日記・コラム・つぶやき

読まない

「あら、先生、また面白そうな本をゲットしたみたいですね」

悪名高いAmazonさんの宅配で買って積んでた本(『腸科学』とか『テロメアエフェクト』とか)を、よく我が家を訪れる妻の昔の同僚が見つけて声をかけてきました。例によって、最後まで読まないかもしれないのに、つい面白そうでプチっとやってしまったやつ。

「面白そうでしょ。読んだら貸してあげようか?」と答えたら、「いや、それはいいです」と即答。「先生読んだら、その内容を簡単に教えてください」って。自分で読んで、自分で理解しようなんて気はさらさらないんでしょうな。まあ、かく云うわたしも、実は適当なところでやめて彼女に貸してあげて、内容を聞けたらラッキーかなとか、思わなかったわけでもないですけどね。

たしかに、有名な先生の人気の著書を買って読むよりも、その著者の先生の講演会とかセミナーとかで説明を聞く方がはるかに理解できる。うん、そりゃそうだな、と納得します。

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仕事中は若い

わたしは若作りの方だと自負しているのですが、わたしだけでなく、うちの職場はドクターもナースもみんな若い。わたしと同い年のドクターとか、わたしが研修医の時から一緒に働いているナースとかたくさんいますけど、一様に世間の同世代より若く見えると思います。

でも、それがひとたびプライベートになると途端に年相応に近づいてしまうのはなぜでしょう。白衣やユニフォームのもたらすマジックでしょうか? それとも日ごろの服が年寄りくさいのでギャップを感じてしまうのでしょうか? 何しろ、若いころからユニフォーム姿は見慣れていますから、よほど大きく体型が変わらない限りわたしの中ではみんな昔のまま。みんなで平行移動しているだけなので、若い頃の感覚のまま。多少のシワやシミや白髪は目に入りません。でも、職場を離れると皆家庭の中の一人になります。おとうさん、おかあさんを経て、おじいちゃん、おばあちゃんへ。どうしても家庭の役割の中に戻るとその役どころに変わっていく、それもまたやむなしか。うちのように、とうちゃんにもじいちゃんにもならないまま夫婦で平行移動していると、家庭内の役割も結婚当時のままなもので、身体の老化に精神の老化がついて行ってないところがあるのもまた、やむなし。おかげさまで、わたしはプライベートになっても30代の頃に着ていた服を引っ張り出して着たりなんかする。それに対して妻は、「みっともないから、やめなさいよ!」とか云ってはくれない。困ったものです。そんな若い頃の服がよく入るな、って? はい。当時の方がはるかにデッカい身体でしたから。

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医者の本分

「もう半年近く咳が続いているんです。あちこちの医療機関に行きました。ここの病院にも受診していろいろ調べてもらいましたが、どこも悪くないっていうんです。どこか、いい病院を知りませんか?」

人間ドック受診者の男性からそんな相談を受けました。「またこれだ」と思いました。最近の医療現場は、みんな最初から高度な検査をして、その結果を見て目立った所見がないと「特に問題ない。とりあえず様子を見よう」と患者さんを突き放す。興味がないというか、何をしたらいいのかわからないのかもしれない。下手なことをして悪化させようものなら医療訴訟だし、できたらこのままフェードアウトしてくれないかな、とか思っている医者はいないとは思いますが・・・。これは、画像診断機器の著しい発達と検査方法の確立と系統だった西洋医学の診断システムがきちんと教え込まれた証とも云えます。今時、聴診器と触診だけでブラックボックスの中身をまさぐるような診療をしていると、同業者からもヤブ扱いされかねません。

でも、この高度な診断技術をしても咳の原因がわからないとして、受診者さんの最大の希望はこの頑固な咳から解放されることなのだから、本来はここから先が医者の医者たる存在価値のはず。医者の本分は、病気を診断することではなくて病気を治すこと、そういう風に考えてこれまでやってきました。だから、予防医療の分野に身を置くようになった自分はニセ医者だと云ってまわっているわけです。

ただ・・・ここでふとした疑問。この受診者さんの云う「いい病院」て何だ? 『ちゃんと症状を改善させてくれる医者のいる病院』というのではなくて、もしや『ちゃんと原因を突き止めてくれる病院』『もっといい検査をしてくれる病院』という意味だったりしないだろうか。患者側もまた、『医療の質はいい検査をするかどうかで決まる』『原因がわかってこその治療』という概念を常識として刷り込まれている現代社会・・・なんか違う気がするのですが。

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伝達事項

色々な行事告知が一斉メールでやってきます。必須の委員会から講演会のお誘いまで、自分に関係ないものも大量に含まれてやってきます。そして、委員会の当日、委員の一人が顔を表さない。担当者が電話してみると「忘れていた」という。「あれだけ前もってメールで詳しく伝えていたのに」と担当者は思うのでしう。

