日記・コラム・つぶやき

酒のつまみ

最近、夕食の食卓がとってもシンプルです。ヨシケイの料理だからだというのもありますが、つい数週間前まではもっと何品も料理が並んでいたような気がします。アレルギーが年々多くなって自分で食べられない物が増えてきた妻ではありますが、そもそも料理好きでしかも自他共に認める料理上手ですから、作ろうと思ったらもっとたくさんの料理をちゃっちゃっと作ってくれることでしょう。まあ、わたしも妻も、あるいは偶にやってくる友人も、若い頃より少食になったので「作りすぎてもなぁ」という思いはあるのかもしれません。

でも、夕食の食事内容が変化した一番の理由は、わたしが晩酌習慣を基本的に止めたことによるのだろうと考えています。夕食の準備をするときに、これまで何年もまず「これを酒のつまみにして先に始めといて」というパターンで料理が出ていました。「うちは小料理屋ができるよね」と自分で云うくらい、妻の料理は酒のつまみにうってつけの量と味なのです。それを食べながら酒を飲み始めるもので、いつからが晩酌でいつからが夕食なのかよくわからなくなるというパターンでした。それが「原則として夕食前に酒を飲まない」と云ったものだから最初からメインディッシュになって、主菜と副菜というシンプルメニューに変わったわけでしょう。

晩酌をするとき、「酒のつまみとしての料理」なのかそれとも「料理のアテとしての酒」なのか、と考えたことはありますか。わたしの中学時代の同級生は「ボクは明らかに後者だね。おいしい料理を食べるときにそれが活きるような酒を選ぶから、まず料理ありきだね」と断言していたのを思い出します。わたしは明らかに前者。酒を飲むためにそのつまみになる料理を見繕うわけで、云うならば「酒さえあればつまみは何でもいい」というパターンです。のんべーに云わせれば「そんなのどっちでもいいよ。とにかくおいしい酒とおいしい料理を一緒に食べられるのが最高さ!」と締めくくるわけでしょうけれど・・・でも、最近その違いがちょっと気になるようになってきたわたしです。

 

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肝に銘じます

「黄門様のご恩は一生わすれません。今おっしゃったことを”肝に銘じて”死ぬまで精進いたします」

リバイバルのテレビ番組『水戸黄門』を見ていると、よくこのことば=『肝に銘じる』を耳にします。
※肝に銘じる=しっかり心に刻み付けて忘れないようにしておくこと

日本人なら、学校で教わったわけでもないのにいつの間にか身についていることばの一つですから、おそらくテレビか小説かで学習するのでしょうか(それなら今後、若い人たちの中に意味を理解しない人たちが増えてそのうち死語になるのかも)。ただ、この『肝に銘じる』ということばは、「”こころ”に刻みつける」という意味なのに、決して『心に銘じる』とか『アタマに銘じる』と云わないのはどうしてなのでしょう。それほど肝臓は信頼できる臓器なのでしょうか。

むかしから『肝心(腎)要(かんじんかなめ)』と云うように、日本人にとっては太古の昔から肝の方が重んじられていたことは推測できますが、もしかすると「こころ」は移り気なものですぐに忘れてしまうものだから信用されなかったのでしょうか。肝臓は物云わぬ臓器でありながら生命の源の全てを制御するもの。決して裏切ったりしないもの。そうですよね、それが肝臓ですよね。わたしは『かんじんかなめ』と云ったら『肝心』ではなく『肝腎』を思い浮かべます。肝臓の次に信用できてしかも生命維持に重要な臓器は腎臓…循環器内科医としても心臓の方が重要だと云いたいところなのだけれど、やはり心臓は『こころ』と書くだけのことはあって、すぐにごまかしたりウソをついたりする臓器だから、どこか軽い。まあ、それが取り柄なのでしょうけれど、こういうときには二の次、三の次に回されるのもどこか理解できます。

 

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「ぎっちょ」

「有名な〇〇さんが料理を食べていたけど彼は左ぎっちょだったよ」と友人からLINEがきました。

『ぎっちょ』とは久しぶりに耳にすることばだ。左利きの意味で、子どものころには普通に使っていたのに、どうも『ぎっちょ』は差別用語だとして世間が使わなくなったから、世の中から消えて行こうとしている単語のようです。どうして差別用語なのか、それはむかし(わたしが子どもだったころ)少数派の左利きを縁起の悪い奇形として忌み嫌われていた歴史の中で『(左)ぎっちょ』と呼んでいたことによるもの、と云うのが正解なのだろうと思います。だから子どものころにわざわざ右利きに矯正された友人がたくさんいました。まあ、日本では世の中のものが全部右利き用に作られていたから生活する上で不便だと云うこともあったのかもしれません。

