書籍・雑誌

鎌田先生インタビュー

このブログ(ココログ)の編集画面の右上に「ココログからのお知らせ」という欄があります。ほとんど見たことのないスペースですが、記事を書いていると、どうも視界の片隅に見覚えのある文字が・・・「医者・作家 鎌田實さんのスペシャルインタビュー前編公開です!」・・・なに?わたしの尊敬するあの鎌田實先生のことかい?これは大切です!早速拝見いたしました。

Special インタビュー <できることをやればいい>鎌田實さん
http://celeb.cocolog-nifty.com/interview/2009/11/vol80-559f.html

<できることをやればいい>・・・この肩肘張らないスタンスが、彼の人生を支えた基本なんだと思いますが、でもそれは彼だからできたことなのかもしれない。そんな気がします。 でも・・・みなさんに是非読んでいただきたく、あえて今日はこれを写しました。

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「景気が悪いとか、会社の業績が悪いとか、大企業に入れなかったとか、それでダメかっていうとそうじゃない。自分がダメだって思ったときが本当にダメなとき。『変な会社に入っちゃったけど、俺がよくするぞ』とかさ、志を持っていれば絶対に何とかなる。いま、あまりいい環境じゃない中で鬱々としてる人がいるとしたら、それは凄いチャンスだってことに気付いてほしい」

「ダメなことには理由があるんですよ。僕が着任した病院もダメな病院だった。そういう所は、当たり前のことができていないんですよ。当たり前のことをやっていると、必ずいい方向に動いていく。実感としてよくなったことが見えてきたらしめたもの。仲間が集まってきて『じゃあ、ちゃんとやるか!』という大きな流れが生まれてくるんです」

---旅をするうえで一番大切なことは何ですか?
「感動することです。人間は感動すると、幸せホルモンとも言われているセロトニンが分泌されます。旅は感動の連続。心に余裕がなかったり、行き詰まったと感じているときほど旅に出たほうがいいと思います」

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星の王子さま

先日阿蘇に行った帰り、2つのコブ状になった小さな丘が車窓から見えました。

「まるで、サン・テグジュペリの『星の王子さま』みたいやね」・・・ふと思いついてそう云いました。
「それって、あの帽子の話?大蛇(うわばみ)が象を呑み込んだ姿ってやつ?すごいもの連想したねぇ」と、助手席の妻が答えました。

「そうそう。『星の王子さま』といえば、盲目の人たちと象の話だよね」
「え?何それ?『星の王子さま』は砂漠に飛行機が墜落する話だよ」
「目の見えない人が各々象の違う場所を触って、各々違う意見を云うんだよ。これは壁のようなものだとか、これは木の幹だとか、これはロープだとか・・・」
「そんな話全然知らないよ。『星の王子さま』といえば、バオバブの木とバラでしょ?星を離れるとなると我儘なバラの世話をできない。でも「わたしは大丈夫だから行っておいで」ってバラが云うんだよ・・・」

「全然知らない、そんな話」
「私こそ、あなたの云ってるような話聞いたこともないよ~」

その話題はそれで終わりました。『星の王子さま』(サン・テグジュペリ)・・・有名なお話なのに、たくさんの翻訳本がでているというのに、どんな話か実は全然知らないのでございます。今度、文庫本を一冊買って読んでみよう、と誓いました。

わたしの思い出した「象と盲人の話」は『星の王子さま』とは全く関係ないみたいです。あれは仏教の話。「群盲象を評す」というやつです。でもわたしは、<サン・テグジュペリ><星の王子さま>で必ず連想してしまいます。一体、わたしの頭はどこで混線したのでしょう?

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「虹色おいさん」

くまもと水事情からいつの間にか「塩九升(しょくじょう)通り」に思いが馳せました。大分市の中心街の東の端、長浜神社近くの通りの名前です。田舎者のわたしは、数年前に初めてこの一風変わった通りの名前を知りました。長浜神社のお祭りを「長浜さま」といい、街中の人たちには昔から馴染みの祭りです。「長浜さま」は夏の訪れを告げる夏祭り。先日行われた熊本の「藤崎宮例大祭」は秋の訪れを告げる祭りです。

そして水といえば、河童(かっぱ)。「塩九升(しょくじょう)通り」「水」「河童」・・・どうしてこんな関連のなさそうな名前が今になって連想されるのだろうかと考えていたら、やっとわかりました。それは、平成17年から18年にかけて2ヶ月ごとに発売された小説、「虹色おいさん」です。7人の仲間とその家族がさまざまな人間模様を織り成す全7巻のお話。河童のおかげで(?)時々子どもの時分にタイムスリップなんかして・・・書いたのは地元大分で活躍するフリーライター吉田寛さん。評価的にはどうだったのか知りませんし、地元限定の発売ですのでどれくらい売れたのかわかりませんが、わたしは発売を待つようにして読み耽りました。そこにいる仲間たちが心から羨ましかったからです。子どものときからずっと一緒に生きてきた仲間たちが、大人のおいさんになってもずっと同じでいるって、良いよなあ。中学に上がるときに地元を離れたわたしは、ずっと<よそ者>感覚で生きてきました。中学時代の同級生たちと今でも一緒に飲みますが、やはりわたしの心が今でも<よそ者>で(彼らはそんなことないって云うんですが)・・・「虹色おいさん」の世界はわたしの憧れです。

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くまもと「水」検定

熊本市は上水道のほぼ100%が地下水です。街のど真ん中に悠然と白川が流れ、街は川に沿って<無秩序に>広がっています。碁盤の目のように区画整理された大分市出身のわたしは、いまだに方向がわからなくなります。一方、我が家の近くに横たわる人口湖の江津湖は、加藤清正が作ったもので、加勢川となって最終的には緑川と合流します。まるで街全体が川の巣の上に乗っかっているかのようです。

先日、知人に誘われて、くまもと「水」検定を受けるための公式テキストブックを買いました。あまり興味がなかった熊本の水事情ですが、テキストを読み進めるにつれて、意外にもどんどん嵌(はま)ってしまいました。

初めて熊本に来たのはYMCAの大学模試でした。洗馬橋駅近くの川に面した旅館に泊まりました。あれが坪井川だったのかと遠い昔を思います。大学生時代を過ごした下宿屋は子飼橋の近くでした。その河川敷に唐十郎の紅テントがやってきたのは入学間もない頃でした。それを観て演劇部に入部した友人は、結局今でも東京で芝居を続けています。白川には何本もアーチ橋が架かっています。酔っ払うと必ずそのアーチをよじ登ってしまう登山部の友人は、ハラハラして見つめるわたしたちを尻目にそのまま何もなかったように反対側に降りていくのが常でした。坪井川近くのアパートの1階に住んでいた友人は、大雨の翌朝、起きてベッドから下りたら足元が水浸しで驚いた!と良く話していました。熊本城近くの病院で働いていたときの大雨では井芹川が氾濫し、路面電車は折り返し運転をしました。休日出勤していたわたしが大急ぎで帰ろうとしたとき、車のブレーキが全く利かずに怖かったことを思い出します。水前寺公園から江津湖畔、そして江津塘(とも)は、妻の実家に通じる道筋です。

・・・わたしの青春時代の思い出の多くが、川と水に綴られています。今度ゆっくり川巡りの散策をしながら昔を想ってみたい、という気分にどっぷり浸ってしまいました。

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「いっぱいごめん いっぱいありがと」

認知症のお母さんをもつ友人の話を書きました(2009.8.8)。その友人が、先日「本屋で引き寄せられるようにして見つけた」という絵本を貸してくれました。

いっぱいごめん いっぱいありがと (岡上多寿子 木耳社)

"認知症者の母とともに"という副題のついたA4横のその絵本は、この上ないやさしさに満ちていました。認知症になっていく母、母が母でなくなっていくことへのとまどい、母への感謝の気持ちと自身の懺悔と・・・75編の詩が自作の挿絵に添えられた数行の筆文字のかたちで書かれており、それが実の母娘のすがたを素直に表しています。わたしはを若くして胃がんで亡くし、ひとり暮らしだったも突然この世から居なくなりましたので、幸か不幸か晩年を一緒に過ごす親がおりません。それでも本屋で絵本を手にとって熱いものが溢れてきたというわたしの友人のことばがよくわかります。今、認知症の親御さんと過ごしながらこころとカラダを疲れさせ続けている多くの方々に、このやさしい文字と挿絵をながめながらひと休みしてもらいたいなと思いました。

