医出身です。研修医時代に患者さんとキャッチボールをしながら、「オレの人生これでいいのかな?」と自問自答した挙句に、突然思い立って東京女子医大の循環器内科の門を叩いた人です。

その旨をそのまま大学に帰って医局長や教授に話しましたが、OKは出ませんでした。当時は研修の2年が過ぎたら『お礼奉公』と称する医局の関連病院での1年間以上の勤務が習わしでしたが、今の病院を「関連病院にするつもりはない」と云われました。私だけやりたいところで1年を過ごすという前例を作るのは、今後の研修医に示しがつかないから、もし行くのなら大学を止めて行ってくれ、と云われました。だから、私は大学を辞めて今の病院に就職しました。当時から私は、どっちにするか悩んだ時は後から悩み始めた道を選択することにしていたからです。きっとそれの方が後になって後悔しないという考えでした。  (つづく)

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番外:還暦祝いの挨拶(2/7)

(つづき)

私が医学部を受ける決心をしたのは、というか私が医者になろうと思った理由は、精神科医になりたかったからです。私の母方の親戚には統合失調症のいとこや神経症で日本中を流浪した叔父などがいます。彼らが社会のいろいろな人との関わり合いの中で傷つき疲弊する姿を見ながら、彼らと社会の橋渡し役になりたいと思ったからです。

でも、医学部に入ったら、精神科は医学界から仲間はずれにされていて、精神科の先生方が「精神科は科学だ」ということを示そうと躍起になっていた時代でした。教授が「精神分裂病(=統合失調症)は分子レベルで解明できる時代が来た」と興奮した顔で講義しているのを眺めながら、「ここは自分の求めている世界と違うな」と思った次第。あの時そのまま初心を貫いて精神科の門を叩いていたら、今では超売れっ子精神科医になっていたかもしれません(笑)

ちょうど私が医学部に入学した年に私の生まれ故郷にも医大が新設され、私が卒業する年に医大の一期生が卒業しました。地元に帰るつもりでしたから大学卒業後にその大学の研修医を申し込み、入局しました。精神科医を諦めた私は、一旦は神経内科医を目指そうと思いましたが、研修していると神経内科の病気は画期的な治療法がなく、診断がついたところですべてが終了する感じだったのでココロが付いていけず、次に呼吸器内科医になろうと思いました。その頃、「内科医になるなら循環器救急ができないといかん! 第一戦病院でそれを習得したい!」と同僚が云い出しまして、彼が医局長に働きかけてそれが実現しました。その病院が、今働いているこの病院です。もう三十数年前のお話。で、私がその研修医第一号なのですが、私のくじの順番は3番目だったので本当は研修を受ける権利がなかったのです。いろんなご縁と運がありまして半年間の研修をさせていただくことになりました。 あの時、神様がイタズラしなければ、私はどう間違っても今ここにはおりませんし循環器内科医にもなっていません。もちろん、今の妻とも結婚しておりません。 (つづく)

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番外:還暦祝いの挨拶(1/7)

先日の職場の還暦祝いの会で、もっとしっかりと話そうと思ったのに、想像しない所で感極まったりしてグダグダだったので、話したかったことをここにしたためてみました。番外編と云うことで・・・。

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本日は、お忙しい時期にわたしの還暦祝いのために多数ご参集いただきまして、ありがとうございました。

私はこれまであまり自分のことは話さないできました。10年半毎日書いたブログの中ではカミングアウトしたことは何度もありますが、あまりこういう場で話すことはいたしませんでした。あまり意味のあることだとは思えないからです。でも今日は節目の日ですので、少々長く話させていただきます。本当は定年退職したときに、と思っていたのですが、あと5年も生きて居るか分かりませんので、本日話すことにいたしました。

満60歳の節目を迎えるにあたって、実はあまり大した感動は湧いてきておりません。先に節目を迎えられた先生方がおっしゃっていたような沈むような気分になることもありません。おそらく、その感情は55歳頃にすでに通り過ぎてしまっています。2度の流産を経て、私ども夫婦は残念ながら子どもを授かれませんでした。妻は一人っ子、私も先日大腸がんの手術を受けた姉が一人いるだけです。ですからこれからがとても不安です。事故か大震災にでも見舞われない限り必ずどちらか一方が残されることになります。私たち夫婦はどっちも社交的でないし自分から積極的に自分を晒す性格ではないため、残った後、独居老人の行く末としてどうやって終活したものかと悩みました。それが55歳頃。最近は知人や友人たちが還暦を迎えて定年退職し、これからの生活や年金のことや保険のことや細々と算段している話を聞くにつけ、「うちは大丈夫なの?」と妻に云われ、何も考えていない自分におののくのでありますが、なんかそういう時期も通り過ぎ、ちょっと”ケセラセラ”な気分です。とりあえずクビにさえならなければあと5年は先延ばしできる悩みだからです。  (つづく)

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お礼

本日、晴れて満60歳の誕生日を迎えることができました。

先日、お書きした通り、今日をもってこのブログ『やせればいいってもんじゃない! ~屁理屈医師の元気人生応援ブログ』は連載を終わりにさせていただきます。10年と4ヶ月の間、ほとんど毎日続けてこられた自分を褒めてあげながら、長らくお付き合いいただいた読者の皆さまにもお礼を申し上げます。さすがに第1回目からの読者の方はほとんどおられないでしょうが、まあこんなウソともホントとも分からぬ怪しい屁理屈にお付き合いいただいて感謝、そのご縁にも感謝でございます。

もともと、連載コラムのネタ帳として発したブログですので、今後もメモ程度の覚え書きやコラム発行時の転載くらいはするかもしれませんが、このまま何も更新されないかもしれません。閉じることはありません(やり方を知りませんから)ので、時々覗いてみていただけると幸いです。

ホントに、長い間、ありがとうございました。

なお、同時進行で続けている日記帳代わりのブログ『なかなか悟りをひらけません!』はそのまま続けます。日記ですから医者とは全然関係ない徒然ですけど・・・とりあえず生存の証として(笑)。

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