日記・コラム・つぶやき

ちっとも成長してないということか

この季節は、玄関のヒメコブシの落ち葉を掻くのが日課。晩秋の落ち葉ほどドサッとは散ってこないけれど毎日少しずついつまでも散ってきます。夏の落ち葉はそんなもの。

で、これを出勤前と出勤後に掃きながら毎年思うのです。こうやって律儀に掃いているからキレイを保てるけれど、わたしが毎日それをしていることなんて周りの家の人は誰ひとり知らないのだろう。散ったままの枯れ葉が道を塞いでいるのを見ている人はそれがキレイになったのを確認して「ああ、ちゃんと掃いたんだな」と思ってくれるだろうけれど、最初に汚かったことを知らない人は、わたしがどれだけ汗水垂らして掃いていたとしても、別に何も変わってないと思うだけだから。

誰も見てないところで善行やっても誰からも認めてはもらえないんだよね、とか愚痴る。でも、神様はいつも見ているのよ。誰も見ていないようで、ちゃんと誰かが見てくれているものよ。駐車場の向こう側のアパートの住人とか、近くの家の二階の窓からとか・・・。でも、善意は見返りを求めたら善意ではなくなるモノよ。なんてなことを考えていること自体、まだまだ人生の修行が足りんな。

そんなことを思い、書き記してみたモノの、いつか同じことを書いたような気がして検索してみたら、やっぱり3年前の夏に書いてあった(『夏の落ち葉』 )・・・還暦過ぎても、ちっとも成長してなかったことだけが確認できたわけだ。なんか、3年前より打算的な考え方が板についてきている気がしないでもない(笑)

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かがみ

最近、ゆるゆるのカラダになってしまったわたし。ちょっと小走りしても、「どぼん、どぼん」と音を立ててお腹が揺れております。

そんなわたしが、最近、「いいね」と思っているのが、かがみ。入院中の妻の付き添いで何度も新幹線に乗りましたが、新幹線ホームのトイレに入ると必ず姿見があります。我が家にも玄関に姿見があります。かがみの前を通る時、ちょっと構えるようになりました。昔は無防備に前を通っていましたが、今は違います。自分の目に飛び込んでくる自らの姿を虚像でもいいからできるだけかっこよくさせたい。だから、前を通る前にできるだけ胸を張ってお腹を引っ込めてちょっと顎を引いて、「これでよし!」という確認をしてから、歩き始めます。

これ、大事。自分の姿を客観的に目に映すことで自分が頑張れる。最近は、夜中にトイレに起きた時もトイレのかがみを前にちょっと胸を張って斜に構えて、「よし!」とか口に出してから用を足したりしているわたしです。それが、なにか?

かがみを見る度にかがみの前に立ってポーズを取る、というのはアンチエイジングのために絶対大事なこと。どんだけお腹を引っ込めても実態は変わりはしないことは分かっているけれど、姿勢を正してお腹に気合を入れれば何とかなることを確認して、「よし、頑張るぞ!」という気持ちになることが大切だと思っています。「ま、いい歳だし。しょうがないか」と思った時から老化は加速度を増すのであります。

まあ、「よし、まだ何とかなるな」と安堵して、グウタラな人生を送っていたら意味がありませんが・・・。

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やる気が落ちた

60歳になった途端、わたしの中で明らかに何かが変わった。職場の定年は数年前から65歳に引き上げられたから、基本的には何ら変わらない毎日を送っています。役職も給料も待遇も変わりません。

なのに、何かが違う。ひとことで云えば、『やる気』が落ちた。『やらなければいけない』という思いが湧いてこなくなった、と云った方が正解かもしれません。週末だけでなく、平日にも家では何もしない。夕食を済ませて、ワンの散歩を済ませて、ぬるめの風呂にゆっくり浸かって、スマホをいじる間に眠くなるので床につく毎日。スマホのToDoリスト(リマインダー)には遊びの予約しか書かれていない。予定表は有休と振休の日の確認ばかり。

そういう事にものすごい不安があったのに、特に気にならなくなりました。どこかで社会的にエキストラになった感覚に満たされてしまったのだと自己分析します。自己啓発のために、仕事上でちょっと疑問に思った事を検索して勉強して記憶しておく、なんてこと、もう必要ないと思ってしまうのです。依頼された講演も全部断るようにしたから、一層新しい知識の吸収は必須ではなくなりました。老化防止のために運動や食事や睡眠やなんて考えていた事も、急にどうでも良くなってきたし・・・。

