日記・コラム・つぶやき

チーム医療(前)

わたしが30年前に今の職場に就職したときから、わたしの所属した循環器内科にはすでに『チーム医療』の考え方が定着していました。患者さんをスタッフみんなで診て治療していくという考え方。そのために、たまたま順番で決まった主治医はあくまでもその患者さんの道先案内人でしかなく、外来で予約された検査を、その各々にその道のプロたちが行い、検査結果を主治医がプレゼンして、スタッフみんなで治療方針を考え、そのカンファレンスで決まった方針に従ってその道のプロが治療していく。

「そんな流れ作業のような医療なんて、わたしの目指す医療ではない! 主治医なんて居てもいなくても一緒じゃないですか!」と云い放って出勤しなくなった研修医が居たことをふと思い出しました。彼女は今、彼女の目指していた医療に邁進できているだろうか? 「医者として、最初の出会いから問診をして想定する病気について自ら検査をし、診断を下してその後もずっと自らが患者さんと一緒になって治療をする、そんな医者人生を送りたい」と云って、病院を辞めていったスタッフもいます。あの頃、わたしはその最先端の医療の考え方になんの疑問も抱きませんでした。わたしがするより専門家がする方が検査も信憑性が高いし、治療の質が違い過ぎるから、やっぱり上手い人がしてくれた方が患者さんもいいに決まっている、と。

でも今、健診の世界から世間の皆さんの姿を眺めるとき、『医者とのいい関わり方』ってなんだろう?と考える機会が増えてきたように思います。 (つづく)

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規定時間

始業時刻よりかなり早く来ている人とギリギリで来る人が居ます。家庭の都合もさる事ながら、性格も大きな要因です。「始業時刻からきちんと始められるように早めに来て物理的にも精神的にも準備万端で仕事に備えるのはプロの働き手の常識だ!」と云われていた時代はお過去のこと。最近は労基がうるさくて、「その前準備は命令ですか? 命令なら、それも勤務時間(時間外労働)ではないですか?」とツッコまれます。仕事の質の云々に言及することなく、始業時刻に持ち場にいさえすれば問題はない、というのが労基の基準のようです。

そんな中で、始業時刻よりかなり早く来る人たちの理屈は、『早く来るのに越したことはない。家ではできない仕事などがゆっくりできるし、すぐに仕事が始められるから』というものでしょうか。うちのように、この時刻に出ないと交通ラッシュに巻き込まれるから、という人もおりましょう。一方、時間ギリギリ組の理屈は、『朝の貴重な時間。ギリギリに来ないともったいない。他にすることはたくさんあるのだから、無駄な時間は作りたくない』というもの。

そんな色々な想いの連中が、いつの間にか各診察室にゲートインして、何事もなかったかのように朝の業務開始。それが、毎朝の診察室の風景。いと、おもしろし。

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あんな若造に(後)

(つづき)

きちんとしたことをきちんとわかりやすく説明したはず。年寄りの医者よりも最先端の日進月歩の知識を持っているのだ、という自負で仕事をしていたわたしのココロを見事に打ち砕いた出来事でした。『若い』というだけで軽んじてみられたくはない。もう立派なオトナだし、研修医ではない一人前の医者だし、これでも自分はカテ室の責任者だ。病気や治療に対する知識はちゃんと持ち合わせているし、決して高飛車な云い方はしていない。なのに・・・。「君はまだ若いのに、何か若者らしくない行動をするよね」と顔見知りの開業医が宴席でわたしに云っていたけれど、あれは褒め言葉だったのだろうか・・・そんなことをいろいろ思い巡らしました。

いつの間にか自分が当時のボスの歳をはるかに越えてしまった今、確かにみなさん、わたしの話すことを反感の顔もせずに聞いてくれるようになりました。話し方が上手くなったのかもしれませんが、歳をとったことの方が大きいのだろうと思います。そんな想いでくだんの彼を眺めるとき、彼自身が気づいているかどうかは別として、きっと彼の組織の中の立ち位置も、周りの彼を見る目も、5年前とは違うものになっているに違いありません。少なくとも、わたしの目には、『若造』ではない、信頼の置ける頼もしい優秀な事務スタップに映りました。