でも、語源を遡ると、『ぎっちょ』は『器用』から転じたことばだと云うのが定説のようで、どちらかと云うと悪いことばではなかったのではないかと推測されます。「左手を器用に操れる」ことを指しているのでしょう。確かにわたしたち右利き凡人は、密かに左利きに憧れて、箸を左手で持ってみたり文字を左手で書いてみたり、そんなことを一度はやってみた経験があるはず。因みに、『ぎっちょ』ではなく『ぎっちょう』が正しいのだとか。今は差別用語扱いされているのだからどっちでもいいのかもしれませんが、『左器用(きよう)』から転じたことを理解するには『ぎっちょう』の方がわかりやすいです。

今回、『ぎっちょ』を検索してみて気づきましたが、確かに『不器用』のことを『ぶきっちょ』て云いますね。『ぶきっちょ』は差別用語じゃない気がしますけど、どうなのでしょう? もしそうならちょっと理不尽。まあ、ことばの文化は理屈ではないですからね。

PS)調べていたら『酒飲みのことをなぜ「左利き」というのか?』という解説文がありましたが、こればっかりはそもそもそんなことを云うこと自体を知らないから、本当にどうでもよかった雑学でした。

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痛みに慣れる弊害

ここのところ、横になっていたり座っているところから立ち上がるときの腰痛が半端ありません。しばらく歩いているとすぐに何もなかったかのようになりますが、また座って仕事したり食事をとったりすると、その後にすぐには立ち上がれないほどの腰痛。症状はかなり強いのだけれど、こんなことはわたしの長い人生の中、特にこの10年くらいの間には何度か周期的に襲ってきたことです。最初のころは「なぜこんなことが起きる?」と原因究明に躍起になっていました。カラダに起きる異常には必ず何らかの原因があって、それがはっきりしないと治療はできないと思っていましたから。「腰痛症は原因がはっきりしないことが多いんですよね」と専門医のコメントをマスコミや学会などで聞いてはいたけれど、それは本人の感じ方の問題で実は大したことないのに本人が大袈裟に思っているパターンが多いのだろうと全く他人事に考えていました。わたしのようなこんな痛み方はどう考えても気のせいではないし、持病の腰椎ヘルニアや筋肉疲労やあるいは『ギックリ腰』が原因に関わっているに違いない、と。

でも、それを何度か経験していると、「別に原因がなんでもいい。治ればそれでいいのだから」と思うようになり、「今はこんなに痛いけど、そのうちウソのように治ってしまうことは経験値で知っているから大丈夫」と考えています。今回もきっとそうでしょう。でもこれ、本当はいいことではないのでしょう。「いつものことよ」とやり過ごすと新たに生じた重篤な病気を見逃す危険性があるから。「しばらく様子を見ていつまでも良くならなかったら早めに専門医を受診してくださいね」と他人には云っているけれど、さて自分の場合にはその重い腰を上げるタイミングがなんか遅れてしまいそうな気がします。

慣れっこになっている病気に尿管結石もあります。ちょっと腰が重いと「もしかしたら石かな」と気軽に云い、ペニスの先っちょがちょっとチクチクしても「石が膀胱に落ちたのかな」と動じない。なにしろ『石博士』を自称している身ですから。これこそ、膀胱がんや尿管がんを見逃してしまいそうでちょっと気にしてます。でも多分、泌尿器科に行くのは2年前のような嵌頓状態になったレベルになるまでないだろうと思うのです。病気慣れした医療従事者は一番厄介な存在です(笑)

 

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腹鼓・舌鼓

「お腹をポンポン叩くの『はらつづみ』って云うよね」と妻。

「何云ってるの。それは『はらづつみ』でしょ!」とわたしが反論。

「太鼓のように叩くのだから、鼓=つづみじゃないの。あなた時々変なこと云うよね」

「おかしいのはあなたの方でしょ」

そう云って検索をしたら、完全にわたしの負けでした。妻の云うとおり、『腹』+『鼓(つづみ)』なのだから『はらつづみ』なのだそうです。まあ、冷静に考えるとその通りです。でも、わたしのアタマの中には『はらつづみ』『はらづつみ』『はらつづみ』・・・と何度も声に出して発音してみても『はらづつみ』の方がしっくりくる感じがしてならんのです。実は、そんな人が世の中には多いようで、検索したどの記事を見ても「正式には『はらつづみ』だが『はらづつみ』とも読む」と書き足されていました。なぜ、そんな誤用がまかり通った上に正式に認めてもらえるようになったのか・・・「そっちの方が発音しやすいから」のようです。