・一緒にいたけど独りきりだったかもしれない 母さんの目が淋しそうだった

・本日私は 鬼と人との間でした

・見るでなく 前をながめつ ろうろうと歩く母のうしろから「何想う 何処へゆくのか」問いもせず あと一時間つきあおう

・晩年の母の生るを乱した私

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死の迎え方

内藤いずみ先生の『最高に幸せな生き方死の迎え方』(講談社)の話でもうひとつ書いておきたかったことがあります。

往診先の患者さんに死期が近づいてきたころ、とても穏やかないい顔になっていました。声をかければしっかり返事をするけれど一日中うとうとしている状態です。モルヒネの使用量から考えても、それは薬のせいではなく命の炎が小さくなってきていることだということを家族に告げます。 『・・・いま「死」は日常生活から隔離されたところで起きていて、間近で人がどんなふうに亡くなっていくのかをみんな見ていないから、そこまで言わないとわかってもらえない。・・・(以下略)』

身近で死に行く人を見たことがないから、在宅で最愛の人たちを看取るのを怖がるというのも理解できます。実をいうと、医者や看護師ならそんなことはないかというとそうでもありません。若い医者たち、とくに大きな病院や大学病院で研鑽を積む医者たちは、かえって自然の流れとして死んでいく姿を見たことがないかもしれません。できる限りの点滴をし最期までできる限りの蘇生医療を施すからです。病院に居合わせた以上はそうすることが義務だからです。人生の中で死に方を考える機会が本当に少なくなったなと思います。

『・・・人間は誰しも生まれたときから、死に向かって歩んでいる。末期がんの患者さんは迫ってくる死を見つめながら生きているが、私自身、死への途上を歩いているという意味では患者さんと同じ立場にいる。これは世界中の誰一人、例外のないことだ。 平等に死にゆく存在として、人間は誰もがどう生きるか、生ききるかということを問われている。最期まで人間の尊厳を失わず、誇りを持って生きるためには何が必要か、それを考えていったときに、おのずとホスピスの考え方が生まれてくるのだと思う。』<「痛みのないことが幸せ」>より転載

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内藤先生

鎌田實ストーカーシリーズ第二弾。『最高に幸せな生き方死の迎え方』(内藤いずみ、講談社)を読みました。甲府の小さなクリニックで「在宅ホスピス」をがんばっている内科おんな先生が書いた奮闘記、というより現代医療や社会通念の壁へのもどかしさに対して叫んでいる戦士の声のような気がしました。

「人工呼吸器を取りつけるとき、『どうしますか?』と聞いてくださる先生はあるいはいらっしゃるかもしれませんが、それを取りつけたら最期のお別れの言葉が言えないかもしれないということまでは話してくださらない」と、順子さん(遠藤周作さんの奥さん)は言う。ご家族にとっては、苦しい息が一時間延びるよりも、最期の言葉をしっかり受け取ることのほうがよほど重要であるかもしれない。(<医療知識のギャップ>から転載)

自分の医療人生を思い返しても、そんなことを話してあげたことはなかったかもしれません。というよりも、本人とは時間が許す限りお話をしたかもしれないけれど、ご家族と長い時間話したことのあるのは数人しか居ません。

「・・・ゴッドハンドは大切。でも一人の患者をみたとき、それを臓器の集合体だとしかみえないのだろうな、あるいは研究対象物にしかみえないのだろうなと思える医者が、なんと多いことか。・・・」

内藤先生の思い、鎌田先生の思い、何とかもっと若い先生たちの中にそんな思いの人がたくさん生まれてきてほしいと思います。医者としての経験と人生の経験を重ねていくと、そういう考え方が大切だと云うことは当然のようにわかる(それでも分からないヤツは医者とは呼ばないことにしています)けれど、若くしてそう思い行動を起こせる先生がもっと出てきてほしいと思います。内藤先生はそんなひとでした。

それでも、「在宅ホスピス」が一番!と意見の無理強いをしないところがまたいい。

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あのね

鎌田實先生の隠れストーカーのわたしは、そっと先生のブログを覗き、先生が勧める本をこっそり読んでみたりするのです。

『あのね~子どものつぶやき』(朝日文庫)は朝日新聞のコラム「あのね」に載ったものをまとめた本です。基本的に大人が書いているのでちょっとデフォルメして書いたのかなと感じるものもないわけではなかったけれど、やはり子どもたちの目はスルドイ!そして残酷きわまりない!そう思いながら一気に読み上げました。わたしが好きだったものを数首紹介します。

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しかりながら母が、「お母さんに、何か言うことがあるでしょっ!」「・・・・・あそぼ」 ごめんなさいと言ってほしかった。

お風呂で一人、頭を洗いながら独り言。「妹は、いつまでたっても妹・・・・・・」

台風の暴風雨を祖母と見て、「ばあちゃん りっぱな 風だったね」

いつもビリの運動会で3位。「いつもの走りと違ったみたいね」と言う祖母に、「あんなに 急いで走ったのは はじめて」

踏み切りで上り列車が通ったあと、すぐに下り列車。「わすれもの したんじゃろう」

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先日あった研究会で、ある先生が知人の医者の話としてこう云いました。「子どもは、親の云うことは聞かないが親のすることはマネをする。子どもは、先生の云うことは聞かないが、先生のすることはマネをする。」~これまた蓋し名言!

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『へこたれない』

人は悩んで悩んで悩んで生きる。/精いっぱい悩み終わったら、ふっ切っていい。/悩んできた自分を褒めてあげよう。そして、自分に言い聞かせる。/もう、これからは、悩まない。

少し時間ができたので、敬愛する鎌田實先生の『なげださない』(PHP研究所)を読みました。またまた書き留めておきたいこころに残ることばがたくさんありました。二分脊椎症を患い、将来神経障害を起すことを覚悟したときから心の準備を始め、車椅子生活になってからも旅行をしながら前向きに生きているある女性を紹介した文章の一節です。ここまで達観できる人はそう多くないのではないかと思います。でも、こう生きれたら良いなと、きっと皆が思っていると思います。そう生きれるように、前向きに生きましょうよ。と、そう云っているように思いました。

もうひとり。生存率5%の肺小細胞がんを克服したある男性のことばも良い。

「外へ出て人と話をすることと、笑うことを心がけました。もちろんタバコも止めましたが、タバコが肺がんの原因だなんて思わないようにしました。今まで吸ってしまったタバコのことを悔やんでも仕方がない。自分の生き方が原因だと思いました。生き方を変えました」~過ぎ去ったことはクヨクヨ考えない。悩まなくていいのだ。・・・(略)

過去を後悔するのではなく、病気をきっかかけに、これからの行き方を考える前向きな生き方ができるようになる人たちには、一体何があるのだろう。わたしもいつか、そんな生き方が出来るようになるのでしょうか。

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『病気にならない本』

「皆さんこんばんは!!」「『禁煙は愛!』でしょ!!」

ちょっと場違いなくらいのパワーで声が枯れるまで講演していただいたのは、江藤敏治先生(宮崎大学准教授)。先日行われた、第8回熊本禁煙研究会でのことです。江藤先生は宮崎ではむしろテレビのパーソナリティとしての方が有名な人だとか。熊本禁煙研究会はいつもとてもユニークな先生をお呼びしてくれます。金曜の19時から始まる研究会ですが、いつも最後まで居眠りするヒマがありません。活力のある講演のしかた自体がわたしには勉強になりました。

さて、そんな江藤先生が本を出しました。印税分を割り引かせてでも学生たちのために安く発行させたのだそうです。『病気にならない本-予防医学へのいざない-』(大学教育出版)です。あんなに話はうまいのに、なぜかPR自体はあまりうまくなく、この場に持ってきたらサイン入れてもらってすぐに買うのにな!と思いながら、Amazonで購入しました。

内容は、とってもオーソドックスでした。もっと破天荒で大小さまざまな文字があちこち飛び跳ねているような本を想像したので、逆にちょっと驚きましたが、学生講義の教科書ですからさもありなんです。ただ、冒頭に先生が書いているように、「・・・いろいろな分野の専門家がそれぞれの領域でその専門性を突き詰めるのは当然必要です。しかしながら、それと同時に各分野を総括して一個人を見渡す領域も必要であり、むしろ人を診察する場合そのような眼力が特に重要となってきます。人間は機械のように精密ですが、ただパーツが寄り集まっただけのものではありません。・・・」~この思いを教科書にして、これから医者になる医学生たちに、そして多くの一般社会人の方に、「予防」こそが「医療」だということをしっかり伝えていただいていることに、感謝します。

