日記・コラム・つぶやき

謝り方を知らない

某国の首相が「説明責任を果たす」「国民が納得できるように丁寧に説明する」と息巻いていますが、なんとなくどうでも良い気がします。「自分がやったことがいかに正しいか、間違ったことは何もしていないし、ごり押しをするような指示などひとことも云っていない」と云うことを「責任を持ってお伝えしたい」と云うのだろうと想像するからです。

一般社会の会社や組織の中でもよくあることですが、組織の長になる人の責務は、自分の行為に非がないかどうかということではなく、周りが勝手に誤解して忖度したりする空気を作らせたこと、そういう風土を容認してしまったことに対する釈明です。「わたしの知らないところで勝手にやったことだ」では済まないし、記録があるとかないとか証拠があるとかないとか、そんなことはどうでもいい。というか、大の大人なのだから、それも最高学府を卒業したエリートたちがほんの数ヶ月前までにあったことなんて忘れるはずもなく(忘れているとすればいつもそんないい加減な仕事しているのが官僚だということになってしまう)、世間の人たちはほとんど何が起きたのかは想像できているわけです。本来、政治の世界はこういう感じでうまいこと成り立ってきたし、上の者が何も云わなくても下の者が慮ってまつりごとを行うというのは、太古の昔からやられていた習わしです。

だから、どうしてこんなことになったのかの説明責任の遂行の中で、「わたしが悪かった」と謝ることを絶対に避けては通れません。ただ、いかんせん、今の首長は”言い訳をせず”に謝ることを知りません。「わたしは何も悪いことはしていない、何か問題があったとしたらわたしの伺い知らないところで起きたことだ」と強く主張する。おそらくそういう環境の中で成長して来ていないからやむを得ないし、この人に限らず、国の首長は簡単に謝ってはいけないのだとみえる。それをしたら社会が成り立たなくなるのだ、ということかもしれません。

だから、今となっては国のことはどうでもよい。どうせ、野党も大したことはできないし、子どもの喧嘩のような時間が過ぎて終わるだけでしょう。ただ、この茶番を眺めながら、少なくとも自分たちの現実の組織の中ではこんなことは間違ってもやってはいけないし、今回のことをそんな反面教師のような教訓にすべきだと思っています。

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標準化と職人技

定期的に投稿する機関誌連載コラム夏号が発行されました。今回は完全にここで書いたものの組み合わせで新しい内容ではありません。

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『標準化と職人技』

以前、ある有名なプレミア日本酒の話をラジオで聴きました。このお酒、ちょっと他のプレミア酒と違います。普通、おいしい酒というものは腕のいい杜氏の経験と力量が作り上げた芸術品です。ところがこの酒蔵の酒はその配合の仕方や細かい作り方まできちんとマニュアル化されているらしい。「誰が作っても同じ高品質の酒ができるように」というコンセプト。それによって、世界中どこでも同じおいしい酒が製造できる、というのです。

標準化・・・それは良いことだと分かっていますが、本当にそれで良いの?という気持ちも払拭できません。職人のさじ加減で1つ1つに微妙な違いがあることもおいしい酒を造る上で大事なのではないか。私たちの仕事で言えば、担当する医者によって説明内容が変わるのは良くない、医者によって治療方針が変わるのはおかしい、だからガイドラインを作成しパスに乗っかって標準化するのがよろしい、と言う。その方が質の高いサービスが同レベルで提供できて、受ける側のメリットも大きい。ただ、それでも最後に担当医師の価値観と経験値が加わります。同じことを言われても、医師の言い方次第で違う印象になることは少なくありません。それならむしろ無機質なロボットの説明の方がマシだという意見もありましょうが、少なくとも私は、相手がヒトである以上、最後はヒトとしての対話が不可欠だという考え方を変えることができません。

先日、ある自動車部品製造会社の特集をテレビで見ました。そこの製造機械はとても繊細な動きをするのですが、その正確でソフトな身のこなしはすべて優秀な職人さんの動きを忠実に模して作成されているのだと聞いて驚きました。一番効率の良い動きは、“計算された機械的な動き”ではなくて、“経験のある熟練した職人の動き”だという結論に達したという。”職人“と呼べる人が少なくなっている現代社会では、匠の技をプログラミングして後世に確実に引き継ぐ方が得策なのかもしれません。でも、このやり方では、結局過去の成功確率を上回ることができません。匠が匠でありうる所以は、自分で試行錯誤しながら創意工夫して新しい自分を作り上げようとしていることです。100%の完成品には100%の魅力しかありませんが、匠たちは100%以上のモノを常に造り出そうとしています。進化や発展というのは、そういうことだと信じます。

AI(人工知能)は、失敗体験を蓄積しながら学習する能力だけでなく、失敗や成功の概念以上の世界に昇華する力を持ち得るようになるのか・・・将棋や医療の世界を凌駕しようとしているAIのこれからに期待してもいいものでしょうか?

