日記・コラム・つぶやき

毎日のワンの散歩コースにあった大きな旧家が解体されました。トラックが何台も入って、毎日少しずつなくなって行って、とうとう1週間もしないうちにすべて壊されました。古い畳が重ねられ、大きな柱が何本も並べられているだけ。

そんな光景を見てしまったからでしょうか。ふと、我が家のことを思いました。夫婦二人のどちらもが居なくなれば、もちろんこの家は主を失うから解体するしかないだろう。そんな時は誰が解体指示をしてくれるのだろう。その前に、どちらか一方が死んだらどうするだろう。残されたひとりで、この大きな家に住むだろうか? 早々に売りに出してもいいが、特殊な間取りの不経済な空間ばかりの我が家は、普通に住むには住みにくいと思う。売れないかもしれない。

自分たちの人生ですらこれからどういう終活をしたらいいのか悩み始めているというのに、そんなハード面のことまで考えないといけないのかと思うと憂鬱きわまりない。『存在がなくなる』ということの大変さまで思いを巡らすと、もはや絶望的な気持ちになります。

ちょっと、疲れていますね。

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何も考えない焦り(後)

(つづき)

わたしは父の子、カエルの子。わたしも、しなければならない仕事は職場で仕上げてしまいたい、というか、「勤務時間内に仕上げられないような仕事はしない」と割り切ることにしました。わたしに与えられている仕事量は決してわたしの能力以上のものではありません。わたしよりも優秀な若いスタッフたちや同僚の医者たちが与えられている仕事を羨ましいとも思いませんし、間違っても横取りしたいと思いません。

先日地震の後の補修工事に来てくれた職人さん方は、その多くが関東から派遣された若者たちでしたが、彼らは決まった時刻になると何をしていてもすっと居なくなります。休み時間と昼休みと、呆れるほどにキチッと取って、そして、時が来たらどこからともなくサッと現れて、何事もなかったかのように仕事を再開し、そして決まった時間に決められた行程をきちんと仕上げて帰って行きました。今の労働者はこれが常識だと聞いています。これです。仕事時間内に仕事が終わらないのだとしたら、それは最初の工程表作りに誤りがある。昔のように、できなくてもとにかくやるべき内容をまず詰め込めるだけ詰め込んで、溢れた分を夜に残業したり持ち帰ったりすることを美徳とする時代ではありません。

自分の実力にあった内容で、身の丈の仕事をする。理想と完璧なる達成を得るためにかえって疲労困憊するようなことは、すべて自分で行わずに他人に任せる。もう、この歳になったら、そういう生き方でも、給料泥棒とは云われますまい。と、ここまで達観してしまったわたしに焦りなど微塵もありません。

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何も考えない焦り(前)

物心がついてから半世紀以上の間、わたしはいつも何かに追われて生きてきました。今日しなければならないこと、明日までにしなければならないこと、来週までに、来月までに・・・いつも頭の中はそんなスケジュール帳の管理で一杯でした。

それがここ数ヶ月、ほとんど何もありません。することがないわけではないけれど、あえて考えないようにしています。少なくとも夕方家に帰ってからは仕事のことを意図的に考えないようにしています。「いつも先のことを考えて頭を常に働かせて生きなさい」と云うのは、今は亡きわたしの職場のボスの口ぐせでした。「それをしないと人間はすぐに怠惰なブタになる」「どんどん退化して堕落していく」と教わりました。だから、最初は焦りと不安に苛まれていましたが、今は慣れました。こんな生き方ではクリエイティブにもアカデミックにもなれないかもしれないけれど、おかげさまで大して腐ってはいかない印象です。うちのようなアカデミカルな施設ではそんな輩が中間管理職にいては本当はいけないのかもしれませんが。