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ことばは聴診器より大切

日経メディカル500回記念号の「あの人はその時、何を語ったか」に、わたしの敬愛する日野原重明先生(現聖路加国際病院理事長)の記事が載っていました。1985年2月号に掲載されたものです。

『医者はせっかちで、説教から始める。「あなた、こういうことしちゃだめですよ」と言う。そうでなしに、患者に質問させる。高血圧だといったら、「あなたはこの病気についてどんなことが聞きたいか、食事のことでも何でも」というふうにまず聞くことが大切です。最初からこうしなさい、ああすると悪いなんて立て続けに言っても、当人は何も覚えてない。自分の質問に対して答えたのは覚えている。先生が勝手に言ったことは覚えていない。』~蓋し正論、まことにもって耳が痛いお話です。

<患者指導の要諦を一言で言えばどうなりますか?>という質問に、『本当のことを言えるような人間関係。体のことも、心のこともね。』・・・当たり前のことであり、とてもむずかしいことです。<ちゃんと薬を飲んでいるかを正直に告げてくれるか?>という問いに対して、『正直に言うような関係をつくればいい』と即答。わたしもその通りだと思って患者さんと接してきました。正直に話しているかどうかは、自分が正直に接していればわかるものです。

『それには言葉が大切です。同じ言葉でも、大げさな言葉を使わないで、非常にリファインされた言葉、その人に合った言葉で対応する。だから医者というのは役者なんだよ。相手次第で、表情なり言葉なり変わるわけだ。だから、ボキャブラリーをたくさん持っていないとだめですね。』~『聴診器とか心電図とかいうと、大切にするでしょう。言葉はそれ以上に大切なものです。』・・・日野原先生の口からこぼれ落ちるように発せられることばは、やはり昔から深いことばばかりです。

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かがやく

もうひとつだけ「風花病棟」(帚木蓬生・新潮社)から。

「宮田さんが言っとりましたよ。わしは最後によか主治医に会うたと」・・・(中略)・・・大学での一年目の指導医の教えを忠実に守ったに過ぎない。面接で話題がなくなったら、本人が一番輝いていた時期のことを聞く。そうすれば、治療は決して悪い方にはいかない-。~精神科医としてアルコール病棟の医師となり、病棟の主のような患者(宮田さん)とのこころの交流を描いた作品=「かがやく」の一節です。

とかく医者は自分に必要なこと、あるいは自分に興味のあることしか聴こうとしません。時間がないということもあります。精神科の場合は十分な時間をとって患者さんと面接をするのが常ですが、それでも話題を振ろうとするときにはどうしても診療に直接関係ある情報を得ようとするものです。そんな中で、「本人が一番輝いていた時期のことを聞く」というのはとても素晴らしい考え方だと思いました。

わたしが「医者」だったころ、わたしも良く診療と関係ないことを聞いていました(カルテメモ)が、あれは相手が話したことをメモしたにすぎません。病院に来たら病気のことを聞いてほしいのだと意気込んでくる患者さんも多いですが、それでも診療にあまり関係ない釣りの話や孫の話をしているときの方がはるかに良い顔をしていました。わたしは精神科医ではありませんが、あの気の毒そうに(待っている患者さんが多いことを知っているので)そっと話す患者さんのこころからの笑顔を引き出せたことはいいことだったと自負しています。

帚木蓬生の「風花病棟」は、1年に1編だけ小説新潮に掲載されてきた、医師を主人公にした短編小説集です。舞台が九州であるものがほとんどだということも親近感を覚え、一気に読み終えました。

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泣ける医者でありたい

「医者になって十年、なんとか患者の気持を汲み取れる治療者になろうとして努力してきたが、二つはなかなかひとつにならなかった。所詮医師は建物の中にいて、雨に濡れる患者を眺める存在だった。たまに雨の中に出て来ても、目だけしかあいていないようなレインコートで重装備し、雨に濡れないようになっていた。」・・・自らが乳がんになり不安の中で治療を続ける女医を描いた小説「雨に濡れて」(帚木蓬生「風花病棟」・新潮社)の最後に書かれた一節です。

「その通りだな」と思いました。

わたしもまた泣き虫医者でした。受け持ちの患者さんが亡くなって、心臓マッサージで震える手で死亡診断書を書きながら何度嗚咽したかわかりません。一緒に戦って、一緒に一喜一憂してきた戦友が居なくなった悔しさと、彼らを侵した病気と運命への憤りでした。医者としての知識や技術を大して持ち合わせていないわたしは、患者さんの気持ちになれる医者、患者さんのココロを代弁できる医者でありたいと思ってきました。同じ状態をみるとき、患者さんの目と医療者の目ではまったく違うところに焦点があり、まったく違う価値観にあることを知っています。手を握って座って話をするとか、服の着替えを手伝うとか、「そんなことは医者のすることではないからやめなさい」「もっとプライドを持ちなさい」と云われ、「くだらない」と吐き捨てたことがあります。自分は医療者である前に人間として患者さんと向かい合いたいのだと主張していましたが、でも詰まるところ自分の自己満足でしかないのだと思います。患者さんの友人であり身内であるのと同じような意識で患者さんを思おうとしていても、所詮は他人であり、所詮は「先生にはわからないよ」ということなのだと思います。

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お葬式に出る

「主治医が葬式や通夜に顔を出すと、何かやましいことがあるのではと勘ぐられる。だからよしたほうがいいと、たいていの医者は思っている。とんでもない誤解だ。家族からは感謝され、こちらの気持にもふんぎりがつく」

帚木蓬生(ははきぎほうせい)の「風花病棟」(新潮社)という短編小説集を読んでいます。その中にある「藤籠」という小説の中の一節です。少なくともわたしが働いてきた環境の中には、葬儀への参列をタブー視する風潮はありませんでした。ただ、受け持ち患者が亡くなったとしても、その居なくなったベッドにはすぐに次の重症患者さんが入り、次の患者さんと死闘を繰り広げることになるのです。平日に礼服を着て葬儀に参列する時間がもらえることは稀でした。

心停止を起こして救急車で担ぎ込まれるたびに生き返っていたIさんは、うちの自宅のすぐ近くに住んでいました。そのIさんが他の病院で亡くなりました。救急で近くの病院に担ぎ込まれて、うちの病院への転院を希望したいと奥さんから電話で相談を受けましたが、移送できるような状態ではありませんでした。仕事から帰ってから通夜に行きました。もう10年近く前のことです。奥さんは今も元気で一人暮らしをしています。

新聞のおくやみ欄を見ていて、外来で受け持っている患者さんの突然の死を知ることもあります。驚きます。Mさんはちょうど日曜だったので、大急ぎで斎場に行きました。奥さんをうちの病院で殺されたと云い、医者も看護師も信用できんと云いながら、なぜかわたしとはウマがあった爺ちゃんでした。いつも車椅子を押してくれていた付き添い婦の女性がわたしを見つけるなり駆け寄ってきて号泣しました。もうちょっと早く見つけたら助かったかもしれない、と自分を責めました。わたしは静かに合掌させていただきました。わたしもまた、わたし自身の区切りをつけるための参列だったかもしれません。

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「医と食」(後編)

冒頭にある「県談 栄養療法にのぞむ」の中で、医療界の重鎮たちが語っている予防医学や健康長寿の考え方は、まさしくわたしの思いと同じでとてもこころ強い気分になりました。メタボ対策に言及した折茂肇先生(健康科学大)の「・・・がんや動脈硬化性疾患を減らすには禁煙、節酒が最も重要で、太りすぎは困るけれども、ほかは関係ないというデータを津金先生たちが出しています。・・・とくに、糖尿病は別として、高齢者は痩せるとかえって悪い場合があります。免疫力が落ちてくるとか・・・ね。ある程度は太っているほうがいいのにそのへんのことを考慮せずにただ、痩せろ痩せろというのはおかしいですよ。・・・」ということば、あるいは渡邊昌先生(国立健康・栄養研究所)の「・・・英先生という方が食介護研究会の講演で緩和食という概念をお話しされました。在宅では食べられなくなっている人が大半だが、多少脱水気味で栄養不足になっていく人の方が安らかに鬼籍に入るというのです。・・・」ということばなど、ついつい仕事中であることを忘れて読み耽(ふけ)ってしまいました。

