日記・コラム・つぶやき

羽根休め

身近に昨年の地震以来いまだに体調が戻れず日常生活にも支障をきたしている人がいます。熊本のヒトのトラウマは大なり小なり消えることなく潜んでいます(我が家のワンの大きな音に対するうろたえ方を見る限り、それは人間だけでもない様子)が、それが不安神経症として低空飛行のまま回復できないことへの焦りで潰されそうになっています。

でも、それは無理のないこと。突然予期しない地割れがして穴の中に転げ落ちた。真っ暗闇の中を泥まみれになりながらやっとの思いで這い上がってきたところ。穴から這い上がったから、さあこれで昔のように飛び立てるぞと思ったら大間違いです。深い穴から必死の思いで這い上がるのに費やした体力は並大抵のものではないし、油断するとまた穴の底から吸い込まれそうになるのを耐えつづけなければなりません。消耗した体力を蓄え戻して羽を整えるためには、まだまだ多くの時間が必要です。

「まだ薬を飲まないとまともに眠れない」と悩むなかれ。
「薬を飲めば眠れるようになるまで回復した」と思うべし。

側の人間は、禅問答のように簡単にいうけれど、そう思えるように変化するだけでもそんなたやすいものではありません。そう実感します。でも、一進一退しながらも一年前より確実に前に進んでいることを、ずっと見守っているわたしにはちゃんと見えています。飛び上がる準備段階に移るまでには、もう少し羽根休めする時間が要りますよ。

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コトバの使い分け

「先生 、おはようございます。今日は大変お世話になりました。どうもありがとうございました」などと深々と頭を下げたかと思えば、後ろを向いて「おい、〇〇くん、これを急いで片付けてくれ。こないだ指示しといた書類はできとるんか?」と部下を呼びつける。「おい、そこの坊主、これ食ってもいいぞ」と弁当残りを子どもに投げ捨てたりする。

ちょっと例が極端だけど、相手によってコトバ遣いを完全に変える人がいます。わたしはこれができません。家族や旧友以外では、よほど親しみを込めたい時でない限り、自分が上司だからとか、年齢が上だからとか、そんな理由で赤の他人にタメ語を使うことができないのです。小学生にも丁寧語を使って友人に笑われたこともありますが、相手によっていろいろ使い分けする意味もないし、上から目線で話しかけるほど自分は優れた人間だとも思わないし、そもそも自分の地位や年齢は相手には何の意味もないし、などと頭の中で考えてしまうのかもしれません。

だから、それを見事に使い分けることできる人を見ると、「ある意味すごいな!」と思います。まあ、別に憧れはしませんけれど、いつからそんな使い分けができるようになったのかちょっと興味はあります。彼らは、たぶん、常日頃誰に対してもタメ語を使っていて、仕事の時だけ外国語を使うときのように別のモードになるのでしょうかな。

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枯れ尾花

胸部レントゲン検査の読影をしていると、そこに実体がないのに何かがあるような気がしてならない時があります。「これは、異常陰影?」と思って所見を指摘するのですが、ちょっと間を開けてもう一度見直してみると、さっきあれだけ見えていた陰影が見えなくなる。「あれ、ただの骨か!」・・・こんな思い込みによる勘違いはよくあることで、見落とすよりは良いんじゃないかといわれるのですが、なんか腑に落ちない。どうして自分にだけ見えたのか・・・。

一方で、自分には何もないように見えたのに、二次読影の他の先生が読んだ所見に「異常あり」と書いてあったので見比べてみると、確かにそこには明確なカゲがある。カゲがあると分かったら、その後は何度見返してもそこには明らかなカゲが圧倒的に存在する。どうしてこんな明らかな異常が自分には見えなかったのだろう?と思うと凹んでしまう。

”幽霊の正体見たり枯れ尾花”

だから、人間ドックの画像読影は二重読影(複数の医者が別々に読影して一致するか確認する)が基本。分かっているけど、まだまだ未熟者な自分に喝!

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アプリとパターン認識

スマホの普及により、健康管理のためのアプリケーションもたくさん開発されています。自分の日々の生活で食べているもの、感じていること、活動量、起床時間、睡眠時間など、目的によって違いこそあれ、ボタンを押していくだけで診断をしてくれて各々の診断に従った生活のアドバイスをしてくれます。この手のプログラムがちゃんと普及できるかどうかのポイントは、入力が簡単であることとアドバイスが適切であることだと思います。

わたしたちの施設でも大手メーカーの協力を得て活動量のアプリの使用を始めましたが、あれはちょっと扱い方が面倒なのでうまく普及できるかどうかは疑問です。ただ、そういう世界に関わってみて感じることは、結局診断もアドバイスもすべてが単なるパターン認識に過ぎない、と割り切られているのだということです。この条件とこの項目が合わされば診断はこれである可能性が一番高く、こういう生活パターンの人にはこういうアドバイスをしておけば良い。10年以上前に「こんなもの、単なるパターンですよ」とゲスに笑っていた理系男子のイヤな顔をふと思い出しました。

