日記・コラム・つぶやき

雑草

先日の学会が開かれた東京国際フォーラムの地階に相田みつを美術館が常設されていることに初めて気づきました。学会参加証を提示すると無料閲覧できるというので、学会の空き時間を使って入館させてもらいました。

さすがは書家。彼の力強い筆さばきからみなぎるエネルギーがすごくて、小一時間かけて一回りしたらへとへとになりました。

彼が好んで使う文字。『土』『根』『雑草』・・・縁の下の力持ち、目立たないところで人生を支えて頑張るものに思い入れが強いのだろうと感じながら、でも、何かが違う気がして、じっと考えながら回っていきました。彼の根底にあるのは『雑草魂』なのでしょうが、それは名もない雑草が皆に踏みつけられながらもじっと我慢して歯を食いしばって頑張っている姿、あるいはその間にしっかりと地下に根を張り巡らしているしたたかさを思い描いている様に感じました。

でも、最近わたしは庭の草取りなどで地面に這いつくばって雑草と対峙しているとき、雑草に全く違う印象を持っています。「雑草は自由でいいな」・・・意味のない名前をつけられることもない(もちろん正式名称はあるのだろうけれど誰も気にしていない)から、それによるシガラミもなく、決められた場所に決められた様に咲かなければならない縛りもなく、生えたいところに気ままに蔓延ることができる。抜かれても切られてもしたたかに子孫を残し、根絶やししたがる人間どもの必死さをあざ笑うかの様にたくましく自由気ままに生き延びている。「うらやましいなあ」と心から思う今日この頃なのであります。まあわたしは社会的にも割と雑草的な自由さを頂いてる方だとは思いますが、雑草みたいな生き方ができたら幸せだろうなとか思うておるわけであります。

 

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覚えようとする力

「あー! この日は宴会の誘いに『行けます』って返事したけど、他の宴会があったの忘れてたよ!」

最近スケジュール帳をつけ始めた妻が、そのスケジュール帳見ながら叫びました。ダブルブッキングしたようです。もともとスケジュールを覚えるのが苦手ですぐに忘れてしまうからつけ始めたようだけれど、そのスケジュール帳を確認しないまま返事したのでは意味がないじゃない。彼女はよくわたしのスケジュールも聞き流してあとで大騒動になることが何度もありました。だからスケジュール帳に何でも書き込む様になったわけですが・・・。

わたしはスマホのスケジュール帳を使ってスケジュール管理をしています。何もかもを書き込んでいるわけではありません。仕事上の行事などで、そこに書き込んでいないものは実は少なくありません。それを全部覚えているわけではないのですが、それでも、臨時会議の打診をされたときなどに、「あれ、その日は、何かがあった気がする」と感じるときには必ず何かの行事が隠れています。大した根拠があるわけではないのですが、これはやはり日頃の訓練の賜物でしょう。わたしの特技なのかもしれません。

要するに、覚えようとする気持ちがないとすぐに忘れてしまうのが常。日ごろから覚える習慣がない人は尚のこと、記録をするとそのときに覚えそうに見えて、逆に記録を取るようになってかえって記憶する力が衰えるものであることを、妻が証明している気がしました。

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疑心暗鬼(後)

(つづき)

被害者意識の塊になっている今日この頃だけど、実は先日反対の立場になったかもしれない経験をしました。街中の研修会でたまたま久しぶりに会った元同僚ドクター。軽く挨拶を交わしましたが、「久しぶりです。お元気ですか?」くらいの時候の挨拶しか話すこともなく、机も離れたところに座って講義を受けました。帰るときにもまた階段で出会って挨拶。でもそのままわたしは何を話すでもなく市電の乗り場に足早に去って行ってしまいました。別に彼を避けているわけでも何でもない。昔ちょっと心のすれ違いで向こうがわたしを避けていた時期もあったようだけど、今はそんな関係ではなくなっていると思っています(少なくともわたしの方は)。ただ、帰りの電車の時間が気になって急いでいただけ。でも、「また会いましたね」という相手の差し出した言葉にきちんと返答していなかった気がして、電車に乗ってから妙に気になり始めました。別に何の他意もないのに、冷たくあしらった様に思われなかっただろうか。「 ちっ、なんだ、あいつ」とか思われなかっただろうか。