同じような単語に、『舌鼓(したつづみ)』がありますが、これも『したづつみ』でも可なのだそうです。まあ、誤用を正解だと思い込んでいたわたしとしてはありがたいことではありますが、誤用は誤用なのだから、頑なに「『●づつみ』は間違いだ!」と突っぱねてほしかった。でも最近はこういうパターンは少なくありません。コトバは文化、だからこそ元々の意味がどうであれ、たとえ使い方が明らかな誤用であれ、そっちを使う人が多ければそれも正解となるというのも分らないでもありません。これもまた、ある意味『多様性』の表れなのかも。

重ね重ね、勉強になりました。

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エレベーター

わたしがエレベーターに乗らないのは皆に周知されてきたので、わざわざわたしのためにエレベーターを閉じずに待ってくれているスタッフは居なくなりました。むしろ、エレベーター待ちをしている横を通りすぎて階段に向かっているわたしに対してバツが悪そうな顔をして目線を逸らしたりされます。

思えば、2011年、東日本大震災の折、日本中がエネルギー不足となりあちこちの電気が消されて暗いコンビニや暗い空港がその象徴となった時がありました。「省エネのためにエレベーターに乗らずに階段を使いましょう」という合言葉で、うちの職場でも管理者が率先して階段を上がり下がりしました。「かえって健康を手に入れるからラッキーだ! 発想の転換をしてピンチをチャンスに変えましょう!」と職場を挙げて宣言していたじゃありませんか。それなのに、今はそんな面影すらない。エネルギー事情が回復するやいなや、かつて率先して歩いていた管理者がいち早くエレベーターを利用するようになりました。

若い世代がすぐ横の階段を尻目にエレベーターを待つのはまだわかります。彼らは生まれた時からそこにエレベーターがあった人たち。「そこにエレベーターがあるのにどうしてわざわざ無駄な労力を費やして階段を上る必要があるの?」という思いは、おそらく彼らの親世代がそう思っていたからでしょう。彼らが将来退化によって下肢筋力を失うとしても、それは別に困らないこと。きっとその代用機能が開発されるでしょうから。でも、管理者世代が我先にとエレベーターに載ったのはちょっと残念でした。「管理者がエレベーターに乗ろうとしているのに、私たち一般職員が階段上ったりしたら失礼ですよね。なんか嫌味みたいで」とまことしやかな言い訳して一緒に乗っていた連中ともども、早くどこかカラダ壊して後悔すればいいんだ! なんて、そんな意地悪なことは云いませんけどね。

そういえば、新型コロナウイルスがまだ殺人ウイルスだった数年前でも、東日本大震災のころと違って、エレベーターには皆さん乗っていましたよね。満員そうなら一機遅らせてでも乗っている様子を傍から見ていたような記憶があります。生活変容というのはなかなか難しいものなのだなとつくづく思います。

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オーラがない

「先生、私服だったから全然気づかなかったです」
先日、産業医に行くためにワイシャツとスラックスに着替えて廊下を歩いていたら職場のスタッフにそう云われました。

そうなんです。私、本当に全然オーラがないんです。職員健診で健診着に着替えるとだれからも気づかれなくなります。自分の職場の外来を受診してもほとんどスタッフに気づかれず(もっとも若いスタッフばかりだからそもそも私を知らない人だらけだけど)、先日の内視鏡治療を受けるときなんかも、「はい、それじゃあ今から始めますね~」と施行医がやってきて名前をみて「え、先生じゃん!」と驚いたりなんかされました。

私、白衣着てなかったらただのジイさんなんです~。

 

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”感情失禁”に負けない

ブログ再開の最初の文章がこれなのはきわめて不本意ですし、いちいち他人様にお知らせする内容でもないと分かっているのですが、今の感情をどこかにしたためておかねばと思うとき、ほとんど読者がいないであろうここくらいしか吐露する場所がないのであります。

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昨日から、仕事中や運転中やあるいは散歩中や、何の誘因もなく突然涙が出てきそうになる現象が起き始めました。ものすごく寂しくて虚しい感情のつむじ風が突然吹いてくるのです。それは以前、熊本地震に襲われた一年後くらいの通勤途中に経験したのと同じようなものですが、あの時よりもちょっと厄介だろうことを自分なりに感じています。いわゆるうつ状態の一つだと思います。