こういうことは、単純に割り切ることが肝要だということはよくわかっています。大事なことは診断よりもその後の実行できる細かい個別のアドバイスだけれど、そこに人は割けない。だから出来るだけ機械が答えてくれて人間が介在しないで良いようにしないと採算が合わない、ということも理解しています。わたしのように、「人間はパターン認識だけでは分類できない行動を取る。例外があるからこそ個性なのだ」と思っている人種には絶対に携われない世界だということも自負します。

学校教師をしていた父が生徒たちを数種類にパターン分けして単純にパターンごとの指導法をしながら「教育なんて簡単だ」と云い切っていた横で、子どもたちの各人の個性に悩み「どうやったらこの子の性格を活かせるかなあ」と毎晩頭を抱えながらいつに間にかうたた寝をしていたこれも学校教師の母の姿を思い浮かべ、結局父の生き方が勝ち組なのだろうかなあと思う今日このごろです。もっとも、母以上に不器用に育った自分、全然キライではありませんし、これからもそんな自分の想いを大切にして行きたいものだと思っております。

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「切り捨てる」ということ

白内障の手術を受けた義母は、洋裁を生業としています。手元で繊細な作業をするためにはメガネが必要でした。ところが、術後とてもよく見えるようになったので、眼鏡なしでもきちんと仕事ができるそうです。実は、本人は覚えていないようですが、レンズを合わせるときに、近くに焦点を合わせてもらったのです。運転をしたり映画を見たりすることがないお義母さんは日常生活でほとんど遠くを見る必要がないから、これで問題はない。その代わり、街で遠くから会釈する人がいても、誰だかわからない。わからないけどとりあえず会釈を返している、と笑いながら話していました。ここまで割り切っているなら問題はなさそうです。

でも、遠くも近くもどちらもそれなりに見えるようにしたいという想いでこしらえたわたしのコンタクトレンズは、結局どっちつかずで、どっちも見づらいし、高い金出して作った遠近両用メガネは、もっと使いづらい。止むを得ずコンタクトレンズしながら老眼鏡をかけることで仕事の書類の小さな文字は解決するけれど、そんな思いをしてまで目を使わなくてもいいやと思うので、最近本を読むことが極端に減りました。夜のサッカー場での生観戦なども微妙にアバウトにしか見えていませんし。

人生というものは、どっちかを切り捨てた方がスッキリすることが意外に多い気がします。そんなことはわかっているのだけれど、どっちを切り捨てる?という選択は、なにか意外と大変なことなのです。切り捨てないと二進も三進も行かないことは歳とともに増えてくるのだけれど、歳とともに切り捨てる勇気が無くなっていくもの。「もったいない」ではないの、「勇気」なの。

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階段の使い方

先週末は大阪で学会でした。まあ、関西はエスカレーターの右側に並び、関東は左側に並ぶという文化の違いにはすっかり慣れて、駅でもデパートでも違和感なく周りの皆さんの流れに乗れるアラカン親父。最近は「エスカレーターで歩くべきでない!」が話題になっているからか、大阪駅も新大阪駅も前より歩く輩が減った気はしました。もっとも、ゴロゴロ転がしていた割には駅であまりエスカレーターに恵まれず、階段ばかり使わされた感はありますが。

で、学会場。関東で総会がある時は大部分が左側並びなのでほとんど気にならないのだけれど、関西で全国学会があると関西の人は迷うことなく右側に立ちますよね。今回の会場だったグランキューブ大阪は12階までフルに使うので移動が多く、それでも箱がキライなわたしはほとんどがエスカレーターで行ったり来たり(階段使いたかったけど非常時以外は使わせないぞ感満載だったので断念)。自分の前に乗っている連中が右に立つか左に立つかでどこから来た連中なのか推測して遊んでいました。

そんなわたしは、1日目は左からの右側修正。2日目は午前中右側で午後左(前がみんな左だったから)、たまに真ん中にしてみたけれど、やっぱり手すりを握ってないと不安だから最後は左に落ち着きました。

こういうのも、意外に頭の体操になるものよ(笑)

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独りよがりの正義

うちの職場では、当番の事務員さんが朝一番に診察室のパソコンを起動して回ってくれます。定刻にドクターがすぐに仕事を始められるように、です。でも診察室によって若干仕様が違っていて、特にわたしの部屋のパソコンの立ち上げルールはちと複雑です。パソコンが二台あって、一方は電子カルテと心電図判読用システムが、もう片方のパソコンには人間ドック業務用のシステムが入っていて、その各々で準備が違うのです。

最近はほとんどみなさん間違わずにできていますが、一方しか立ち上げてなかったり、立ち上げ方が逆だったりして、一からやり直さなければならないことが、1、2週間に一回くらいあります。

「あらあら、今日は新人さんが担当したのかな」とか独り言を云いながら再起動します。昔は、「どこがどう間違っていたから気をつけてね」というメモを残したりしましたが、今はそんなことはしません。本来の自分の仕事でもないことをしてくれているのだし、たまに担当になって特殊な起動パターンを覚えるのは大変だもんね、と思うと申し訳なくて・・・。