同級生と酒を飲み交わしたりすると、還暦を超えて会社の経営トップとして日本を引っ張る立場になっていく人、還暦で定年退職したのをきっかけに新しい事業を手がけようとする人、新しい資格を取るために勉強を始めた人、今までやれなかった趣味を始めようという夢を語る人、などなど。みんな、偉いなあ。『悠々自適』というのは、わたしのようなやる気のない萎えオヤジのことではなく、きっと彼らのような生き方をいうのだろうな。

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味が落ちた?

「昔なつかしいあの定食屋、今もあるらしいけど、最近味が落ちたと云う噂を聞くようになってちょっと寂しい気もします」
先日、そんな話が出てきて、若いころに遅くまで働いては帰りに同僚や先輩方と行ったお店のことを思い出したりしました。もう30年以上前のこと、そりゃ、当時店を切り盛りしていた店主も高齢化したり代がわりしたりいていることでしょう。それでも長く続くというのは大したものです。

老舗の食べ物屋の「味が落ちた」ということばは他でもよく聞きます。「先代までの味が懐かしくて久しぶりに行ってみたら全然味が変わっていてショックだった」とか。「できる限り先代に教わって語り継がれた味を再現したつもりなのに、やはり同じ味を出すのは難しいです」と恐縮する若大将。

そんなことを考えていた時に、ふっと違うことを思いました。「味が変わった」と嘆く、自分の味覚が変わったということはないのだろうか。味覚が鈍くなったというだけでなく、当時若かったころには好んでいた味が歳とともに好きでなくなるということはある。自分の記憶の中の味はあくまでも当時の若かった自分が覚えている味(味覚)…それを思い出しながら現実の今の料理を口にすると思い出の味には到底かなわない。そんな要素がないわけではないだろうと思うのであります。もちろん、時代とともに社会の求める味の潮流も変わってきますから、意図的(無意識かもしれないが)に現代人の舌に合う味にアレンジするのは有って然るべきことです。でもそれ以上に、自分の舌も長い年月の間に感性を変えてしまっていて当たり前だと思わねばなりますまい。

そう考えると、30年前の味が今と変わっているかどうか、作り手が変わっていれば尚のこと、比較なんてできないのかもしれません。昔の馴染みの店に行ったとしても、昔を思い出して懐かしいメニューを作ってもらったとしても、比較はしない方がいいのかもしれない。

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ナイチンゲール

「今朝来た看護師さんが、初めて『カーテン開けましょうか?』と声をかけてくれたよ」

抗生剤の副作用による出血性腸炎で緊急入院していた妻がLINEにそんなメッセージを入れてきたのは、入院から4日目の朝でした。水を飲んでも激しい腹痛と下血に襲われてプレショック状態で救急外来を受診して、そのまま病棟の個室に入院した彼女は、点滴スタンドを押しながらトイレとベッドを往復するばかり。朝になっても窓のカーテンを開ける気力すらなかったわけですが、それまで部屋を訪問して処置や検査をそつなくこなして行ってしまった若いナースの誰一人として、分厚いカーテンが締め切られて薄暗いことに何も言及しなかったわけです。「ここの病院の看護師さん、特に若いナースは見るからに余裕がなさそうで、記録を書き落とさないこととルーチンワークをミスなくこなす事に精一杯な感じ」というのがOBである彼女の感想。だから声をかけることもなく薄暗い病室の中(部屋の電灯のスイッチの位置も教えてもらったのは入院2日目の夜だったそうです)で悶々とベッドに寝ていたら、Mさんというナースが「おはようございます」と元気に部屋に入ってくるなり、「暗いですね。朝だから中庭のカーテン開けましょうか?」と声をかけてくれたのだそう。「なんかすごく元気をもらえた気がした」と夕方部屋に訪問したらそんな感想を妻は語っていました。友人にLINEしたら、「やっとナイチンゲールが現れたって感じだね」と返事が来たそうです。