そんな光景を眺めながら、それはしょうがないなと思う今日この頃。情報を発信する側は1つだとしても、受ける側はそんなあちこちからのメールがまとめて多数やってくるわけで、受ける側はそれを意識的に優先順をつけることになります。その時、遠い先のことだから後回しにされたんでしょうね。そんなもの初めに連絡した時にメモしておけばいいことじゃないかとか云わないで、どうしても伝えたければくどいくらいに何度もメールで知らせてください。こんな輩は1ヶ月前と1週間前だけでは忘れます。前日と当日の朝にも出しておかないと読まないかもしれない。それでも怪しいような常習犯ならさらに電話で確認。

「大の大人なんだから、そこまでしなくても」「そこまでしないとできないのは常識がない」などと思っている限り、伝えたい情報は伝わらない。担当者になったら、その程度の覚悟は持った方がいいと思います。新年度になってフロアにあふれている大量のフレッシャーズを眺めながら、ふとそんなことを思った次第です。

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やっぱり王が好き

むかし、ONという伝説の名選手がいました。Oは王貞治、Nは長嶋茂雄、読売巨人軍の最後の黄金期を支えた二人の英雄です。「そんなこと、知ってるわ」 って、ツッコミありがとうございます。

天才肌の長嶋と努力家の王と云われてきていました。どちらも名選手なのだけれど、私の周りには圧倒的に長嶋ファンが多く、「長嶋をキライという人は見たことがないけれど、王はキライ」と云い切るジャイアンツファンは少なくないみたいです。

でもわたしは、ことごとくの事柄において長嶋茂雄より王貞治の方が好きでした。プロ野球にも巨人軍にも興味がなくなったのは王貞治がいなくなったからだし、今でも唯一応援しているソフトバンクも王さんが絡んでいるからに過ぎません。いや、なぜそうなのかということをこんなところで書き並べるつもりもありませんが、概ねわたしの人生の中で、尊敬したり憧れたりした存在はいつも王貞治型の人だった気がします。ちょっと考え方が硬過ぎて歪んでいると思うところもありますが、誰がなんと云おうと自分の考えは絶対に曲げない頑固さも悪くない。

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権利と義務

「◯◯先生は、9時から勤務の契約なのに診察室に9時にやってくるので、実際の業務は10分くらい遅れて開始せざるを得ません。先生から◯◯先生に厳重に注意してください」

わたし、こういう類の苦情受けをさせられる立場なのですが、まあ正直云ってあまり気乗りはしません。注意すべきことは注意しなければならないと思いますし、実際9時から業務を始めないのは契約違反になるわけですから、云うことは云いますけど。なんか、大の大人なんだからいちいち小言を云っても一緒ではないか?という気持ちが払拭できないのです。開始が10分遅れたところでやるべき仕事量はきちんとこなしてくれているし、10分遅れたことで苦情が出ているわけでもありません。医者がそうだと示しがつかないとか、職員全体の士気に影響を与えかねないとか云う人がいますけど、そんなことないと思いますよ。

昔は、始業時刻にきちんと始められるようにするには最低でも30分くらい前には現場に来て準備しておくべきだと先輩や上司に教わったものですが、今は労務管理が厳しくて、それは上司命令か? その30分間は超過勤務として加算していいのか? などとうるさいから、ギリギリまで働くな!と指示されたりすると聞きます。これもまた世知辛いお話。自分の仕事にプライドを持っているならば、自分のパフォーマンスが最大限に発揮できるように自分でペースを決めて仕事したっていいじゃない? それは権利とか義務とか契約とか、損だとか得だとかそういう次元の話ではないと思うのだけれど、これもまた誰かがどこかで騒ぎ始めて世間の意識を変えるまでに陽動した結果なのでしょうか。

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文章がヘタ

最近の若いヒトは本当に文章がヘタ。SNSではあんなに豊かな表現力でうまくコミュニケーションが取れるのに、日本語で”文章”を書くと、どうしたことか全く意味がわからなくなる。そんな人が雑誌や機関誌の記事を書く(正確にはほとんどがネットの文章の切り貼りですが)担当になると、もはやお手上げ。推敲してあげたいけど、手の施しようがない。

どうしてなんだろう? 別に学校で国語や文法をマジメに勉強しなかったからというわけでもないでしょう。日本人なのだから。作文をし慣れていないから? 確かに悪の根源はSNSなのかもしれません。あれだけ早くキータッチできるのだから頭の回転はとても早いと思うのだけれど、LINEとかツイッターとか、元々コミュニケーションに”文章”を使わせないコンセプトですから。”文章”ではなくて”文”か”文節”だけを細かく区切って羅列して伝えるのが基本。それに、文字ではない”絵文字”や”スタンプ”をどれだけセンス良く迅速に返せるかを競っている。いわゆるメールの時代とは全然別物。それをメインのコミュニケーションツールにしてしまった時点で、”文章”の概念がなくなってしまった・・・。文節と文節を繋ぎ合わせれば文になるけれど、文と文を並べたら文章になるわけではないのです。接続詞や接頭語やつなぎ合わせる接着剤がないとくっつかないのです。