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あんな若造に(前)

朝、駐車場から歩いて病院に向かっていると、反対側の駐車場から若い事務職の青年が出勤して来ているのに気づきました。「おはようございます」「おはよう」お互いに朝の挨拶を交わして通り過ぎましたが、すれ違いながら、「彼も、知らない間に貫禄が出て来たな」と感じました。うちの職場のスタッフは、若いけれど総じて優秀で、頭の切れる連中ばかりいます。彼もそんなエリートの中のひとり。5年くらい前に一緒に同じプロジェクトで働いた時には、若くて何か怖いもの知らずの空気がみなぎっていました。「この人、若いのにすごいな」と思ったものです。でも、「どこか意気がっているように見えてしまうのは、若いからしょうがないのかな」とも感じていました。

そんな彼を見ていると、若いころの自分のことを思い出しました。救急の当直をしていたある日の明け方に飛び込んで来た急性心筋梗塞の患者さん。緊急カテーテル治療をできるだけ早く始めてあげたくて、一緒について来た奥さんに承諾をもらうために一生懸命説明するけれど、頑なに拒まれました。自分のかかりつけ医に相談したくて時間稼ぎをしたのだということを、出勤して来たボスに教えてもらいました。ボスは笑いながらわたしの肩を叩いて、「『命に関わるような重要な問題を、あんな若造に偉そうに云われたって、信用できない』と云われたそうだよ。そう落ち込むことはないよ。君が悪いんじゃない。あの年頃は、ある程度年齢のいった医者じゃないと信用できないって人が意外に多いんだよ」と慰めてくれました。 (つづく)

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先入観(後)

(つづき)

それが一般社会の隣り近所の人との付き合いならどうでもいいのかもしれませんが、仕事だとそうもいきません。特に予防医療の世界は、行動変容に導く主役はパラメディカルスタッフ(特に保健師さん)です。

前もって受診者のカンファレンスをしていても、「この人はしっかりした信念で自分の考えに導いていけるから任せればいいけど、ちと厳しすぎないかしら」と感じる人もいれば、「多分この人は他人を行動変容させられるスキルもセンスもない。きっと話しても無駄だから、私が直接受診者に話そう」と最初から諦めざるを得ない人もいます。きわめて千差万別なのが実際の現場です。正直云って、行動変容アプローチのためにタッグを組む相手が誰かによってこっちの態度を変えなければならないのは面倒くさいけれど、別に彼らにテクニックを伝授する指導者になるのではないのだから、気楽といえば気楽です。彼らにできそうにないことは、最初からわたしがやればいい。それで、少なくともわたし自身の満足のいく仕事はできるわけですから。

他人に指示されたのではなく、わざわざ自分の希望で今の仕事を選んでいるのだろうに、「いいのかなあ、そんな取り組み方で」と思ってしまうヒトも少なくないのですが、単にわたし自身が歳をとって”凝り固まった考え方”になっているだけのかもしれませんし、くだんの上司のように陰で舌打ちして非難されるのも嫌だから、絶対にそんな思いは口にはいたしません。

みなさん、どうぞこれからも頑張ってくださいませ。

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先入観(前)

最近の悩みは、対峙するスタッフに対して最初に自分が抱いた印象を払拭することができなくなっているということです。

むかし、初対面で「この人はこんな人」と感じたらその評価を何年たっても変えない上司がいました。新人時代にミスを犯した看護師さんのことを最後の最後まで信用していなかったことを思い出します。「人は経験するにつれて学習して進歩するのだから、何もわからなかった新人の印象のままで評価されるのは、さすがにかわいそうだよね」と、自分たちの同僚に対する仕打ちを陰で非難していたものでした。「AB型の人ちゃ、あげえある」とか云いながら(笑)