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晩酌をやめるとき?

公にしたくないからずっとココロに秘めていたのだけれど、明らかにわたしのカラダが酒を拒否し始めています。

痛飲どころか、焼酎をコップ2杯とか、日本酒4合瓶一本とか、この程度で睡眠の質が落ち、翌日の午前中くらいまで頭が冴えない日も出てきました。夜遅くでなければ、翌朝の気分に影響を与えないのはせいぜいビール2缶程度までか。

酒を飲むとγGTPが必ず上がるヒトや、たばこを吸うとCEAが上がったり肺気腫を起こすヒトが、ココロの欲求とは裏腹に、「自分が『酒やたばこの合わない体質』であることを認めなければならない」と受診者の皆さんに話しているわたし。今回のわたしのカラダの反応は、まさしく「そろそろ自分にはその処理能力がなくなってきています」と訴え始めた証なのだろうことを実感し始めました。ほんの1年前くらいまではそんな自分のカラダの反応に、ノー!と云い続けてきましたが、最近急にココロが受け入れ始めています。

そろそろ潮時かしら。とか、書きながら、昨夜もゴルフから帰ってからしっかりビールを2缶飲んでしまいました。それでも、それ以上は飲む気がしなくなった自分の心境の変化には正直に応えました。最近妙に正直で素直になってきた自分のココロを尊重してまいりましょうか。徐々に徐々に。

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米を研ぐ

先日、朝のTV番組で若いアイドルグループの青年が、分厚い紙製の切符を見て感動していました。「これ、なんですか? 切符? 切符がただの厚紙なんですか! こんな初めて見た」と。改札口で駅員さんが切符にハサミを入れるのも初めて見た、という。そうか、都会の平成生まれの子としては、それは当たり前のことか?

「米は洗うものではなく、研ぐものだろ! 」と云うと「『研ぐ』って何ですか?  聞いたこともない!」と笑われる。「だって、無洗米って云うじゃないですか?」と。ん? たしかに「研がなくて良い米」ではなく「洗わなくて良い米」と命名するのだから、「洗う」は間違いじゃないのか?自分は子どもの頃から母親から、「米はキュッキュッと擦り合わせて揉まないとダメだ」と教えられて来ましたからとても違和感があるのだけれど、検索してみると米穀安定供給確保支援機構の『お米Q&A』の解説がわかりやすくて納得。つまり、昔の精米機器は性能が悪くて糠切れが悪かったから炊く前にしっかり研がないと味が落ちたのだけれど、現代社会の精米工場で精米された米はしっかり糠外しができているから軽く洗って汚れを取るだけで大丈夫なのだそうです。要するに、すでに白米に精米されて売られている米の多くは洗うだけでいいし、玄米などから簡易的に自分で精米するときには研ぐ意識が必要だということですかね。でも、そのうち家庭用精米機の性能も格段に良くなるでしょうから、『米を研ぐ』という言葉が死語になるのは時間の問題なのかもしれません。

文化というものは、時代とともに変わって行き、10年前の常識は非常識になるどころか知らない単語として消えていくのもやむを得ません。それが「文明が進んでいく」ということか。ただ、糠が完全に外されて、純粋にカスである白米だけが残されてしまって他の栄養素が捨てられるのなら、なんか違う気がしないでもない。

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几帳面

「わたしのことを、”とても几帳面で細かい”と評してくれる人がいる。というか、世間の多くがそう思っている様だけどが、それは買いかぶりだと思う」

そんなことを妻に云ったら、鼻で笑われました。「あなたが几帳面でも細かいでもなかったら、世の中に几帳面も細かいもいないことになるわよ。そういうことをいう人がホンモノのの『几帳面で細かい人』よ。世の中に、『自分は細かいことが気になる』『自分は几帳面な性格です』と自分からいう人がいるけど、あれはホンモノじゃない。ホンモノは、あなたみたいに、『自分はまだまだ全然そんな域に達してない』っていうひとよ」と。