もうひとつ興味があるのは、この創刊号から「医療と哲学」という連載が始まることです。昭和大学藤が丘病院客員教授の出浦照国先生という方が執筆するそうです。これもまたわたしのこころをくすぐります。「医療の実践の現場において、十分な医学知識と緻密な科学的考察と熟練した技術と、この3条件がそろえばそれで十分なのであろうか?私は躊躇せず否と断言する。」このキッパリとした信念が好きです。医療に関わるどんな研究会や学会に行っても、「哲学」と名の付く内容が入り始めただけで途端に煙たい顔をする若い先生方、医学教育を司る大学病院の先生方や最先端医療に関わる大病院の先生方に、ぜひとも考えていただきたい内容だろうと推測しています。

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「医と食」(前編)

若いころ、「効果的な栄養補給の方法を並べろ」と云われたら、

1.中心静脈栄養(心臓に近いところの太い静脈にチューブを入れて点滴する)、2.末梢点滴(ふつうの栄養点滴)、3.経管チューブ(鼻から胃までチューブを入れて栄養する)、4.胃瘻(当時はまだ先端医療)、と答えたでしょう。

ニンゲンは「噛む」ことが重要で、それができなければ流動食でも良いから何とか口からモノを食べさせなさい。少なくとも胃を通して栄養を!という指導を受け、理屈では良く分かっているつもりでしたが、それでも十分計算された中心静脈栄養を点滴すれば、「元気になれる」と思っていました。

この歳になって、「食べる」ことの重要性がやっと実感として分かるようになりました。ニンゲンは「食べる」ことができなくなったら遅かれ早かれ死を迎えるのであり、最新の栄養学理論に従った完璧なる点滴がなされたとしても臓器は滅びの方向にしか向かわない。何よりも「気力」は生じない!ということを、臨床で頑張る若い先生方には強く伝えたいと感じています。

先日、「医と食」という雑誌(生命科学振興会)の創刊号が送られてきました。今、医者が「食べる」ことにきちんと目を向け、栄養スタッフに丸投げせずに自ら勉強し考えていく時代が来たことを感じて、嬉しく読ませてもらいました。

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コーチング

人間にはいくつかのタイプがあって、人が皆自分と同じように感じているとは限りません。相手を動かす場合には必ず自分のタイプと相手のタイプを知った上で、それぞれに合ったアプローチをすることが大切です。ということで、先日妻が買った「コーチング流タイプ分けを知ってアプローチしするとうまくいく」(鈴木義幸著、伊藤守監修、Discover21)という本を読みました。

コーチング(COACHING)というのは要するにコーチをすることなわけで、「人を育てること」と訳します。スポーツの技術向上、専門家としてのスキル向上、社会人としてのコミュニケーション技術の向上など、それぞれに多彩な使用法があります。馬車(COACH)が人やものをある場所から目的地に届けることから来ているのだとか。

人間は、「A.自己主張が強いか弱いか」と「B.感情表出が高いか低いか」で大きく4つのタイプに分けることができます。人も場も支配しようとする「コントローラー」はAが強くてBが低く、人に指図されるのが大嫌い。一国一城の主タイプで人に弱みを見せるのが苦手です。「プロモーター」はAが強くてBも高いタイプ。アイディアや想像力が豊富で人のモチベーションを上げるのが得意、注目されると一気に本領発揮できます。新しいことへの挑戦は好きですが飽きっぽいのが玉に瑕。人気者だが人の話は良く聞かないとも書いてあれました。一方、Aが弱くてBが高いのが「サポーター」です。俗に云う「いい人」タイプ。争いを嫌い、和を重んじ、ビジネスよりも人間関係優先。気配り上手で穏やかだがリスクを冒さず、常に人に関心を持たれたいと思い、無意識に相手からの見返りを求めているところがあります。もうひとつが「アナライザー」で、Aが弱くBも低いタイプです。アナライズとは分析するという意味で、物事を客観的にとらえて沈着冷静慎重派。多くの情報を集めてじっくり状況を分析し、計画を立ててからやっと行動を起すタイプで、変化や混乱に弱く、感情表現や大人数が苦手な傍観者と表現されていました。

長々と書いた割には分かりにくかったかもしれません。相手のタイプを知り、そのタイプに合った接し方や指導の仕方をすると上手くいくという話ですので、是非読んでみてください。ちなみに、妻に云わせると、わたしは典型的なアナライザータイプ(彼女は典型的なプロモータータイプ)なのだそうです。否定はしません。

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魔界水滸伝

どうしたことか、ある日突然「魔界水滸伝」がアタマに浮かんできました。栗本薫のSF小説「魔界水滸伝」を読み耽ったのは、ちょうど東京に住んでいたころでした。当時はまだ全巻が出終わっていなかったので、新しい巻が発売されるのをいつも心待ちにしていたのを思い出します。

この世のモノとは思えない風貌の地球外の神々の侵略を阻止すべく日本古来の神々が次々と目覚め、八百万の神々を従えて集結して戦う話なのですが、その展開のダイナミックさにいつもドキドキして読んでいました。最初のうちは人類を守るための戦いなのだろうと思っていましたが、徐々に神対神の戦いとなり、実体のない異次元空間の世界(魔界)が広がる中で「人類」は藻くずのように次々と消えていきました。スケールの大きな話になるに従って、ニンゲンであるわたしは、ちょっと切なくなっていきました。

世には「選ばれし人々」がおり、彼らは有事の際にこうやって隠していた能力を目覚めさせて勇敢に生き延びていくのだと思います。そんな超能力を持つのが「うちの妻でありその母親である」と信じていました(今もそうですが)。一方で、わたしのように何の取り柄もないニンゲンは、十把一絡げの集団の中の一人として、有事の際には最初に儚く消えていくのだと思います。だからこそ、読んでいくうちに徐々に主人公の普通のニンゲン「伊吹涼」に自分を重ねてのめり込んでいったのかもしれません。この小説を読んだ後に世紀末がやってきました。結局ノストラダムスの云うようなハルマゲドンはまだ起きていませんが、きっと「有事の時」はすぐそこに来ていることでしょう。わたしを取り巻く家族や親しい友人たちが皆「選ばれし人々」に見えます。

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みぞれ。そして光。(後編)

納棺夫の青木さんが何度も見たという「光」。何億年も前からいのちをつなげてきた卵をかかえて竹と竹の間を弱々しく飛んでいる糸とんぼに生命を感じ、腐乱死体のあった部屋の中を逃げまどう蛆たちの一匹一匹に生命を感じたとき、それが光って見えたという。多くの故人たちが、死を覚悟したときに世の中が突然明るく光って見えたという。

そして、親鸞上人がいう『仏は不可思議光如来なり、如来は光なり』という明快な説明。

その「光」を、理屈で理解しようとしてもさほど意味をもたないのだとわかりました。わたしが般若心経にとらわれ、それを理解したいと切望しながらもなかなか到達感を感じないのは、努力が足りないこともありますが、まだわたしがこの「光」を経験するときにないからでしょう。ふと思い出した光景があります。半年前、14年一緒だった愛犬が静かに息を引き取りました。母の死にも父の死にも立ち会えなかったわたしですが、彼が倒れてから7日間、時間の許す限り寄り添うことができました。最初に倒れた日に一緒にソファに寄り添って夜明けを迎えたときと、最期の朝を迎える前夜、暗闇の中で意識の遠のいた彼のカラダの中から魂が抜けたり戻ったりしている奇妙な感覚を覚えながら、彼のカラダがぼわっと仄白く光っていたような気がしました。

ここでいう「光」はそんなあやふやなものではなく、あのときはちょうど白々と明けようとする朝の光だったのであり、あるいは近くにあった熱帯魚の水槽の光だったのかもしれません。ただ、あのときにいつまでも流れた涙は、寂しさや悲しさではなく、何か感動と感謝に満ち溢れていました。そのことを、今もう一度思い出させてもらえたことに感謝して、再び熱いものを感じています。

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みぞれ。そして光。(前編)

「納棺夫日記(増補改訂版)」(青木新門 文春文庫)をやっと読み上げました。涙が止まりませんでした。出会いたい本にやっと出会ったという感覚がじわじわと湧き上がってきました。まだまだこの本に書かれているメッセージがカラダに染み込んでいく感覚にはなりきりませんが、これから何度も読んでいけばきっと、わたしがずっと探し求めてきたことへの答えを見出せるような気がしました。

何か書きたいのに、書こうとすると何も書けなくなるのがもどかしいです。だから、読み終えてすでに1週間経つのに書けずにいました。それでも、そろそろ何かを書かないと、逆に何もかもが薄れていく感覚にも苛まれて、重い腰をあげました。