小学校の教師をしていたわたしの父は、夕方定刻にはきちんと帰ってきていましたが、一度も家で仕事をしている姿を見たことがありません。仕事を一切家に持ち込まず、定刻に帰ったら早々に風呂に入り、浴衣に着替えて茶の間から見える庭の季節の移ろいを眺めながら自分で料理した肴で熱燗をいただき、夜9時前には床に就き、翌朝は5時には起床する。そんなでした。「一体この人はちゃん仕事をしているのだろうか」と、同じように小学校教師をしていた母が夜中まで採点やら通知表作りやらしているのを手伝っていたわたしは、そのあまりの違いにいつも疑念を抱いておりました。彼が家で小説や盆栽の教本以外の書物を読む姿を見たのは昇格試験の前だけだった気がします。それなのに、きちんと仕事をこなし、多くの教え子たちから慕われていました。 (つづく)

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アタマにくること

アタマにくること
走行中の直前の割り込み。自分の前の車ではなくて、どうして自分なのか?

気分がいいとき
渋滞の中で割り込みクルマを入れてあげた時

アタマにくるとき
入れてあげたのにパッシングもせず当たり前の態度の時

シャクにさわるとき
早く通り過ぎてあげたら入れると思ってアクセルを踏んだら、後ろの車が止まって割り込ませてあげた時

そして何より情けないこと
こんなことに一喜一憂しながら、運転している自分。

まだまだ悟りを開けません。いやいや、開く気がございません。

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専門医監修?

昨夜、テレビ番組を見ていました。某タレントさんの肩こりや背中の痛みや手のしびれなどが心筋梗塞の前兆だったこと、それに気付かずに心筋梗塞になることがあるという警鐘を鳴らす健康番組でした。この時に、「心筋梗塞は命に関わる危険な病気です。数年前にはJリーガーの松田選手が心筋梗塞で突然死しました」というナレーションを聞きながら、「それは違うぞ」と独りで突っこみました。松田選手が心筋梗塞だったことも突然死したことも間違いはありませんが、彼の場合はちょっと状況が違う。ここで引き合いに出すべき名前ではないと思いました。他にも心筋梗塞に罹った芸能人はたくさんいるのに、ほとんどが生存しているから、命を落とした松田選手が一番インパクトが強いと考えたのでしょうか。

「この番組、ちょっと詰めが甘いんだよね」と妻も批判していましたが、今、世に氾濫している健康番組は、どれもいかにインパクトが強いか、重箱の隅をつつくかのようなきわめて特殊な病気の例を紹介できるかを競っている気がします。こういう番組で重要なことは、ちゃんと専門家が内容を監修しているのかどうかなわけで、そこに有名な専門病院の名前が出ることで内容が担保されています。でも、概ね、名前の挙がる専門病院の医師はいつも大忙し。番組の内容の細かなチェックなど、おそらくしていますまい。

うちの職場でも、ある企業のお客様向け機関誌の健康コーナーの監修を依頼されています。月に一回原稿が回ってきます。最終チェックを医師がしますが、ほとんどインターネット記事からコピペして並べただけのその文章は、決して質の高い内容だとはいえません。でもだからと云って全てを書き直してあげるほどの余裕は到底ない。「ま、間違ってはいないからいいか」という妥協の仕方で印鑑を押すのですが、この行為によって、「この文章は専門家のお墨付きをもらった内容です」というより、「専門医が書いた内容です」と勘違いされてしまうことになりかねません。とっても不本意で不名誉なことだから、極力関わらないように逃げていたい、といつも考えています。

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忘れたふりをしてみた。

昨夜は宴会でした。母の34回目の命日だからではなく、月遅れのわたしの〇歳の誕生日祝いをしてもらったからです。しっかり飲んで二日酔いだったこともあり、今朝は忘れたフリしてブログ書きをサボりました。

サボってみたらとっても楽だった。今日はいつになく忙しく、午前中に出勤する予定だった非常勤の先生が急きょ休まれて彼女がする予定だった読影を全部代行しなければならなかっただけでなく、午後の結果説明もいつもより20人も多い、という怖ろしい仕打ちを受けました。だからその後もすっかり忘れていました。