ヒトの心はとても複雑で、そしてとても脆いもの。本当はとても単純なのに、すぐに自信をなくして疑心暗鬼になる。そのままメンタル不調になるのに時間はかかりませんし、これに歳は関係ない様です。もっと図々しい性格になりたいものだなあと思いつつ、ここにこうやって公言することで、少し気分が晴れた気がしています。

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疑心暗鬼(前)

最近、若いスタッフのわたしに対する目がおかしい。何? わたし、何か気の障るようなことをした? 何か心無いことを口走った?  どうも、一人ではないようだ。何人か、わたしに対する言葉遣いや態度の端々に、意図的に避けているような、侮蔑しているような感じがするのだ。何か、気持ち悪い。気になるとついいろいろ考えてしまう。

きっと、世間のメンタル不調の多くがこんな感じの疎外感から始まっているのではないかしら。昨日まで普通に話していたのに、何か急に態度が変わった気がする。すると、その隣の人も自分をじっとみて眉をひそめているように見える。皆が、影でヒソヒソとわたしのことを話しているのではないか? 仕事や学校に行くのに気が重い。何がいけないのか 、誰かわたしにちゃんと話してよ! なんて、云ったら一層そっぽ向かれるかもしれない。そうか、もしかしたらこれはわたしの考えすぎなのかも。そのうち元に戻って行くんじゃないかしら。でも、戻らなかったら、どんどん酷くなっていったらどうしよう。

「ねえ、最近あの子変じゃない? わたし達をみて勝手に目線をそらしたり、暗い顔したり。何か感じ悪いよね。わたし達、あの子に何もしてないよね。何を勝手に拗ねてるのかしら。いいや、放っておこう」・・・もしかしたら、こんな感じなのかもしれない。疑心暗鬼になってお互いに誤解しているだけとか。でも、こういうことは他人事だから云えるのであって、当事者はそうはいかない。自分の取り越し苦労だと放ったらかしていたら、ちっともわかってない!ともっと多くの人に総スカンを食わせられるかもしれないじゃない。  (つづく)

 

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ドライブレコーダー

昨日、愛車にドライブレコーダーを装着しました。さすがに昨今のニュースを見ると、自分が運転中にトラブルに巻き込まれない確率は決して高くないと感じたからです。

装着したレコーダーは『KENWOOD スタンダードドライブレコーダーDRV-610』・・・それなりにしっかりしたレコーダーです。高画質はもちろんのこと、盗難やイタズラにも対応しています。地震の補修の出費もある中ではバカにならない値段ですが、なんとか節約して頑張りましょう。

さて、ドライブレコーダーを装着して素直に感じることは、「誤魔化しが効かないぞ」ということ。信号に対する交差点の突入の仕方にしろ、車線変更にしろ、加速の状況にしろ、その時の時速にしろ、何もかもが記録されているのです。それは、何かあった時に自分を守るための記録なのだけれど、自分を守れるか守れないかは、自分がちゃんとした運転をしているかどうかということが前提にある。5、6年前にバイクと接触事故を起こしたわたしはその後異常なほどの安全運転をしていたのだけれど、最近少し緩くなっていた気がしていました。

それでも自分なりに安全運転している自負がありましたが、レコーダーが装着されたら、途端に不安になりました。改めて確認してみたら、いつも時速50キロで走っていた江津湖畔の道の制限時速は30キロでした。いつもなら黄色で突っこんでいた交差点も早々に止まるようになり、前の車にくっつくことも意図的に避け・・・必要以上に安全運転な自分。

リトルミイのコトバじゃないけれど、『みてるわよ、あなたがしていること。あのね、神様じゃないわよ。もうひとりのあなたがよ。もうひとりのあなたがあなたをみているのよ。見放されないようにね。嫌われないようにね』って、あれですね。もうひとりの私以上に、きちんとこのカメラも見ています。ありがたいことです。