いや、それ、云っていることはわかる。でも、わたしは最終的には大雑把でどうでもよくなるのよ。基本的に真面目で小心者だから、きちんと計画を立ててやるべきことをやり遂げないと落ち着かない性格であることは確かです。ところが、不器用で要領が悪いから、アタマに思い描いた様な出来栄えにならない。絵画にしてもそうだし、掃除や庭の草取りにしてもそう。途中で投げ出すわけにもいかないから形だけまとめながら、「ま、こんなもんでいいんじゃないの?」と云って自分を納得させるわけ。小学校の図工の先生には見事に見破られてたけれど、それ以外は何とか誤魔化せた気はするし、皆さんに几帳面さを印象付けることはできたのだろうけれど、結局この歳になっても完成度の低い几帳面さのまま。

大汗をかきながら庭の草取りを始めたけれど、大いなるトラ刈り状態のまま「ま、いいか」と独り言をいいながら、こんなことを考えたりなんかしているわけです。

「はいはい、あなたは納得いかないかも知れないけれど、十分に几帳面で細かすぎるくらい細かいから、心配しなくていいよ」と妻からシメのダメ出しを食らいました。

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ひげ剃り

先週末に泊まった大分のホテルのひげ剃りもその前の週末に泊まった東京のホテルのひげ剃りも、まずまず合格でした。

わたしが学会やプライベートで泊まるホテルの評価をするときに一番重要視しているのは、ホテル備え付けの使い捨てひげ剃りの切れ味です。いつも一流の高級ホテルしか泊まらない方にはピンとこないかもしれませんし、電動ひげ剃りを持ち歩く人にも関係ないことですが、わたしのように旅費を安く上げるために苦慮してる人間が泊まるホテルは、経費削減と顧客満足度のはざまで日々努力しているところがほとんどです。泊まるだけのホテルとはいえ、治安が心配だったりフロントや廊下までタバコ臭がこびり付いているホテルは一応避けているつもりです。

ホテル備え付けのアメニティの中で、当たり外れが大きいのがひげ剃り。さすがに最近は全く切れなかったり、気付いたら顔中がキズだらけになったりするひげ剃りを置いてあるホテルは少なくなりましたが、それでも当たり外れがあります。必ずしも安かろう悪かろうという理論通りでもない様ですが、ホテルがアメニティの購入契約をするときにどの程度会社の信用度を慮っているかということではないかと思います。ひげ剃りの切れ味は、自分で使ってみないと分かりません。バラツキがあるかどうかについてはなおさらです。お客さんのアンケートはあまり当てになりません。ひげ剃りが切れなかったとクレームを書く律儀な人は決して多くないからです。わたしなら書きません。次から他のホテルを探すだけのことだから。

わたしたちの職場でも受診者向けにこういうアメニティはたくさん準備されています。購買部は値段交渉が厳しいと聞いていますが、担当者はちゃんと自分で使ってみたりして確認しているのだろうか? クレームが出ないから大丈夫だなんて思っているのではないだろうか? そんなことを思う旅の朝でした。

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倒木

先週、疾風のように駆け抜けた台風3号は我が家界隈を直撃しました。テレビニュースで見る台風風景と同じ激しさで、それが我が身のことだけに怖さははるかにそれより強いものでした。

その翌日、線状降水帯とやらの仕業で大豪雨の攻撃も受けたのですが、その襲来直前の隙間の晴れ間にワンの散歩をするためにいつもの散歩コースの江津湖公園に出かけました。静かな夕方の公園でしたが、あちこちで数日前には見なかった光景。まるでサバンナの草原でのたれ死んでいるゾウやバッファローの死骸みたいに、根っこから抜けて倒れている大木があちこちに。あるいは大きな枝がポッキリ折れて無残な姿になって佇んでいる。激しかったんだなあ、とつくづく思い知らされました。でも、実は熊本には2年前に猛烈な台風15号の直撃がありました。久方ぶりの直撃で江津湖公園のたくさんの木々が折れたり倒れたりしました。昨年も大地震の液状化の後に襲った豪雨で倒れた木々がありました。