このまま、忘れたふりを通しちゃおうかな~と思ったけど、妙齢なので書かないと読者のみんなが心配するかなと思って、とりあえずご挨拶まで。

まだ、元気です。

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思い出の整理

昨日、二階の書斎の床に積んであった30年前の医学書を全部まとめて紙ゴミに出しました。有名な内科学の本や生化学の本や・・・大事に取っておいたけれどインターネット全盛の今どき、これを開けることなどないだろうと思ったのです。学生時代や研修医時代に書き込んだのであろう赤線やラインマーカーがたくさん入っている医学書はどれもとても重くて、所定のゴミ捨て場まで息を切らせながら何往復もしました。

あの大地震から1年あまり。一度元に戻した直後に襲った本震で再び飛んで行った荷物・・・戻す気力を失ってそのまま床に積んだだけのたくさんの荷物のカタマリの中で大きなスペースを占めていた医学書を除けたら、それなりにスッキリしました。何気なく久しぶりに見る床面と残った荷物を眺めていた時、ふと湧いてきた思いがあります。

「ここに残っているもの・・・アルバムだったり、旅先で買ってきた人形だったり、夫婦の健診の記録だったり、ポスターだったり、車屋さんからもらった景品だったり、そして大量の本だったり・・・これをこのまま持っていて何か意味あるのかな?」

大地震で放り出されるまでは整然と書棚にはまり込んでいた諸々は、長い人生の間にたまっていった思い出の積み重ねなのだけれど、少なくともこの1年、一度も見なくても困らなかったものだから、きっとこれからの人生でも一度も眺め直すことはないだろうと思われるものばかりなのです。子もいないし近い親族もあまりいない我が家で、夫婦の各々が亡くなったとき、形見の品として大事にとっておかれることもなく、きっと捨てられるであろう品々。自分には意味も思い入れもあるけれど、他人には何の価値もないのが『思い出』。この機会に、ここにあるもの全部を捨ててしまっても、きっと後悔などしないのではないか。そろそろ終活に取り掛かって身軽にしておいても損はないのではないか。そんな思いです。

面倒くさがらずに、ちょっとマジメに考えてみようかな、と思いました。

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アルバム

先月末に我が家の補修工事をしてもらいました。一年前の瓦が落ちたための大雨漏りの大惨事を除けば、おかげさまで大事に至らなかった我が家ですので急ぐお宅を先にしてもらっていました。何しろ築25年に近い老朽家屋、地震のせいなのか経年劣化なのか区別がつかないところも多数あります。

剥がれたりひび割れたりした内装クロスを張り替えてもらうために細々した小物をまとめて移動させたまま放ったらかしていたので、ゴールデンウィークの休みを使って整理しました。実は、大地震で棚や書棚が倒れて以降、本や小物は全部床に積み重ねたままになっています。それに若干の小物が上乗せされた状態。あの時倒れてしまった多数の額に入った写真類や写真立に飾っていた写真もそのまま積み重ねただけになっていましたので、この機会に全部アルバムに貼り直して収めることにしました。結婚式の後教会から出てきた時の大写し写真やら先代の愛犬を知人の写真館で撮ってもらった記念写真やら。このまま埃にまみれて積んでおくのも寂しいし、かといっていまさらもう一度壁にかけることもないなと思った次第です。

思えば、最近はみんな電子データだから写真を写真屋さんで現像してもらう機会はほとんどなく、撮っている枚数は今の方が計り知れないほど多いのに、「これ、この間の◯◯の時の写真。現像したから焼き増ししてきた」とかで写真の束を手渡してもらうことはありません。大きいものから小さいものまで、古い写真の数々をアルバムに挟み込みながら、時の流れを感じました。そして、「また再び災害にあったとして、この写真はアルバムに収めておいた方が助かる確率が高いのだろうか、それとも額のままの方が良いのだろうか?」と、壊れた家屋から昔のアルバムを探し出して涙ながらに安堵する光景をテレビで見たことを思い出しながら、意味のないアンニュイな思いにふけった休日の昼下がりでした。