もちろん最近は必要のない事には立ち入らないのが暗黙のルール。「結構です」「開けたい時には私が勝手に開けるから放っておいて」と答える患者さんも多いのかもしれませんし、必要なら患者の方から「カーテン開けてくれますか」と声をかけるもの、なのかもしれません。それでも、緊急入院して薄暗い個室で独りでいる心細さと不安感といったら尋常ではないでしょう。ナーシングの概念からすれば、命に関わるいろいろをミスなくこなせることと同等に、患者さんの心の不安をきちんと察知するのも仕事であることを忘れてはいけないぞ、とそんなことを感じた次第です。

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対岸の火事

「やっぱり、『対岸の火事』なんだよね。大地震のときもそれを強く感じたけれど、今回の病気の宣告を受けたときも、同じ事を感じたよ」と妻がしみじみ云いました。

東日本大震災のとき、心から痛ましいと思い節電にいそしんだけれど、結局は他人事だったことは、自分たちが二度の未曾有の大地震を経験してよくわかった。まさか自分たちにこんな災難が押し寄せるなんて考えもしなかったから、自分が生きるか死ぬかの思いで逃げ惑ったときに初めて東日本大震災の被災者の方々の気持ちがわかった、と。それと同じように、「質の悪くないがんだから大丈夫だよ」「手術なんて大したことないよ」などと客観的な目で友人や知人にアドバイスしていた自分が、いざその当事者になると、全然違う風景になって見えてくる。今からいろんなことを体験しなければならない。麻酔をかけられて手術を受けて、100%うまくいくとはだれも保証してくれていないし何が起きるかわからない。大きな傷ができてしかも一生ホルモン剤を飲み続けなければならなくなった、なんてことが自分に降ってかかるなんて、今でも信じられない。「あ、あれはなにかの間違いでした」って頭を下げられるのではないか?とかいまだに思ったりする。

そんなことを云っておりました。先日、職場のスタッフに話したら、「●●病院はすごく成績が良いらしいですよ」「大丈夫ですよ、あの組織型は大部分が静かだから」と冷静に、いとも簡単に受け流されました。そう、その程度の病気なんだよな、そんなことはわたしも知っている。でも、そんなことを云いながら去って行ったくだんのスタッフさんが、いざ当事者になったら、同じ事をさらっと云って軽い思いで手術を待つことができるのだろうかな、なんてなことを考えました。

本当は今日から入院して明日が手術の予定でしたが、妻は思いがけない違う病気で緊急入院してしまいましたから、手術は延期になりました。まだまだ何が起きるか分かりません。

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自律神経のこと

妻が甲状腺を患って、今度手術を受けることになりました。自覚症状は何もなくて、まったくもって青天の霹靂。激しい頭痛発作を起こして脳神経外科を受診してCTに何も問題がないことを確認し、その足で整形外科を受診して頸椎でもないことを確認したものの、「念のために一度は脳のMRI検査を受けておいた方がいい」と勧められたから家族健診のときに脳ドックを申し込んで、そのときの頸部血管エコー検査でたまたま甲状腺腫瘤が大きくなってきていることを指摘され、念のために専門医受診を勧められ、5年ぶりに受診した専門医で念のために行った針生検で悪性所見が発見されたわけです。

「最近、妙に蕁麻疹が出るのよね。これって、この病気と関係あるのかしら?」と先日、一緒にワンの散歩をしていたときに妻に云われました。もともとアレルギー体質ではありますが、最近はイヌの散歩ひもを強く握ったとかバッグのひもを握ったとか、そんなことで赤く腫れ上がるようになってきて、ちょっと尋常じゃないのだと。

もちろん、ホルモンの異常があるわけでもないし全然因果関係のありそうな話ではない、と専門家は思うのかもしれませんが、わたしはふと以前読んだ『心臓の暗号』(ポール・ピアソール著、角川書店)を思い出していました。身体中をパトロールしている自律神経がどこかでうごめいている体内の異常を見つけ出し、それを違う形で表現するというもの。悪性腫瘍がまだ細胞レベルで増殖していることを知らしめすために「心臓が泣いてる」と感じるいろいろなことが起きるとか。こういうことを考えると、妻の突然の頭痛や突然の尋常ではない蕁麻疹は、たしかに自分の体内から自分に発する警告灯だったのかもしれません。