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同窓会

人生の区切りの年齢が近づいてきて、同窓会を画策する諸氏の動きもちょっと目立ち始めてきました。わたしの場合は、小、中、高、大学の中で、中学の付き合いがダントツに濃いのですが、最近になって地元大分だけでなく、福岡や東京での集まりも目立って多くなってきていて、今月の初めにもお江戸でプチ同窓会がありました。

さて、そもそも『同窓会』という存在は、そういうものなのでしょう。こういう会に可能な限り顔を出す連中がいる(わたしもその中のひとりですが)一方で、「同窓会なんて無意味」「過去に関わっていても進歩はない」と云って若い頃から絶対に参加しない同級生もいます。

確かに、この歳になっても彼らと会うと瞬時に中学生に戻るのですが、私たちは昔の思い出に浸りたいために盃を何度もかわすのでしょうか。現実のしがらみの色々を忘れるために集まるのでしょうか。それとも、みんなでお互いの悩み事を慰め合うためでしょうか。そういうものと何か違うような気もしますが、それでも、そういう席で昔話になった時に、よくぞそこまでという位に事細かに覚えている人間と全く何も思い出せない人とがいまして、後者が前者によって記憶の蘇り(賦活)効果をもたらしてもらっていることは間違いありません。もしかしたら、それが一番の意義なのかも。わたしもどちらかというと後者の群に属するので、少なくともわたしにとっては認知症予防に重要な役割を果たしているように思われます(笑)

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曖昧な公文書

研究会の日時の変更の件でお知らせしております。

(中略)

大変申し訳ございませんが、ご出席の有無を何卒宜しくお願い致します。

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ある組織から、こんな連絡が来ました。これを書いたヒト個人に何の不満もありませんが、何か最近こういう乱れた文章表現をする人が増えている気がします。この何となく行間を読ませようとする文章に違和感を感じることはできましたか。何を求めているのか、分かるようで分からない文章。日本人なら皆まで書かなくても雰囲気で分かるだろう的な表現ですが、「ご出席されるかどうかを再確認しておりますのでお知らせください」「ご出席の有無について改めてお知らせください」・・・この程度の文章表現をしても決して下品ではありますまい。

最近、お役人たち(というか公務員関係の人たち)が、公の文章に曖昧模糊なちょっと日本語としては質の悪い表現の発信をしているのによく遭遇するのですが、これは、チェックできる上司がいなくなったから(大体わかりゃいんだよ的な感性)なのでしょうか。そんなことを思うとき、わたしももっとスタッフの公文書の日本語チェックには目を光らせておかなければならないのではないか、と感じた次第です。

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夜を取り戻す

2編めはこんな感じ。かなり前にここで書いたものの書き直し。

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『夜を取り戻す』

(前略)

灯りは、白熱灯から蛍光灯を経て今やどこもかしこもLED。夜中でも真っ昼間のような明るさに煌々と照らされ続けていたら、体内時計なんてすぐに壊れます。そのうち、スズメが真夜中の空に悠然と飛び交う姿が珍しくなくなるかもしれません。これが”進化“だとしたら、ちょっとゾッとします。

最近は、生活習慣病を『睡眠』で語る時代です。生き物は眠っている間に自らの細胞を修復し、混線寸前の脳内の記憶の整理をします。睡眠の質の確保が健全な人生を送る上で必要不可欠であり、質を上げるためには寝る直前にモノを食わない方がいいし、眠くなってから床に就くのがベスト。そもそもいい睡眠を得るためには、まずきちんと朝日を浴び、朝の空気に満たされなければならない。「夜遅くまで仕事しているから絶対にムリ」と頭から否定していては、生きていけない時代です。床に就いて意識がオフになった瞬間からカラダの中では数多の細胞が昼間とは別の顔をして私たちのために必死に修復工事をしてくれます。だから、きちんと眠る生活を数日試したら、目覚めの質が全く変わったことに気づくはずですし、生活習慣病の多くがそれだけで改善するのに驚かされるでしょう。