「何だよ、こんなこともちゃんとやれないのか!」と目くじら立てて怒鳴る、某会社の社長さんや管理者のご歴々がおられますが、エネルギーがあるなあと感心します。わたしのような下っ端の中間管理職のオヤジには経験がないからよくわかりませんが、あれは、部下を支配下に置いておけていることへの優越感を味わいたいためのパフォーマンスなのかしら。でも、たしかに若いころのわたしも声を震わせて叱っていました。「この程度のことができずにどうするんだ。こんなことすらできずに、まともなことができるはずがないじゃないか!」と思っていたし、だから自分は憎まれ役になって、教育のために𠮟ってやっているんだ、という自負がありました。そんな自分の信じていた『正義』が、独りよがりだったのではないかという想いに至るようになった今日このごろです。

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続・思い出の整理

バッテリー消耗が速くなったのを機に、スマホを新しいのに更新しました。そのデータのバックアップの作業をするにあたり、撮りっぱなしだった写真を整理しました。今のiPhoneを使い始めた2013年3月から約6500枚の写真。一枚一枚確認しながら削除して、結局1000枚ちょっとまで削りました。

削除したのはほとんどが酒の写真や料理の写真。「あってもなくてもいいな」と思って削除。あちこちのお店に行ったときのお店の看板も削除。結局、日々ことあるごとに玄関先で写した自撮り写真とワンたちの写真(2014年に亡くなったワンの写真もありました)、そして去年の出雲大社旅行と今年の姫島・国東旅行の写真だけになりました。

すっきりはしたのだけれど、この残した写真を眺めながら、「これも、あってもなくてもいいな」と独りごと・・・この写真を残しておいたところで、見返す可能性は極めて低いと思うのです。パソコンにはもっと前からのモノもすべてバックアップしてありますが、これもおそらく起こしてみる可能性はほとんどない。今や、紙媒体のアルバムも引っ張り出すことはない。子どもや孫でもいれば将来見返してくれることもあるかもしれないけれど、遺品として残しておいても意味はなく、夫婦でスマホを覗き込みながら思い出に浸る光景など想像しようとしても微塵も浮かばない。

世の中が便利になって、何でも残すことができるようになったから残してみてはいるけれど、そろそろ身辺整理していかねばと思う今日この頃、ふと家の中を眺めていると、何もかもが要らないものに見えてきます。過去の記録など何も意味がない。今必要としているモノ以外、全部捨て去っても何も困らない・・・そんな気分であります。

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雨音

夕暮れの湖畔の道を散歩する。猛暑の夏が過ぎて、陽が落ちるとしっかり秋らしい。

歩いていたら雨がパラパラと降ってきた。疲れていたからゆっくり歩こうと思っていたけれど、傘を持っていないので、かえって早足になる。まあ大した雨ではないので、そう焦ってはいないのだけれど、ちょっとだけ走ってみたりなんかする。そうしていると、公園の中に木立ちが密集する場所があったので、雨を避けるためにちょっと木陰に入ってみた。そしたら、雨音が激しく響き始めた。雨脚が強くなったのではないようだ。広い公園の小径を歩いている間には聞こえなかった雨音が、木々の葉に当たって響いて聞こえるのだ。この雨は、意外に強いのだということを、その時初めて知った。

こういうことって、実は世間にはたくさんある。自分は大したことではないと思っていたのに実は世間では大騒動になっていたり、あるいは逆に、実は大したことではないのに世間が騒ぐので一緒になってココロを騒がせてみたり・・・この世のすべてのモノが本当は主観的で相対的なものだということを思い知らされた気がした。

また一歩、悟りの方向に歩を進めたようだ。

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運動をしない理由

昨日、ワンの散歩の後に小一時間、本当に久しぶりに一人で散歩をしました。ワンが工事の音を怖がって近付かなくなった公園の池のほとりを、日暮れ時に歩きながら、1年前まではここを毎日歩くのが日課だったなあ、などと思い返しながら。でも、正直、きつかった。途中から雨も降り出して、ここまで来たことを密かに後悔しました。

人間にとって、「運動をする」ということは、簡単なようで意外に大変なことです。もともと「人間には運動欲はない」から、しないで済むなら絶対にしない。言い訳が思いつける限り絶対にしない。それが”運動”であり、それが”人間”なのであります。

などと、エラそうにその理論を逆手にとって、「しょうがないもんね」とばかりに運動しなくなっていました。1年前に活動量計を抱えていた頃は毎日意地でも10000歩歩きたくて、職場の病院を用もないのに隣りの棟まで日に2回も散歩しに行ったりしていたのです。なのに、たしかに、今は超面倒くさい。「しなきゃな」という気持ちにもならなくなって・・・診察室のある4階までの階段はさすがに毎日使っていますが、それ以上「ムダに動く」なんてことしたくない。全然そんな気にならないんだもの、だってほら、人間には運動欲という欲は存在しないのだから。

”人間には運動欲という欲はない。ただし、動かないと退化する。面倒くさくなった瞬間から年寄りになる” 

そんなこと、百も承知なんだがなぁ。

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