「今度手術して、アレルギー症状が軽減するようなら、シグナルだったのかもしれないね」と答えました 。

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息を吸ってください。

外来の診察ではなく、住民健診でもなく、人間ドックの診察。

聴診器を当てて「息を吸ってください。吐いてください。息を止めてください」と云いながら呼吸音や心音を聴き取ります。

この時に、「息を吸ってください、吐いてください」というところを、「息を吸って」「吐いて」「止めて」と命令口調になることが時々あります。だって、まどろっこしいし、話していると音が十分聞こえないので自分の発する言葉は最低限にしたいから。

でも、その都度、気になるんです。なんかこの命令口調は上から目線の極みでしょ。病気で病院を受診しているわけでもないし、わざわざ高い金払って来てるお客さんにそんな偉そうな態度を取っても良いモノだろうか?と。そんなことを思うと、せめて何回に一回か(特に最後)は、「~してください」を盛り込むように心がけているわたしです。

謙虚でしょ。どっかの総理大臣や某大臣みたいに、何を云っても上から目線のしゃべり方になっても気にしていない(というか気付いてもいない)人は、何云ってるかすら分からないだろうなあ。

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引き水

やらなきゃなと思うことは今もたくさん山積みなのに、相変わらず動けないでいます。毎日同じ書類を持って帰ってそのまま持って出勤する。30年もの間ずっと同じことを繰り返して来たのだけれど、おそらく最近の方がひどい。あまり以前ほど義務感に駆られていないからかもしれない。どこか、エキストラの仕事人生だからと思っているところがある。

結局、最初の第一歩が踏み出せない(とっかかれない)からいかんのだけれど。で、一旦終了宣言をしたこのブログだけれど、最近ヒマに任せて時々こうやって書いてみたりなんかする。毎日の義務じゃないのでとても楽。で、先日ちょこと気になっていたことをiPadにしたためていたら、なんかそれが引き水になって他の仕事も一気にできたりしました。

わたしの愛犬セイラは気分が乗らないと1日全くフードを食わなかったりするのだけれど、彼女になんかのキッカケを与えると一気に完食する。あれと同じかな。

だったらまたブログを始めたらいいんじゃない?という人もおりましょうが、そうはいかない。そんなことしてたら、またそればかり考えて毎日文章に追われる日々になってしまって、かえって他の仕事どころじゃなくなってしまうことぐらい、百も承知さ(笑)

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番外:還暦祝いの挨拶(7/7)

(つづき)

わたしの考える予防医療はもちろん病気の早期発見ではありませんが、病気にならないように努力するのが予防医療だとも思いません。病気なんかに右往左往しないですむ生き方をしてもらいたい。病気と共存してもいいから、毎日の基本的な生活、特に食べることと動くことと寝ることが、努力しなくても一番の楽しみのまま一生を終えられるように導くのが予防医療だと思っています。

だから、保健師さんにも不満があります。みなさん、健診結果表を眺めるときに、良くなったところではなくて悪い所ばかり探しています。良くなっていても判定が同じ区分ならまだ不十分だと云い、もっと努力が必要だと云い始めます。皆さんは若いから分からないかもしれませんが、私たちの世代になると「ちゃんとがんばれば必ず正常値になる」ということはありません。生活を変えること自体がとても大変なことです。受診者の皆さんは口では「何もしていない」と云いながら、必ずこっそり努力している。だから結果を密かに期待しているんです。「何も変わってない」と落胆する受診者に「いや、あなたが努力している結果がここに出ていますよ」と、良くなったところを探し出してしてあげてほしい。「今はまだ変わってないけれど、このままやっていれば今から結果が出てきます」とか「こないだ受診した人は、こんなことを足してみたらうまくいったと云ってましたよ」とか、そんな経験値から繰り出すアドバイスこそが保健師さんの特権だと思うのですが・・・。

ま、いいです。そんな自分の考え方を組織に押しつけたいとは思いません。「そんなことお前の自己満足なだけだろ」「それが良い成果を導き出すという証明はあるのか?」などという人たちと議論をしたいとも思いません。ただ、私の求める予防医療がそうである以上、私は私に関わった人たちにだけには、これからもそんな寄り添い方を続けていきます。そんな偏屈爺があと5年間、居座ることをご了承ください。

本当に今日は、こんな場を設けていただいて、ありがとうございました。 (完)

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