私も何度も試したので分かっています。分かっていますが、つい誘惑に負けてしまう。夜はワクワクするほどの誘惑にあふれ、明るい青い魅惑の光が目を通して覚醒の世界に引きずり込むのですもの。魔物の造り賜うたこの煩悩の世界は、食事のそれに似て一筋縄ではいきません。それでもすべての欲望をかなぐり捨てて床に就いてみたら、きっと世界が変わります。私もこの機会に今一度トライしてみることにします。

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繋がっていること

連載コラムの〆切りを前にどうしてもしっくりくる文章が出来上がらなくて、とりあえず3つの文章を書きました。職場のスタッフに見せて好評だった1編を提出したので、残り2つはボツになります。何か勿体ないので、一部をここに書いておきます。

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『繋がっていること』

(前略)

「切れたモノを繋ぐのはものすごく難しい。でもほんの少しでも繋がっていたら次に進める。そんな想いでこのイベントを企画しました」・・・先日、ある復興イベントを開催した実行委員の学生さんがそんな気持ちを語っているのをラジオで聴きました。そうなんです。完全に切断されてしまった神経をつなぎ合わせるのは神の手を持つスーパードクターでも容易ではありませんが、少しでも繋がっていればそこから生き返る可能性がある。切り倒された樹木は枯れるだけだけれど、深い傷を負った木はむしろ前より逞しく生い茂る。ラジオから流れる熱い想いを聴きながら、そんなことを考えた次第です。関わり合いが消えてしまったら終わり・・・昨年、避難所巡回をしていた時に『声をかけること』が如何に大きな力になるかを実感した私ではありますが、その後その想いが徐々に萎えていっていることを否めません。被災した直後は、今まであいさつすらしたことのない近所の若者や老夫婦と身内の様に肩を寄せて励まし合いました。あの時の“お節介と図々しさ”は、変わりゆく私たちの街と人間関係の中で、人として、今一度呼び戻さなければならない重要なことだと感じます。

そよ吹く風。まったくの無風ではその存在すら気づかれないのに、初夏の蒸し暑い日差しの中でほんの僅かでもそよいでくれるならば、その圧倒的な存在に皆が感謝するでしょう。

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点数とモチベーション

先日、国民的アイドルのようなフィギアスケーターが引退しました。惜しむ声もありましたが、概ね「おつかれさま」「ごくろうさま」という慰労の声ばかりが聞かれ、最後は皆が「ありがとう」と云って締めくくる。本当に国民全員が実の娘のように応援してきた子の引退でした。

やっと他人から点数をつけられて極限で生きる世界から解放される安堵感が本人にも観ている私たちにも漂っています。彼女には天性の魅せる力が備わっているので、競技スケートよりもプロスケーターとして生きていく方がきっと光ると思ってはいるのですが、もしかしたら点数で評価されるからこそギリギリまで自分を追いつめて、自分を磨き上げようと努力し、競い合うことで昇華できていたのではないか?とも思います。 どうせネームバリューだけで観客は皆が満足してくれるはずだから、点数のつかない人生の中で自分をより高められるものなのか? ちょっと心配ではあります。

競技スポーツの世界と対極にあるのが舞台に立つ役者や歌手なのかもしれません。彼らのパフォーマンスの原動力は何か? 「お客様に感動を与える」という目的は同じでも、それは競技スポーツのような競い合いではありません。基本的には自己満足の仕事であり、自分を自分の価値観でどこまで高められるかの問題ではありながら、入場数だったり興行成績だったりで評価されて何らかのランクづけをされてしまうと、結局ヒトは高い評価を求めてしまって、自己達成感とのギャップに悩むことになります。それがアマチュアとプロの違いなのかもしれません。

勝ち負けの存在、他人からの評価の存在は、ヒトを強くするのか弱くするのか。彼女の引退について考えながら、そんなことを思ったところです。

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