「みぞれ」・・・英語にはそれに相当する単語がないというこの「みぞれ」ということばに、もの凄く惹かれました。雨でも雪でもない状態、しかも刻一刻と変化していく曖昧で不安定な現象は「無常」が理解できる日本人にはさほど抵抗のあることではありません。ただ、この表裏一体ともいえる「みぞれ」が、「生死」と同じであるということを理解するのはちょっとむずかしいかもしれません。ところが、『・・・特に仏教は、生死を一体としてとらえてきた。生と死の関係をみぞれの中の雨と雪の関係のようにとらえるなら<生死一如>=<みぞれ>であって、雨と雪を分けるとみぞれでなくなるというとらえ方である。』という文章に、「あ、そういうことか」と妙に合点がいったのであります。

『・・・みぞれの中で大根を洗うこの地方の老婆は、梢に残った木の葉が一枚落ちる度に、「なんまいだぶつ」と口ずさんでいる。・・・』の下りを読んでいて、不覚にも涙が流れ出てきてしまいました。

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からだの歌こころの歌

定期的に送られてくるMMJという医学雑誌があります。わたしはその中にある「からだの歌こころの歌」というコーナーが好きです。病気をテーマにした短歌を紹介するコーナーです。今回(2009.2号)のテーマは「認知症」でしたが、今まで以上に感じるところの多い歌でした。無許可ですが転記してしまいます。

●日の暮れて祖母の願ひは 「これみんな食べたら家に帰して下さい」(佐々木千代)

●あんた誰 口拭かれつつ吾に問ふ 祖母の笑顔の百歳ぞよし   (佐々木千代)

●祖母には祖母の正論があり呉服屋へにんじん買いにゆくと言い張る(後藤由紀恵)

●ものを忘れ執着心も薄れゆき こゑの可愛い老女となれり  (河野裕子)

●安らかにわたしの母は死んでほしい 私を忘れてしまつていいから (河野裕子)

わたしは、後藤由紀恵さんの歌が特に好きでした。

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「ニンジンから宇宙へ」

これもわたしが「変わり者の医者」になるきっかけになった本です。7年ほど前に友人から薦められて読みましたが、生きとし生けるものの生命力の大切さと深刻さを痛感した記憶があります。久しぶりに書棚から出して読んでみたくなりました。

書いたのは大分県野津町の「なずな園」というところで農業を営んでいる赤峰勝人さんです。生きるべきものが「生きていない」ことを嘆いています。「今の地球で、いちばん壊れているもの。いちばん、修復しなければならないもの。それは、循環です。」「循環しているのは何でしょうか。そう、「命」です。命のエネルギーが循環しているのです。」「この宇宙の中で、循環していないものはすべて間違っている。」・・・皆さんは、これを読んで何を云っているのかわかりますか?・・・こんなことはわたしたちが医学教育を受けた昔、自然界では当たり前の常識だった気がします。「食物連鎖」ということばを知らない若者が思いの外多いのに愕然とします。わたしが学生のころ、自然界はこの食物連鎖があるから成立しているのであり、どこで切れても生物のバランスは必ず壊れる、と教わりました。これこそ「循環」の最たるものでしょう。

でも今、循環などしていません。不衛生だからという理由で水洗トイレにした時点から連鎖はありません。自然の浄化力も消失しました。だから食べ物は生きていません。主成分を元に「効率のよい食品」を工場で作るようになって、見た目が同じ様に見えても私たちが昔食べたことのあるものとは全く違うことを実感します。「塩」は塩化ナトリウムとイコールではありません。塩化ナトリウムと違って自然塩では高血圧にならないとまで云われます。雑草はムダな草ではありません。草は土の中からカルシウムを集める仕事をしています。人間のカラダも含めて、自然界にムダなものなど存在しないのだということをこの本で教わりました。

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新美南吉童話集

わたしの新美南吉のイメージは、「端正な甘いマスク」。29歳で亡くなっていることもあって何か軟弱な優男の印象があり、実はあまり興味がありませんでした(わたしは面食いですが、元気が良いことが必須条件なのです)。もっとも、「童話なんて子どものお遊び」という先入観があったからかもしれません。

先日NHKラジオで新美南吉の紹介(以前「家守綺譚」の紹介をした番組)を聴いて、急に読んでみたくなり、代表作14編を集めた小さな文庫本(岩波文庫)を手に入れました。少々不思議な感じがしました。「童話」って子どもたちに読ませる教訓を交えた寓話だと解釈していましたが、新美南吉のそれの多くは童話というよりも小説、あるいは随筆のようなものです。子どもより大人の方が感じるものが多いように思いました。

ごん狐」や「手袋を買いに」はこんなにタンパクな文章だとは思いませんでした。むしろ世間にある解説文の方がはるかに劇的にオチを紹介しています。そっちを読んでなかったら、「だから何?」と云いたくなるようなメリハリのない文章でした。「牛をつないだ椿の木」は国語の教科書か何かで読んだことがあります。子どものころ、「なんと道徳的な話だろう、世の中そうは甘くないぞ」と思った記憶があります。不思議なものです。同じものを読んで、今は「自分のことばかり考えている人生を送っても徳はないな」と思うようになった自分があります。「百姓の足、坊さんの足」「花のき村と盗人たち」は本当に「心の純粋さ」っていいなと感じました。子どものころに感じてほしい感覚をむしろこの歳になって切々と感じるようになるというのは、やはり人生経験でしょうか。

今だから、読んで感じられる、そんな本のように思いました。長くなったので、一番好きだった「屁」と二番目に好きだった「狐」の話は止めておきましょう。読んでみたくなった方は、この機会に是非。出合いは縁です。

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ジャマイカ精神

「巨人性うつと阪神性不安」(石蔵文信著)は、文章がとても面白い。巨人ファンと阪神ファンのファン心理の特徴をうまく捉えて、「あるあるあるある」と机を叩きそうなエピソードのまぶし方が絶妙で、さらに関西人特有の軽いタッチの割り切り方が心地よいのです。わたしもこんな文章を書いてみたいな、と思うのです(内容よりも文面に憧れる、って医者としてどうよ?)。是非とも、うつで悩んでいる皆さんやパニック障害・不安神経症で通院している方は読んでみてください。「そうそう!わかる!」と妙に元気良く相づちを打てると思います。

ご多分に漏れず、わたしは典型的な「巨人型うつ」パターンです。巨人には何の興味もないのですが・・・。ちゃんとできて当たり前。成功はしたけどちょっと気になる部分があると何故そうなったかを解決させないと落ち着きません。その一方で、「阪神性不安」=ガスの元栓は切ったかな、電気は切ったかな、待ち合わせの時間は間違いなかったかな・・・まさしく「強迫性障害」と「心配性」のちょうど境目あたりで生きています。

そんな本の最終章(9回:野球のイニングのように9章に分けられています。延長戦は想定されていないようです)に「ジャマイカ精神で行こう!」という文章がありました。ジャマイカ人のようにのんびりと?・・・わたしも石蔵先生と同じことを発想しました。でもそうじゃなくて、あまり几帳面に構えすぎず、あまり不安になりすぎず、「じゃ、まー、いいか」と少し肩の力を抜きましょう!というのです。・・・「どっかで使えるぞ、このオヤジギャグ的発想!」ということで、とりあえずここにメモをしておきました。

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人間は定位置にいないと落ち着かない

「巨人性うつと阪神性不安」という本を読みました。男性更年期外来をしている心臓屋の医者(大阪大学石蔵文信先生)が書いた、とても楽しい本です。

読売巨人軍(とそのファン)は、常に勝つことを義務付けられている(と思いこんでいる)。幸せ慣れした人は突然の不幸に弱く、些細なことに傷つく。つまずいたことのない人は転び方がわからずに大怪我をする! それが「巨人性うつ」なのだそうです。「つまずいたら、つまずく前のように走ろうと無理をしてはいけない。少し症状が良くなると、すぐ元のように働こうとする。そして、ぶり返して元の木阿弥になるのである。」・・・典型的なうつ病の経過を、見事に巨人ファンの心理を通して解説しておりました。

一方、阪神です。実はこの本が書かれた2003年、阪神は18年ぶりの優勝を果たします。「いつも負けているのに今年は優勝するかもしれない?」・・・そんな絶好調の真っ只中での阪神(とそのファン)の心理です。慣れない幸せに恵まれると落ち着かない、不安でたまらない。今日は良いけど明日から全部負けるかもしれない。この幸せの先にもっと大きな不幸があるかもしれない!といつも不安に思うのです。これが「阪神性不安」です。不安になると過去の失敗ばかりに気をとられて「また失敗するのではないか」と悪い予感にとらわれる。これを避けるには過去の良いことばかり思い出せばいい。「バース、掛布、岡田のバックスクリーン三連続本塁打」・・・関西では年中このシーンばかり流れるらしい、と書かれていました。超楽勝だと思われた昨シーズン、阪神はウソのような大逆転で優勝を逃しました。この本を読みながら、阪神ファンにまたまた完全なるトラウマの伝説を植え付けることになったんだろうなと思いました。