それが、どうも自分もそんなところがあるのではないかと感じるようになりました。云い方は悪いけれど、以前の私は相手を買いかぶっていたのではないか? 失敗はするけれど気付いていないだけなのだから、注意さえすればできるようになるはずだ。仕事上の考え方は経験値だ。そう思っていたけれど、どうもそうではない。保健師さん、技師さん、事務員さん、いろんな方が居ます。何も云わなくてもきっちり先の先を考えながら仕事をする人もいれば、指摘をすればできるけれど自分では気づかない人もいます。さらに、指摘をしたときに分かったふりをしているけれど何も理解していない人もいます。仕事で何度も接していれば、相手がどのパターンの人かはすぐに分かります。能力といえば能力ですが、心構えの差とも云えるしキャラクターとして一括できるものでもあります。 (つづく)

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めくらばん※

※差別用語として放送禁止用語などになっていることを承知の上で使っています。

職場では公文書の回覧が毎日のようにあります。偉い人から順番にあちこち回ってきている文章。いつ見ても間違いだらけだから、極力細かく読まないようにして印鑑を押すように心掛けている昨今です。「これだけ色々な人が目を通しているのに、あからさまな間違いがそのまま指摘されていないということは、要するに、みんないい加減に印鑑を押しているということですよね!」と数年前までは息巻いていましたが、馬鹿らしいのでやめました。偉い人が印鑑押している以上、今更書き直しもしないのでしょうし、それが公文書として保管されたところで二度と見られない可能性の方が高い文章。わたしには今後の人生で何の影響も受けないであろうことに目くじら立ててもしょうがない、と高血圧治療中のわたしはしみじみ思うわけです。

もちろん、公文書なのに、いい加減な文章を確認・訂正することなく提出しても気にならない人は、人間として信用に値しない人なのだから、そういう位置付けで対応はしています。そんないい加減な人間を信用しても、しっぺ返しは自分にしか返ってこないのだから。

だから、たとえ事務方が勝手に書いた文章でも、わたしの名前を使って書いてくる公文書だけは簡単には容認しません。それがわたしの文章として先々まで残るからです。彼らは、「任せてください、わたしたちは文書書きのプロですから」と胸を張っているけれど、わたしがその気になったら提出された文書の半分以上を真っ赤に校正してやれるだけの自信はあります。彼らは、偉そうにしているけれど日本語をまったくわかっていなのだから。文書の責任者が誰か、自分は当事者か承認者か、それだけで気合の入れ方は全く違うのであります。みんな心したまえ!(笑)

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痛い!

「痛ぁ~い!」「暑いなぁ~」「悔しい~!」

思わず口にするこういうコトバ。もちろん、周りに他人がいればこその意思表示だから、他人が見ている中では思わず口にすることはよくあります。『わたし』がどう感じているのか、口にして表現してあげないと周りにはわからないから。だから逆に、そんなことを云ってもしょうがないような人たちの前では思っても口にはしない。それが、オトナのTPOというもの。

それでは、これが独りだけのときはどうか? 誰に訴えるでもないし、誰も聞いてはくれない自分自身のココロの叫び。この、ココロの中で叫んだことを独りなのに口にしていることが、わたしは少なくない気がします。たしかに、口にした方が心の中で噛みしめておくより苦しみが和らぐ感じはします。でもなんかそんなことではなくて、ココロの中の叫びを気づかないうちに口にするという”子どものような行動”は、もしやテレビドラマや映画などの影響なのではないかしら。昔と違って最近のドラマは、ト書きになりそうなことを役者に喋らせて説明することが増えてきている気がします。それの影響ではないか、と。 あるいは、最近は人生の大半が独りの生活という人が増えた中で、彼らの処世術である独りごとの1つでしかないのか。

先日、机の角に膝をぶつけて「あいた!」と叫び、「くそ~」と独りボヤきをした後で、所用で家の玄関を出るなりあまりの暑さに、「あっちいなぁ!」と叫んだわたし。やっぱり、独りでもいっぱい喋るわ。

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臭い?