そんな大災害を耐え忍び、大自然の間引きに負けることなく生き残った木々。そんなに逞しかった木々が、ほんの数時間の攻撃に耐えられなかったのはなぜなのだろう。おそらく、今まで矢面に立って雨風の盾になってきた木々が間引きされて、後ろで守られてきた自分が初めて先頭に立たされた。その仕打ちにあっけなく打ちのめされた、ということなのだろう。「それは、人間社会と同じだね。今まで全ての責任を取ってくれていた上司が突然いなくなって、自分がその仕事を任された途端にその重圧に耐えられなくなって、体調不良で挫折してしまうような。『あいつ、意外にもろかったな』とか陰で云われたりするのだろうか」と、倒木の様子を写真に収めながら、妻はかなり辛辣なことを云いました。

自分はかなり打たれ強いと思っていたのに、実はそうではなかったんだと思い知らされる。わたしのように、いつも弱気で自分を買い被らない生き方をしていると大丈夫・・なのかな。やっぱり、こんな時は立ち向かわずに、逃げることだな。そうか、木々は逃げられないのか。

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肉を食う

最近頓に肉を食う機会が増えました。ダイエット中の妻がタンパク質食いにはまり始めたからです。日曜の少林拳の練習に行く前には肉を食って行くのが一番調子がいいし翌朝の体重減少の切れ味がいいそうで。先日は上京するわたしを空港に送ってくれたついでに「肉食おう!」と肉のレストランに連れて行かれました。

そういえば、「今日は、◯◯さんが美味しいステーキを食べさせてくれると云うから、朝から何も食べないで我慢してきたんですよ~」とか云っている輩がいますけど、「失礼なやつやなあ」と思ってしまうのは、やっぱりわたしが歳をとってしまったからなのかしら。だって、せっかく高級な美味しいお肉を食べせてやろうと云っているのに、そこまで腹空かして来たら味なんてわからないし、どんな安物の肉でも同じ程度に美味しく感じるに違いないやないか!と。

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写真(後)

(つづき)

でも改めて考えると、当時の思い出は良いことも辛いことも今でも記憶の中に残っている分だけで充分なのかもしれない、と思うようになりました。おそらく、徐々に認知症になって記憶が消えて行く中ででも、そのときに残っている記憶だけがそのときの十分量。そうやってフェイドアウトして行くのが自然なのだと割り切ることもできます。

実はわたしは中学生時代の写真もほとんどありません。あれだけ仲良しだった部活の連中との写真も・・・まあ、その頃に子どもが写真機を持って歩くことなどあり得ませんでしたし、なんか『思い出作り』なんて小っ恥ずかしいお年頃でもありましたが。今、SNSへの投稿のためにバシバシ撮っては配信している写真なんて、きっと大部分があってもなくてもいいようなものばかり。写真を撮ってばかりいる分、今の方が記憶に定着しないかもしれません。数年前のフェイスブックにアップした写真を見ても、「こんなことあったっけ」と何も思い出せなかったりしますから。

写真は、『思い出作り』のためというよりも今を楽しむためのツール。あるいは、今の自分を取り巻くものをとりあえず記録するだけのツール。そう割り切ることにしました。

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写真(前)

「わたしたち、東京にいた頃の写真が一枚もないよね」

最近インスタグラムにはまって、わたし以上に写真小僧になった妻が云いました。たしかに。東京の病院勤務のために平成元年3月に石神井に引っ越して、大きなダイコン畑の前のできたばかりのアパートに暮らし始めてからの3年間。小さなクルマを買って、駐車場も借りて、都心に向かっては怖くて到底行けなかったけれど、埼玉方面にはあちこち遊びに行きました。高尾山にも行ったし、東京ディズニーランドにも何度も行ったし、東武動物公園や所沢の航空公園や・・・横浜にも箱根にも泊まりに行ったのに、写真は一枚もありません。シンガポール旅行したときはさすがに何枚か撮りましたが、北海道旅行したときの写真もありません。

当時、『写真を撮る』という行動がちょっと特別なことでどこかカッコ悪いと感じるところもありまして、「記録に残す時間があったら記憶に残せ!脳裏に焼き付けろ!」みたいにしてました。カメラに凝っていると云うと本格的な高性能カメラ自慢を必要とし、『写ルンです』も廃れ気味、まだ写メの時代ではなく(携帯電話自体がなかった)、デジカメはまだマニアの世界でした。今になって思えば、もっと記録しとけばよかったとは思うのですが・・・。 (つづく)

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