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「学術の動向」

以前、メタボリックシンドロームに対する運動療法について独立行政法人国立健康・栄養研究所の田畑泉先生にご講演をいただいたときに、ネット検索をしていてこの雑誌の存在を知りました。その名が「学術の動向」http://www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/です。日本学術協力財団 という団体が出している月刊誌です。その名の通り、日本で行われている科学や学術の講演会・シンポジウムの内容がタイムリーにしかも事細かに載っています。何が凄いって、1冊756円のその雑誌に掲載された文章のうち、特集の記事はすべてがPDFの形で全文掲載されているのです。田畑先生のお話は2006年5月号の「ライフスタイルと健康」という特集の中で「身体活動の増加は健康増進にどこまで貢献できるか-そのエビデンス-」という形で載っていましたので、印刷して前もって予習することができました。

あのときにその周辺の記事も読ませてもらいましたが、どれもとても面白かった記憶があります。そのときにはたしか、「ライフスタイルと健康」(2006年5月号)と「スポーツの科学」(2006年10月号)を読みました。とてもタメになりました。メタボや運動に携わる仕事をしている方は必見です(くどいようですが、無料です)。

医療関係者の方(あるいは内容に興味がある方)で、トピックスな考え方を知りたいと思ったら調べるときにちょっと覗いてみてください。バックナンバーも全部掲載されています。ちょっとばかりマニアックな世界にハマれるかもしれません。

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「認知症と診断されたあなたへ」

先日の核医学学会の書籍コーナーに並んでいた本です。そのときには買いませんでしたが、妙に気になって結局Amazonで購入しました。

「認知症と診断されたあなたへ」(医学書院)小澤勲、黒川由紀子

「家族、介護者、専門職が読む本はたくさんある。あんなにたくさん本屋さんに並んでいるのに、私たちが読む本がない」・・・認知症の患者さんが訴えたこの叫びに対して、その答えとして作られた本です。ですから、読者は認知症を患っているご本人です。他人事のような書き方をしましたが、最近やや病的な健忘に心当たりが出始めてきた自分としては、我が身のために買ってみました。認知症は究極の「不治の病」として、宣告された途端に自分の存在を否定され人格までもを奪いとられてしまう(と思いこまされている)現実があります。病気自体が抱える問題よりもその誤解だらけの社会に大きな不安をいだいているのが真実でしょう。急に家族にやさしくされ始めた寂しさと不自由さはやはり本人にしかわからない気がします。医者であるわたしにはあまり目新しい内容はありませんでしたが、最終章で黒川先生が書き綴った「認知症のわたしから家族へのメッセージ」には深い真実が込められていると思いました。「受容なんて、できません」「不安でたまらない」「仲間はずれにしないで」「顔を見て話してください」「ありがとう」など、見出しだけでも心情が伺えます。この中で、「顔を見て話してください」はドキッとしました。・・・診察室で一緒に行った弟が「姉はアルツハイマー病の診断を受けています」と云った途端、医者がわたしを一度も見てくれないのです。とうとう最後まで、診察が終わるまで一度も顔を見てくれませんでした。・・・みんなが「どうせ分からないから話しても無駄だ」って思ってる。情けなくて、情けなくて・・・わたしはどうしただろうか?自信がありません。

認知症になるとはどんなことか、むしろ一般の多くの人が読んで同じ感覚を味わって貰えたらいいなと思いました。

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ことばっていいな。

ある青年が、わたしのブログを気に入ってくれました。先日、鎌田先生の紹介をしたら、早速仕事帰りに本屋に寄って何冊か先生の著書を買ってくれました。その話を聞いて、ついついわたしもAmazonを検索してしまいました。

「がんばらない」「それでもやっぱりがんばらない」「なげださない」・・・不思議なことに、中古本は、文庫本より単行本の方がはるかに安いのですね。送料の方が10倍高い中古本をまとめて注文してしまいました。

以前、「あきらめない」を読んで、ヤバイと思いました。仕事の合間に読んでいると溢れてくる涙が多すぎて仕事にならないのです。目を腫らして鼻声でいては、「何か悲しいことでも?」と受診者に心配されるのがオチです。だからあえて先生の他の本を買わないようにしていました。・・・あ~、当たり前のことではありますけれど、どの本を開けても、やさしいことばに溢れていました。

またしても、撃沈!

つくづく「ことば」っていいな!と思います。鎌田先生の本に共通するのは「こころ」の大切さを「ことば」のやさしさで包み込んでいることでしょうか。「医学が科学かどうか」の論議が医学を飛躍的に発展させました。でもその一方で、「医学は科学である」という発想が結果として人間を置き去りにし医学を衰退させたのだと思います。鎌田先生の文章を読んでいると、「医学が科学かどうか」なんて、どうでもいい話のような気がしてきます。きっととても大切なことなのでしょうけれど。

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白衣

Medical ASAHI 10月号に「在宅医療の最前線」という特集がありました。仙台で往診専門のクリニックを開いている川島孝一郎先生は白衣を着ません。先生の話にはとても共感できるものがありましたので、そのまま書き写します。

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(前略)・・・「一般病院の外来にいた時、医師が白衣を着て患者に平然と意志決定をさせるシーンを見て、『それはないだろう』と思いました。白衣そのもので、患者には相当の心理負担がかかっているはずなのに、医師は全く気づいていないのです。医師は患者との関係性を無視して、『あなたが選んでください』と選択肢を与える。そのとたんに患者は選択肢との格闘を始めなければなりません。患者が望むのは医者との直接の関係性であり、『私が生きられる方法を一緒に選んでほしい』ということであるはずです」

日本は「治す医療」に関して世界最高のレベルにある。ところが、これまでの医療は治る見込みのない重症者に対して非常に冷たかった。治る可能性に満ちたものを「価値が高い」とし、治る可能性の乏しいものを「価値が低い」とする比較論の所産だ。ここに説明不足が生み出される要因があると考えられる。

「治らない人たちに必要なのは『支える医療』であり、『どのように残された日々を生きていくか』という生き方を示すことです。そうでないと、この人たちは右往左往する。ところが医者は疾病論、症候論で病気の説明しかしません。本当の説明と決定は、白衣を着けない医師と患者が互いに相手を思いやる関係性の中で成立するものです」・・・(後略)

                         Medical ASAHI 2008,Oct.16-19

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慈しむ。

「からくりからくさ」(梨木香歩)を読みました。日本人間ドック学会のあった徳島は熊本からはとても遠く、450頁弱の小説を読むのに片道6時間のJRの旅は十分でした。

主人公の蓉子という女性を「自分は気付かずに、いろんな命を育んだり慈しんだりしている女性」と評しています。「・・・慈しむとか、大切にするとか、尊ぶとか、そういうことが、観念ではなく、出てくるのよ・・・。それは、りかさんだけじゃないんだ。この家の一人一人に対して、草木に対してさえ、蓉子さんはいつもそうだった。」・・・わたしは常々、人間の(あるいは生きるもの全ての)根底に流れる最も重要なことは、この「慈しむ心」だと思っていましたので、その文言が突然目の中に入ってきて、驚きました。わたしは読むべくしてこの小説を読んだのだと思いました。

サッカー応援の友人に、そんな蓉子さんのような人がいます(男性ですが)。人間の本質は「慈しむ心」だと思っているわたしではありますが、それを身体で表現することがなかなかできません。それを彼は普通にできます。彼は常日頃から、いつもぶつぶつ文句ばかり云っています。でも、たとえば九石ドーム(J1大分トリニータのホームです)で、雨に濡れそうになって戸惑っている身障者を見かけたら走っていって傘を差し出し、車に乗るのを手伝います。たとえば九石ドームで迷子になって泣いている子どもがいたら必ず声をかけて、安心させながらスタッフに渡します。肉親でもないのに、「お世話になったから」という理由だけで縁者の居ない墓参りを続けます。そういうことを「普通のこと」として簡単にやってのける姿を何度も見かけてきました。彼の人生を一言で表現するなら、迷わず「慈しむ」を選びます。「僕は好き嫌いが激しいからね」と云い、頑固オヤジであることは自他共に認めます。でも、その頑固さが「慈しみ」に満ちていることを、周りの人間は皆がわかっています。こんな人間になりたい。間違いなく、わたしの憧れの姿です。