わが家の愛犬が、もうすぐ満15歳になるというのに突然悪性度の比較的高いリンパ腫であると診断されました。余命を宣言された中、ステロイドの効果で今はものすごく元気に飛び跳ねています。その一過性の元気な姿を見るのがかえって心を重くさせていることはちゃんと認識しています。さらに突然降って湧いてきたわが家の経済的不安の嵐。まあまあの高給取りなのに毎月目減りしている預金額を見るたびに心は折れそうになります。それに気づくまでは、旅行に行きたい、服を買いたい、美味しいものを食べたい、という欲望の妄想に耽ることが日常だったのに、今はそんなこと考える気にもなれません。如何に金を使わないかしか考えられないのです。夫婦も周りも日に日に歳老い、終活も進めなければと思うのだけれど、何をするのも面倒で「どうでもいいや」と思うようになってしまっている自分。そんな姿を客観視する自分。そして連日の異常気象と水面下で蔓延しているウイルス疾患野社会。今の“感情失禁”の嵐の原因は、こんないくつもの心の内外のつむじ風が入り乱れて襲ってきているせいであるに違いありません。さっきは他県に住む叔父が昏睡状態だという連絡も届きました。

うつだから専門家に相談すべきなのかもしれないけれど、どれをとっても他人に相談しても何も解決しないだろうものばかりだから「話しても無駄」と考える。「これは病気だから、無駄だと思わずに専門家に委ねるのが得策」と他人には進言するけれど、それがわかっていても自分では受け入れられない。矛盾した話です。

さて、そんな自分に今日から課した方策は、とりあえず目の前の一つ一つを端折らずにきちんと丁寧にこなすという事です。朝、スヌーズ機能を使わずに目覚まし時計の合図で起き、朝のルーチンワークで時間がなくなろうともきちんと自分で決めたスクワット運動は決めた数だけこなし、昼間に歩くことにしていた歩数はきちんと到達させ、仕事の一つ一つを丁寧に行なってミスをなくすように心掛け、帰宅したら早めに風呂の準備をしてワンズの散歩に行く。毎日やってきた当たり前の日常を、とにかく粛々とこなすことに専念することにしました。「めんどうくさい」と思わず、「考えてもしょうがないことは考えない」ようにする、そんなシンプルなことが今の状態を乗り越える手段として有効なのか無効なのか、そんなことはまだわかるはずもありません。

 

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こころが荒んでいます

最近の自分の投稿を眺めながら、そして今書きかけの下書きを眺めながら、

「こりゃいかん」と思いました。

論文の批判とか、日常のグチとか、ネガティブ思考の内容ばかりではありませんか。

これはそもそものこのブログ書きの趣旨に明らかに反しております。

きっと、最近の日常生活の不安うつに起因した荒んだこころが原因なんだと分析しております。こういう時はあえて何も考えず、何も書かないのが一番なのだと心得ております。ただただこのブログ、しばらく書かないとすぐに草が生え始めるシステムだということを知っているから、読者もいないのに何となく「書かなければ」という焦り感に苛まれているだけ。

勇気を持って、今月いっぱい、休刊にいたしましょう。まあ、前向きな話題が書けた時だけこっそりアップするかも。

それではみなさま、ごきげんよう。

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渋滞報道

「どうしてテレビ局って、やり方を何十年も変えないんだろうね」

いつもの様にお盆の高速道路の大渋滞を報道するためにわざわざその渋滞の流れの中に車を出して身を置きながらレポートするライブ動画を見ながら、妻が呟きました。「あなた方が、その大渋滞をつくる一因になっているのだから、意味のない移動をするな! 用事があって渋滞にハマっている人たちにとって迷惑以外の何ものでもないのだぞ!」とずっと昔から批判を浴びていても、必ず各社がこれをやる。

「バブルのころはヘリを飛ばせた事もあったけど、あれはあれで顰蹙だったしね」
「渋滞情報なんて、定点カメラの映像で十分でしょ」
「今なら、ドローン飛ばせればいいんじゃないの?」

まあ、けだし正論であります。第一、そのテレビ報道を見ているのは茶の間の渋滞に関係ない人間、ほとんど野次馬的な連中。移動中の車の中のナビで見ている連中は、そんなの見てもイラつくだけで何の参考にもならない・・・このリアル報道の恩恵を受けている人なんて、ほとんどいないに違いないです。

台風報道や大雨災害報道も相変わらず。さすがに風に吹き飛ばされそうな”新人の登竜門”みたいなライブ配信はなくなりましたが、それでもわざわざ大雨や嵐をバックにしてマイクを持たされます。「要らないでしょ、その画」「一般の人からの投稿動画の方がはるかに臨場感がある」と世間も大多数の人が思っているはず。社屋の屋上カメラの画像を見せながら声だけレポートするので十分ではないのかしら。

と、このシーズンには毎回思うのですが、一向に進歩がない。これでは、たしかにテレビ離れされてもしょうがないでしょう。

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