「この診察室、なんかカビ臭いでしょ」

ほんの1ヶ月弱前のこと。朝、診察室に行くと、スタッフのお嬢さん方が妙にバタバタして、ドアを開けたり空気の入れ替えをしたりしていました。エアコンを冷房に切り替えたために蔓延っていたカビか何かが臭ったのでしょうか? あ、いや、わたしは何も臭わなかったもので、何が問題だったのかよくわからなかったのですが。

「偉いなあ」と感心しました。きちんと始業時点では何も臭わなくなり(わたしは最初から臭わないのでわかりませんが、みなさんがそういうので)、「あとで空調担当にきちんと調べてもらうように依頼しておきました」とまで。抜かりはありません。この程度の臭いは自宅では日常茶飯事ですし、さほど不快感を誘うほどのものでもないと思うのですが、お客さん相手ではそうもいかないのでしょう。この迅速で的確な対応を、若いお嬢さん方がきちんとしてくれる・・・これが、うちの施設が信用される大きな要因なのであります。

そういえば、数年前までは外につながるダクトを通して、診察室にタバコの臭いがひどかった時期がありました。敷地内禁煙のために道で喫煙する人が多くなったせいでした。あのときには、「臭い!」としつこく訴えましたが、施設担当者が意外にピンと来なかったのを思い出します。本人が喫煙者だから違和感がなかったのでしょう。あの臭いが最近は全くないのだけれど、スタッフみんなが完全禁煙できるようになったとは到底思えないので、ダクトの排出口の場所を移動させてくれたのでしょう。臭いに対する快・不快の感覚は千差万別ですが、過敏になり過ぎずいい加減になりすぎず、客観的に判断して、これは公の施設の臭いとしては許せるものかどうかの見極めは、大事ですね。

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越えられるか、60歳の壁

他人事だと思っていた還暦の節目が1年以内にやってきます。そんなもの単なる”人生の通過点”だと思っていましたが、近づくにつれて何も見えなかった大きな壁が目の前に徐々に姿を現して立ちはだかろうとしています。『厄明け』のときに感じた”別人への変ぼう”と同じくらいの感覚の変化があります。あのときも、「『厄明け』とかいったって単なる通過点なのだから何も起きるはずがない」と高をくくっていたら、一気に高血圧症になり、交通事故から頚椎ヘルニア・腰椎ヘルニアとなり、父が変死を遂げて、ばたばたと。

いままでは、「これだけ生活に注意して若さを保とうとメリハリのある人生を送っているのだから、大丈夫だろう」と自信を持っていたのですが、今まで経験したことのない大病を患うのではないか、脳卒中で倒れて寝たきりの介護が必要なカラダになるのではないか(あるいは妻が)、妻が倒れて独居老人になるのではないか・・・そんな不安がぐいぐい波打って押し寄せてくるようになりました。厄明けのとき以上の波が押し寄せるに違いないと思うようになってきています。社会的な変化も含めて、とても不安です。

若さを保つために筋トレや運動に余念がなかった時期、「人間は年齢相応の年取り方をしないと歪みが出ます」とどこかのドクターが云っているのを聞きながら、「バカ云ってんじゃねえよ。やった者勝ちだよ」と反論していましたが、しわしわの年寄り顔で若い者のような筋骨隆々の筋肉であるのは”不気味すぎる”と感じるようになりました。食べても若い頃ほど太らないし、激しい運動でなくてもほどほどの身体活動をしておけば体力は維持できることを実感するし、小便のときの沈黙はさらに長くなり、老眼鏡を使うのに何の抵抗もなくなってきました。自然の摂理に抗うことなく、悠々自適に与えられた運命に従って生きるのみ・・・なんて心境が少しずつ分かるようになってこようとしています。合掌。

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