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循環器診療ポケットマニュアル

先日、あるMRさんから「循環器診療ポケットマニュアル」をいただきました。今年の6月30日に最新版(第9版)が発行されたばかりのようです。初版は、わたしが医者になって数年後くらいに初めて発行されています。歴史の古いマニュアルです。

内容は、循環器診療にあたる医者がすぐに参考にできるように、循環器疾患に関連する診断基準やガイドラインや治療法やが1ページ1項目の簡便さで書かれているものです。さすがに1ページに詰め込みすぎて年寄りの目には辛い小さな活字の表もありますが、相変わらず実用的な内容になっていると思いました。

そんな最新版をパラパラっとめくってみて、現代医療がしっかりと全人的診療の方向に進んでいることを実感しました。以前は、まさしく循環器専門医が知るべき専門領域の内容ばかりが並んでいました。ところが、今回の改訂で目を引いたのは、動脈硬化疾患の予防という大きな概念が基本に流れていることでした。高血圧・糖尿病・脂質異常症などの各疾患の最新のガイドラインが並んでいるだけでなく、「メタボリックシンドロームの診断」「動脈硬化症の予防概念」「慢性腎臓病(CKD)の診断と治療」そして「禁煙指導プログラム」といった、直接外来治療に絡まない分野まできちんとまとめられています。

正直なところ、初版の頃のマニュアルはわたしには存在価値のないものでした。循環器専門医である以上、ここに並んでいる程度の内容は常識でしたから。でも、今回の最新版は、わたしたちのような過去の専門医に有用なだけでなく、現在の循環器専門医こそが苦手としている分野をきれいに整理してくれていると感心しました。

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こっち側、向こう側、境界線

「家守綺譚」で梨木香歩にはまり、一緒にたくさん買った本の中から「ぐるりのこと」を読みましたが、残念ながら、この随筆はほとんどわたしの頭に留まってくれませんでした。字面をしっかり追っているのに全く頭に入らずに素通りすることってありますね。

この「ぐるりのこと」を読んでいると、「向こう側とこちら側とそのどちらでもない境界線」の概念が随所に顔を出し、いろいろと思いを巡らせました。断崖絶壁や生死の境のように、ONとOFF、有りか無しかの二者択一が本当に必要なことは現実には思っているほど多くないように思いますが、「それをスッパリ割り切ってどちらかに決められる人間が素晴らしいのだ」という風潮はわたしはとても苦手です。白でも黒でもない灰色、この曖昧なものの存在を無理してどっちかの色に染め直させる必要などあるのでしょうか?真実はひとつなのだろうけれど、灰色というのも立派な真実であり、灰色は白か黒になる途中の一時的な色ではなくてそのままずっと灰色であって何か問題があるのでしょうか?

また次の瞬間にはこんなことを考えました。こっち(自分のもの)とあっち(他人のもの)の区別をしたとき、あっちのことは何も分かりません。死後の世界がどんななのか、断崖を飛び降りたらどうなるのか、相手の心はどう動いたのか、壁の向こうでは何をしているのか、こっちとあっちの境目はすっぱり分かれるのに、その「境目」には何があるのだろう?一度「あっち」を経験してしまうと、「あっち」は「こっち」になり、そうすると分かれ目が分からなくなってきて・・・。

こんな脈絡のない内容がどんどん頭に流れ込んできました。こんなことで頭が支配されているのだから、本の内容が何も頭に入っていかないのも無理はないか。

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「リセット禁煙のすすめ」

乗りかかった船なので、磯村先生の「リセット禁煙」の話を続けます。講演会のアンケートにお答えしたらその翌朝にはメールが届き、1週間後には「リセット禁煙のすすめ」(東京六法出版、500円+送料160円)が届きました(http://www.t-roppo.com)。

「まだ禁煙するな!この本をきちんと読み終わるまでは禁煙をするな!」と云い切るこの500円の本は、なかなか魅力的です。「タバコについての気づき、5~6回の気づきの連鎖反応を起こすことでそれまでのタバコに関する誤った思いこみをすべてリセットして、タバコの真の姿を理解する。もともと渇望して吸っているわけではないタバコなので、自然に吸う気がなくなってしまう。」・・・これが「リセット禁煙法」なのだそうです。この方法は、禁煙成功率もさることながら、再喫煙率が驚異的に低いことで脚光を浴びています。それは努力型禁煙法ではないからだそうです。

酒の席しか吸わないから「ほとんど禁煙した」という人は、禁煙することを諦めた人だ。本数が減るほどタバコはおいしくなる。「軽いタバコ」はフィルター付近の穴の大きさが大きいだけで葉っぱは同じ、実際に吸うときにはその穴を潰すから本当は軽くない。メンソールタバコは初めて吸ってもむせない様な麻酔薬が入っている。・・・本題とはあまり関係ないけどこんな話をちょっと面白く思いながら読みます。失恋した相手を忘れようとするのがこれまでの努力型禁煙法だ。タバコを忘れるために飴玉を舐めても止められないのは楽しくないから当たり前。タバコは完璧な詐欺師だ。なかなか語録が多すぎて書きつくせません。

「8月1日から禁煙を始めます」とわたしに宣言してくれた若手職員の男性がいましたので、この本を貸してあげました。

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「家守綺譚」

「家守綺譚(いえもりきたん)」(梨木香歩著)を読みました。先日、運転中に紹介されたのを聴いて、まるで憑かれたように読みたくなりました。推理小説でもサスペンス小説でも純愛小説でもない、こんな不思議な小説を読むのは本当に久しぶりでした。

綿貫征四郎という売れない物書きの主人公が、亡き学友の実家を守るわけですが、とにかく出てくるものが妖怪だらけ。狸や河童だけでなく花や草木や鳥たちといったあらゆる自然界の精霊たちが彼に絡んできます。死んだはずの学友も平然と掛け軸から出てきます。大の大人がカワウソの孫だったりします。それを、主人公も隣りのおばさんや寺の和尚も全く当たり前のことのように悠然と受け入れている。奇妙な物語(=奇譚)ですが、この不思議な空気がとても心地良く、一気に読み上げてしまいました。ちょうど、先週末にテレビで見た「となりのトトロ」と同じです。トトロの世界でも精霊たちは人間と共存し見守ってくれています。トトロでは精霊が見えるのは子どもたちだけですが、でも周りの大人たちはみんなその存在を認めています。

わたしはどこかでこんな人生に憧れています。守る家で悠々自適に生きる生き方にも、自分の周りの自然界にそのまま同化してしまいそうな生き方にも憧れています。というより精霊たちに認められた綿貫征四郎に嫉妬してしまいます。きっと昔の日本はどこでもこんなもんだったのではないかと思います。幼稚園に上がる前、田舎の父の実家にばあちゃんと住んでいた頃、わたしはそんな精霊や妖怪たちに出会っていたような気がします。先日、法事で田舎に行きました。もはや家も道も変わっていましたが、合間に裏の田圃のあぜ道に出てみたら、何かが木陰でわたしを覗いているような気がして、とても懐かしい感覚になったのを覚えています。

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論語・為政第二

40歳の別名を「不惑」と云います。

「40歳は初老!~厄払いの意義を考える」の講演資料を調べていて、これが 「論語・為政第二」にある有名な一節だということも知りました(世間では常識なのかもしれませんが)。http://www.benricho.org/koyomi/nenrei_isyo.html#ron

子曰,「吾十有五而志於学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲,不踰矩。」

われ、十五にして学に志す(学問で身を立てる決心をする)。三十にして立つ(独り立ちする)。四十にして惑わず(心の迷いがなくなる)。五十にして天命を知る(天が与えたもうた使命を自覚する)。六十にして耳に従う(何でも素直に聞き入れる)。七十にして心の欲するところに従えども矩をこえず(思い通りにしても人の道を踏み外すことはない)。

自らに問うてみます。時代が違うとはいえ、40歳ですでに「狭い考え方にとらわれずに迷いがなくなる」というのは、さすがにスーパーマン孔子様ならではであって、凡人のなせる技ではありませんね。自分の人生を考えると、むしろ40歳ころから心の迷いがコンコンと湧き出て頭を悩ませることになりました。若い頃にしっかり学んでない未熟者の人間の宿命なのかもしれません。