そういうこと考えるのが面倒くさいし、1つ1つ繋がなくても見りゃわかる、といいたげな今の文化。直接話せば良いけれどそれはしない上に文章を作るのがヘタだから、きっとちょっと長いメールを書くと相手に誤解を招く文章になったり、自分の伝えたい内容が伝わらなかったりしてしまうのでしょう。見てて、とってももどかしい。

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良いところを見つけましょうよ。

「今回は、特に悪いところはありません」

常連の受診者さんの事前カンファレンスをすると、良い結果だった時に保健師さんが決まってこんないい方をするんです。良くなっていない時とか悪化している時にはもちろんそのことをいの一番に報告してくれるのですが、良くなっていると良くなったことを指摘しないって、どうよ。

「何か、1つでもいいからまずは良いことをみつけましょうよ。アラ探しが人間ドックではないのですから」「良くなっているのなら、何をしたのが一番効果があったのか分析して教えてあげてください」

今年度はこういう切り口で予防医療の手助けに従事しようかなと考えております。日常生活でもそうですが、特に健康に関わる仕事においては、相手の良いところ探しは骨の折れる作業だと覚悟しています。もともと、悪いところを探して修正してもらうのがわたしたちにあてがわれた使命だったりするので、ホメ殺しに慣れていないし、実際ホメ殺しできる要素の少ない人から良いところを見つけてホメると白々しく感じるかもしれません。私たちのサガとして、良いところよりも悪いところが目につくし、良いところが目の前にあっても気づかない。それはとっても寂しい性分なわけで、これを改善できれば自分にも必ずプラスになるはずだと思うのであります。

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階段を使わない?

フレッシャーズの皆さんのオリエンテーションの時に、「職員は階段を使うべし」という注意はしたのだろうか。せめて「患者さんの乗るエレベーターは乗らないように」とか。理屈ではなく決め事なのだから、決め事として最初に云っておけば少しは違うのかなとか思いつつ、でもムリだろうなとも思います。

もはや、生まれた時から二階に行くにもエレベーターかエスカレーターしか使わない世代。せめて学校くらいは階段を使ったのかしら。階段の方が非日常である、あるいは階段は緊急避難(やむを得ない時だけ使うモノ)の道具である、という生き方を変えさせられるのは難しい気がします。何しろ今すでに働いているスタッフですら、事務所から2、3階上の仕事場に向かうためにみんなエレベーターの前に屯しているのですから。私のような下っ端のペーペーが何を叫んでも雑音でしかありませんが、かと云って上司からの命令があったとしたらそれはヘタをするとパワハラになるかも。 たとえ上司が階段を上がっていてもそれに従うどころか、きっとエレベーター前でそれを眺めながら待っているに違いないと思いますね。

やっぱり、今の世の中、そこにエレベーターやエスカレーターがあるのに階段を選ぶのは、必死に体力作りしたりダイエットしたりしている人を除けば、変人ですものね。東日本大震災の直後に暗い電気の元で全員が階段を上っていた光景が懐かしいです。

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五感の叫び

昨夜、久しぶりに”地震”らしい地震が襲ってきました。震源が我が家に近かった(1年前の熊本大地震のときに近かった)からか、昨夜の地震は最近何度も襲ってきていた余震とは質が全く違っていました。

正式に発表される震度とかマグニチュードとかの数値は何の当てにもならないことをわたしたちはすでに思い知らされてわかっています。それが3でも7でもどうでもいい。体感は数値では表せないものです。短かったけれど昨夜9時半ごろに起きた突き上げるような地鳴り地震は、ちょうど1年前と同じ種類のそれであることを自らの五感が教えてくれました。突然跳ね飛んで走ってきた我が家の愛犬のカラダの小さな震えが、完全に落ち着くのに30分以上かかったことが昨日の地震が特別なモノであったことを証明していました。ちょうどあの日から1年になり、地元テレビでは涙なしでは観れないほどたくさんの特集番組が組まれていて1年前の感覚が呼び覚まされてきていた矢先の昨夜の地震。奇しくも2016年4月15日の”前震”が起きたのもこの時刻の頃ではなかったか? 慌てて風呂に入りながらそのことに気付いたら、急激に激しい不安に襲われました。

昨日はなでしこジャパンの若いお嬢さん方が熊本の地でコスタリカ戦を戦いました。快勝の余韻に浸っていたであろうときにあの地震だったと思います。あの頃、彼女たちはどこに居たのでしょう? 試合会場は震源地近くでした。1年前の前震の時は女子プロゴルフ大会が熊本で開催される前夜祭があっていました。熊本地震のなまずは、もしかして嫉妬深いメスなまずなのかもしれません。 

ダメですね。理屈とは関係なく、五感がザワついて落ち着きません。公の発表が高々震度3だったので、世間のテレビ番組は何事もなかったかのように予定されていた地震特集をやっていて、それを見るのがかえって辛かったりします。

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