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5分間の幸せ

わたしの枕元に、わたしが絶大なる信頼を置いている2つの目覚まし時計(1つは昨年の大震災の後に代替わり、もう1つはすでに秒針が落ちているけどバリバリ現役)が鎮座しています。

毎朝6:00に静かに電子音が鳴り始めます。その脳天を叩くと、次に6:03に2つ目の目覚まし時計がけたたましく鳴り始め、そいつのへそを摘んで静かにさせると、すかさず6:05 に最初の目覚まし時計のスヌーズ機能が作動して再び電子音。ここで起き上がってきちんとスイッチを切る。ここまでが平日、休日を問わず、毎日のわたしのルーチン儀式です。最初に鳴ってからの5分の至福の時間。本当は起きてもいいけれど、起きずにまどろむ贅沢な時間。とても得した気分に浸れるから好きです。

ところが、最近、ちょっと様子が違うことがあります。夢の中で遠くの方に目覚ましのアラーム音が聞こえ始め、2つ目のけたたましいベル音で夢の世界から引き摺り出されて初めて正気。このまま二度寝すると遅刻するかもしれないからと、眠い目を擦りながら起き上がる、不愉快な朝。こんな仕打ちが頻回になり始めています。夜の眠りが浅くて朝方の睡眠が深くなっているのか、それとも眠りのピークが朝の方にシフトしているのか、はたまた睡眠時無呼吸などの病的状態か。

もう若い頃のような朝のアタマの切れ味は期待できないけれど、今一度生活を見直して、せめて朝の5分間の幸せを何とか取り戻したいものだと思うております。

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類は友を呼ぶ

わたしの同級生にSNSによく美味しそうなランチや居酒屋さんの料理写真をアップしている人がいます。どれもとても美味しそうです。毎日こんなところで外食ばかりしてるのか?と周りからやっかみ半分のからかわれ方をしますが、実際にはそんなに頻回の外食ではない(本人談)そうです。まあ、必ず寝落ちするまで飲んで、代行で帰っているようですが。

そんな彼なのに、グルメおやじにありがちなメタボのお腹はしていません。なかなかスリムでカッコ良い。昔の写真はもっとふっくらしていた気もするけれど・・・炭水化物を控えたり、定期的に運動したり、かなり気を遣っているんだといつも云っていますが、彼と飲んだりすると本当の理由がすぐに分かります。地元の街中には彼の行きつけの飲み屋さんがたくさんありますが、いずれもお店の大将やママさんが作ってくれる料理がヘルシーでおいしい。魚料理も肉料理も洋食も中華も創作料理もなんでもありますが、そんな料理が、少しずつ良い感じの量で絶妙な頃合いに出て来る(一人で切り盛りしている人気店だから一人で順番に作っていればどうしてもそうなるのだろう)。その合間には必ず店の人や常連客との会話を楽しみ、ちっともガツガツしてない。小食なわけでもないけれど決して大食漢なわけでもない。「せっかく食べるんだから美味しいものを食べなければもったいない」が口ぐせの彼が口にするものは、決して高級グルメではない。「値段がリーゾナブルでないと意味がない」も口ぐせ。

「この歳になると、そげえいっぱいは食えんで当たり前やわ」と思わず口走った彼のコトバが正解だな、と思います。彼の舌は彼が意識するしないに関わらず、ちゃんと自分の身体の本分をわきまえている。アタマの欲求とカラダの要求とがきちんと一致している。そう思いました。そして、とても不思議なこと(当然のことなのかもしれないけれど)ですが、彼の行きつけのお店に来ている常連さんが、みんな同じような体型をしていることに先日気づいたわたしです(店主はでかい人が多いですけど)。同じようなものを食べているから当たり前、と云いたいところですが、逆にそういう飲み方を求めている人たちが同じところに集まって来ている結果なのかもしれないと思った次第です。

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