30歳=「而立」、50歳=「知命」、60歳=「耳順」、70歳=「従心」、この機会にひとつ学びました。

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前向きに生きる

職場のスタッフルームにずっと置かれている小さな青色の文庫本。いつも弁当を食べながらぼーっと眺めていました。「前向きに生きる」という題名と「弱気になってはだめです」という帯の文字が目に入ってきます。昨日、何となくそれを手に取ってみました。

「前向きに生きる」早崎和也著(1999年5月発行・熊日新書)。

あ!わたしの恩師(http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/2008/02/post_46ca.html 2008.2.18)の本だ!冒頭にある※「別れの言葉」は、葬儀の日に流された肉声テープを起こしたものでした。彼の告別式に参列した人以外には想像ができないかもしれません。病気の宣告を受けた数日後に、頭がしっかりしているうちにと自ら録音テープに吹き込んだ、自分の将来の葬儀参列者に宛てたメッセージです。その後は壮絶な腫瘍との闘いでしたが、その合間に日記のように綴られた「生きる」ことへの思いが切々と収められている本です。帯に書かれている通り、「自らの死に直面した時、著者は何を考え、どんな行動をとったのか。」・・・ロマンチストであり人生の美学を貫いた恩師らしく、本当に冷静に淡々と書かれています。

調べてみたら、残念ながらどこの書店も絶版扱いになっていました。もしご縁がありましたら読んでみてください。ところで、どうしてわたしはこの本に今再会したのでしょうか?誰がここに置いたのかも知りません。きっとここのスタッフの多くが著者のことを直接知らないはずです。わたしに再会させるためにここにあったのかもしれません。久しぶりに再読してみましょうか。

※「別れの言葉」(http://www.geocities.co.jp/HeartLand/2989/yourlife.html):あるドクターのHPにこんなページをみつけました。誤字脱字ばかりなのが残念です。かなり急いでいたのか、あるいは書き写しながら涙してしまったのか・・・。

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太るのをやめればいい。

「レコーディング・ダイエット法」で1年に50kgの減量をした経験をもとに書いた「いつまでもデブと思うなよ」(新潮新書)がベストセラーになった岡田斗司夫さんのインタビュー記事が、先日届いたMedical ASAHI (April 2008)に載っていたので興味深く読ませてもらいました。とても共感できることがたくさん書かれていました。

「ダイエット失敗の一番の原因は、本人が痩せようとすることだと思います。(中略)痩せようと試みず、太るのをやめればいいのです。」ということばに、その通り!と思いました。その他の気に入った語録を並べてみます(許可なく勝手に転載しても良いのかな?)

「太る原因は全員違うので、自分が自分の専門家になることです。」「僕のダイエット法の基本は、無駄なカロリーを摂らず、欲しいものしか食べないことです。」「ダイエットも後半になって、栄養のバランスを取ったほうが、実はお腹がすきにくいということを発見しました。(中略)最初からバランスの良い食事を心掛けましょうと言われていたら、挫折していたと思います。」「何かを延ばしたら何かが失われると思います。(中略)寿命を延ばせば延ばすだけ、寿命に合わせて生活を設計しなければならなくなるので不便です。」「痩せるスピードが速ければ速いほど、金利の高いサラ金で体重を借金しているみたいなもので、無理がきます。」「この人(スナック菓子で太っている人)はスナック菓子とどう付き合うかがテーマなのです。スナック菓子をやめてしまってはだめです。(中略)いかにおいしくスナック菓子を食べてもらうかがテーマなんですよ。」

興味のある方はご購入あれ!

●「いつまでもデブと思うなよ」(新潮新書227:2007/8/16)●このメモ帳でやせる 「いつまでもデブと思うなよ」実践ガイド 2008年 04月号

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生きがいの創造

先日、本屋で久々に「生きがいの創造」を見かけました(飯田史彦、PHP文庫)。「決定版」と冠がついて妙に分厚い本に変わって棚に並んでいましたhttp://www.bk1.jp/product/02712415 。

私がこの本の初版に出会ったのはもう10年以上前になります。その後生きがい3部作などとも呼ばれる続編が発行され、著者である飯田先生は後になるほど完成品だと主張していました。「決定版」もかなり手を加えたようで、できたら最初に出した本は全部回収したいくらいだとも。でも、私は、その最初に書かれた本が一番気に入っています(後半1/3くらいは諄くてたまりませんでしたが)。その後に書かれたものはどうしても心を動かしてくれませんでした http://www.nnet.ne.jp/~edison/mylife/Lifeindex.html 。

簡単に云うと、「自分の人生で直面するすべての試練は、自分が生まれる前に、人生の中の登場人物たちと共同して自分でプログラムしたもので、実際にそれを乗り越えられるか、この世で試してみているのだ」という説です。

この手の話を、科学的でないとか、うさんくさいとか、世を惑わすとか批判を浴びせる人はたくさんいますが、私はそんなことはどうでも良いと思います。気に入らない人は無視しておけばいいことで、いちいち捨てぜりふを残していく意味がないように思います。私は、たまたま(必然かな)この本に出会った直後に恩師の死と同僚の死を続けて経験しました。彼らと一緒に計画した試練ならやってみようか、そう思えたから何とか乗り越えられたもので、まさしく1年ずれていたら立ち直れなかったかもしれません。私には恩人のような本です。

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「心臓の暗号」

せっかく埃の中から引っ張り出した本なので、各章の頭に書かれた名言を写してみました。全14個のうち私が気に入った9個だけを並べてみます。サイエンスの本なのに、科学と云うより心理学や哲学や宗教学に通じるものが多く、私はつくづく理系ではないなと思います。

●「心はわかっていても、頭は否定する。ほかに方法があるだろうか?」(スティーブン・ソンダイム)

●「心臓にはそれなりの道理がある。ただ道理のほうが気づいていないだけだ」(ブレーズ・パスカル)

●「自然の法則を越えるような奇跡は存在しない。奇跡とは、自然の法則に関する我々の知識を超えて起こるものを指しているだけだ」(聖アウグスティヌス)

●「氷になってしまった水は、かつて水だったことを覚えているだろうか?」(カール・サンドバーグ)

●「私はなんとすばらしい人生を生きてきたのか!願わくば、もっと早くそのことに気づきたかった」(コレット)

●「真の発見の旅とは、新しい大地を探しもとめることではなく、新しい目でものを見ることだ」(マルセル・プルートス)

●「この世にあるすべてのものには、隠された意味がある。人間、動物、樹木、星、すべては何かの象徴だ」(ニコス・カザンザキス「その男ゾルバ」より)

●「二つの人格の出会いは、ちょうど異なる化学物質の接触のようだ。反応が起これば、どちらも変質する」(カール・ユング)

●「良かれと思うことを心に押しつけるのをやめれば、心は魔法を降りそそぐ。苦痛のさなかにあっても、歓喜の瞬間へいざなってくれるはずだ」(トマス・ムーア)

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産経新聞社

昨日、私宛に産経新聞社の封筒に入った郵便物が届きました。以前、メタボリックシンドローム撲滅委員会が行った「特定健診・特定保健指導」に関するアンケートにお答えしたことがありましたが、厳選な抽選の結果(ホントかいな?)私が当選したそうで、5000円の図書カードと一冊の文庫本が送られてきたのです。

本の題名は『専門医がすすめる「特定健診・メタボ」攻略法』(和田高士先生著)。これから始まる特定健診・特定保健指導に対する一般の方向けのハウツー本です。http://www.ascii.co.jp/books/books/detail/978-4-7561-5054-7.shtml

この時期、厚生労働省や各自治体、国保連合会や共済組合などの各組織、あるいは多くの健診機関から、「4月から始まる特定健診・特定保健指導とは何ぞや?」という内容の文書が溢れるほど出てきています。もちろんうちの施設でも作っています。ただ、うんざりするほど似たような面白くない文章が並び、読んでいてもすぐに頭の中は混乱してしまい、明らかな拒絶反応を起こすこと必至の状態です。それでなくてもまだ混沌としている中での見切り発車なのに、する側もされる側も、始まる前から憂鬱になってしまいそうです。

そんな中、この本は何だかちょっと違うみたい。陳腐な題名ですし、書店の店頭に並んでいてもきっと手に取らないだろう地味な体裁で、今回のように勝手に送られて来てなかったら絶対読んでなかったでしょう。でも、この東京慈恵会医科大学新橋健診センターの和田先生の文章は、学者さんのものとは思えない分かりやすさで、簡単に入り込んでいける印象です。こういう先生はきっとお話も上手いのでしょう。残念ながら、手に入れた直後にうちの某保健師さんに持って行かれましたので細かく読めるのは来週になりそうですが、どうせ読むなら、この本、断然お薦めです。

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